黒い染み

二ノ前はじめ@ninomaehajime

黒い染み

 椅子が倒れている。

 デスクトップパソコンが載った机から離れ、空のペットボトルや菓子の袋、漫画雑誌が散乱した部屋の中央で自分の椅子が横倒しになっている。所定の位置から明らかに移動しており、そのことが気になって仕方ない。なのに、ベッドの上で動く気力が湧かなかった。

 遮光カーテンを閉め切った室内は薄暗い。朝や夕方などは、窓の外から自宅の前を行き来する会社員や学生たちのわずらわしい喧噪が届くはずなのに、ここしばらく彼らの声を聞いていない。それどころか自動車の一台さえも通らないのだ。

 二階の窓の隙間から家の外を見下ろした。電信柱が立ち並ぶ道路に、白線が引かれている。仰いだ空はにごっており、住宅街の景色はまるで変化がなかった。ただ人の姿がなく、電線に留まる小鳥の声さえも途絶えている。

 いつもなら決まった時間に母親が食事を運んでくるのに、ドアの向こうは沈黙をたたえていた。何度か癇癪かんしゃくを起こして、床を踏み鳴らした。階下にいるならこれで聞こえるはずだ。すぐにご機嫌取りに伺うはずの気弱な母親は、いつまで経っても訪れる気配はなかった。

 かすみがかかった頭を働かせて、災害の発生を疑った。自分が就寝中に大きな地震でも起きて、住宅街の連中は避難したのではないか。携帯電話を所持していないことが悔やまれた。何年も部屋に閉じこもり、食事の用意や買い物は全て母親に頼った。それで事足りた。

 大規模な災害が起きたにしても、現実的ではない。いくら己が鈍感であっても、全ての住民が姿を消すほどの異変に気づかないとは考えにくいからだ。何にしても情報が必要である。気怠けだるい体を引きずって、ベッドからフローリングの床を這いずった。パソコンがある机までようやく辿り着き、電源をける。モニターは暗いままだ。どうやら電力を絶たれているらしい。

 手詰まりになり、再びベッドの上に戻って両膝を抱えた。不思議なことに空腹を覚えることはなかった。カーテンの隙間から漏れる陽光もどこか仄暗く、昼や夜もない。流石さすがに異常事態なのは理解できた。

 一体何が起きているのだろう。他の人間など消えてしまえば良いと思っていたのに、いざそうなってしまうとどうすればいいかわからない。いや、この状況を打破だはする方法はわかっていた。鬱陶うっとうしく伸びた前髪の隙間から、閉じられたドアをめつけた。あそこを開けて、外に出れば何が起きたのか知ることができるはずだ。

 いざ実行に移そうとすると、ひど倦怠けんたい感が全身を襲った。手足が重い。あのドアを開けて外に出ることを本能的に拒否していた。何か取り返しのつかないことになる気がした。

 行動することもできず、結局ベッドの上でまんじりともせずにいた。布団を被って現状から逃れようとしても、眠気さえ湧いてこない。まるで死人だ、と力なく自嘲した。

 しばらく鏡を見ていない。きっと濁り切っているであろう瞳に映ったのは、床の一点にこびりついた黒い染みだった。気づかないうちにコーヒーでもこぼしただろうか。それにしては、妙にざらついた印象を受けた。

 一体、何なのだろう。その正体を深く考える前に、ひさしく働いていなかった聴覚が物音を捉えた。誰かが階段を上ってきている。怒りか喜びか、頭が火照ほてった。この家で二階に用があるのは、母親に他ならない。

 二階に到着した足音が近づいてくる。素足であるはずの母にしては、妙に間の抜けた間隔で廊下が鳴った。軽快な足取りも今は気にならなかった。

 いつまでも自分の息子を放っておきやがって。

 足音の主は部屋まで来ると、ドアを叩いた。軽い音で、三回。ほとんど反射的に、近くにあった雑誌を投げつけた。

「おい、ばばあ。何で呼んでもすぐ来ねえんだよ」

 怒りに任せて怒鳴り散らす。いつもなら、すぐにしどろもどろとした言い訳が述べられるはずだった。ところが、ドアの向こうにいるはずの母親は何も答えない。

「黙ってないで何とか言えよ」

 さらに声を張り上げた。返ってきたのは、予想外の声だった。

「……わあ、びっくりした。急に大声出さないでよね」

 聞き覚えのない、少女の声だった。身を乗り出した姿勢のまま凍りつく。家にいるはずのない第三者が、今自分の部屋の前に立っている。

「だ、誰だ。ここは、俺の家だ、ぞ」

 舌がもつれた。何年も赤の他人とは喋っていなかったから、顎が強張こわばっていた。

 ドアの向こうにいる、見えない少女は「あはっ」と笑った。



 薄いドア一枚を隔てて、得体の知れない少女と向き合った。

「何だよ、お前。どこから、入ってきた」

 自分に兄弟はいない。近所の子供が勝手に入りこんできたのか。戸締まりはどうなっている。ここにはいない母親に対して、怒りをつのらせた。

 部屋のすぐ目の前にいる誰かは、緊張感のない口調で言った。

「そんなのどうだっていいじゃない。お兄さん、いつまでそこに閉じこもる気なの?」

 無邪気な言葉が胸に突き刺さる。己の甲斐がいなさを責められている気がした。大学受験に失敗して、自分の限界を知った。何年も部屋に引きこもり、オンラインゲームの世界に現実逃避した。母親に食事を運ばせて、家の外に出ることはなかった。

 頭に血が上った。衝動的に手を伸ばし、拾い上げた空き缶をドアへ投げつける。空虚な音が跳ね返り、散らかった部屋を舞う。声をあらげた。

「お前には関係ないだろ。さっさと出ていけよ」

 肩で息をした。これで怖気おじけづいて逃げ出すだろう。ベッドの足元を、空き缶が虚しく転がる。やがて神経にさわる含み笑いが耳朶じだに触れた。

「ねえ、おかしいとは思わないの」

 笑いの余韻を含んだまま、声の主は言った。

「窓の外に誰か見かけた? 飲まず食わずで、お腹は空かない? 眠気は? 昼も夜もなく、ずっとベッドの上でうずくまっているんでしょう」

 まるでドア越しに全て見透かされている気がした。

「死んでまで一人ぼっちの世界に引きこもっているなんて、筋金入りだね」

 その陽気な一言に、全身から血の気が引く心地がした。喉の奥からわななく声を絞り出す。

「何を……」

「だから、お兄さんは死にぞこないなんだよ」

 またしても「あはっ」と耳障りな笑い声を上げた。歯の根が噛み合わず、口の中で音を鳴らした。ずっと寒気がする。ドアに向かって叫んだ。

「何を言ってやがる。頭がおかしいのか、この餓鬼がき

 震えた叫び声をぶつけても、手応えはなかった。ドアは沈黙している。立ち去ったのだろうか、と安堵しかけたところで、唐突にドアノブが力強く回された。思わず体が跳ねる。毛布をかき寄せ、窓際まで逃げた。

 息を詰めていると、少女の笑い声がした。

「驚いた?」

 どうやら悪戯いたずらのつもりらしい。怒りがこみ上げてきて、声を詰まらせる。

「この……」

「ごめん、ごめん。お兄さんの反応が面白くってさ」

 ドアの向こうにいる存在は、自分をもてあそんでいる。その悪意に満ちた態度に、怖気おぞけふるう。本当に部屋の前にいるのは、人間なのか。

「そんなに怖がらないでよ。ちょっと、お喋りしよっか」

 少女の声をした何かは、呑気に喋り出した。

「あなたのお母さんってさ、几帳きちょうめんだよね」

 まるで脈絡みゃくらくがなかった。恐怖を紛らわせるために喚き散らした。

「そうだ、あのばばあ。何をしてやがる、こんな餓鬼を家の中に入れやがって」

「自分のお母さんをそんな風に呼ぶのは感心しないなあ。後は、そうだね。お父さんの趣味はゴルフでしょ。どう、当たってる?」

 こちらの激昂にも構わず、どこか平坦な調子で話し続ける。ますます不気味だった。言葉が通じるのに、会話が成り立っていない。恐怖感を押し殺して叫ぶ。

「あんな親父の趣味なんて知るか。何年も声を聞いてねえよ」

 父親は引きこもりの息子には無関心だった。部屋には寄りつかず、全ての世話を母親に押しつけた。あれだけ勉強を強要したのに、できそこないだと知って失望したのだろう。

「廊下にね、血の跡が点々とついてたんだ」

 少女の声がささやく。

「それを辿るとね、お父さんのものらしい書斎に続いていたの。そこに置いてあったゴルフバッグの中に、血塗れのドライバーが入ってたんだよ」

 姿の見えない何かは感心した様子で言う。

「多分、使い終わった後にきちんと戻したんだろうね。人間って面白いよねえ」

 まるで話が見えなかった。

「訳がわかんねえよ。何が言いたいんだ」

「ああ、血痕はね。この部屋の前まで続いていたんだ。いや、これは順序が逆なのかなあ」

 不可解だった。家の中に血の跡があり、父親の書斎とこの部屋を結んでいる。何を意味するのか理解できない。

 それは一体、誰の血だ。

「お母さんがどこにいるのか、って言ったよね」

 その一言に、なぜだか総毛そうけった。不意に強烈な頭痛に見舞われて、額を押さえる。

「あなたのお母さんはね。旦那さんの書斎からゴルフのドライバーを持ち出して、引きこもりの息子を殴り殺した。その後、凶器を元に戻したんだよ。だから、廊下に血の跡が残ったんだ」

 頭が理解を拒んでいた。母親が自分を殺した。どうして。頭痛は治まらず、逆に痛みが増していた。

「全部衝動的な行動だったんだろうねえ。後始末に、家の中にあった電源の延長コードを使ったみたい。ほら――お兄さんも下ばかり向いてないで、たまには上を見上げてごらんよ」

 頭が割れそうな激痛に思考能力を失い、言われるがままに視点を上げた。その途中で床の黒い染みと、横倒しになった椅子が目に入った。

「あなたのお母さんなら、ずっとそこにいるでしょう?」

 光が届かない天井の暗闇から、白い電源コードが垂れ下がっていた。先端のプラグが丸まり、ちょうど人の首が通りそうな輪ができていた。部屋には誰もいないはずなのに、何かの重みに軋む音がした。

 視界が赤く染まった。指の隙間から赤黒く、ねばを帯びた液体がとめどなく溢れてくる。

「それでも、まだ引きこもるの?」

 あはっ、とドアの向こうにいる何かがわらった。

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