ぼくがヒーローになるとき

ポチョムキン卿

ぼくがヒーローになるとき

朝焼けが、八王子の住宅街の屋根をオレンジ色に染め始める頃、野口ハルトは今日も慣れ親しんだ市立小学校の制服に袖を通し、まだ少しブカブカのランドセルを背負って家を出た。彼のランドセルには学用品の隙間に押し込んだ、秘密基地の設計図落書き帳ともいう、そして緊急時用のグミがひとつだけ入っている。隣には、髪を二つ結びにした保育園児の妹、リリが、ママの手を引いてスキップしていた。


ママ、野口サオリは、朝から戦場のような自宅を片付け、二人の朝食を用意し、保育園と小学校の準備をこなし、そして出勤するという、まさにマルチタスクの達人だ。彼女は市内の会計事務所に勤める会計士で、数字と睨めっこする日々を送っている。徹夜明けの隈がうっすらと浮かぶ目元は、今日も世界経済の均衡を保つかのような鋭さだった。


「ハルト、リリ、気を付けてね。ママは今日も戦場へ行ってくるから」

サオリがそう言うと、ハルトは胸を張って言った。「ママ、大丈夫! 僕、ヒーローになるチャンスを探してくるから!」

リリは得意げに「リリもヒーロー!きらきら!」と手を振った。

サオリは苦笑しつつ、二人の頭を撫で、会計事務所へと急いだ。


ハルトとリリは、保育園の入り口で別れた。リリが先生に抱きかかえられ、小さな手を振るのを確認すると、ハルトは通学路を一人、歩き始めた。彼の胸の中には、ママの言葉が、まるで特別な任務の指令のように響いていた。

「誰かが困ってたら、ヒーローになれるチャンスだって」


その「チャンス」は、意外な形で現れた。

いつもの横断歩道を渡り終え、学校まであと数百メートルという場所で、ハルトは信じられない光景を目にした。アスファルトに座り込み、うずくまっているおばあさんがいたのだ。買い物袋が散乱し、その中から色とりどりの野菜がコロコロと転がっている。おばあさんは、片方の足を押さえ、顔を歪めていた。


道行く人々は、誰も足を止めなかった。通勤途中のサラリーマンたちは足早に、主婦たちは横目でチラリと見て、見て見ぬふりをする。まるで、そこに「困っている人」という透明の壁があるかのようだった。


ハルトは立ち止まった。ランドセルを背負ったまま、躊躇なくおばあさんのもとへ駆け寄った。

「大丈夫ですか!?」

おばあさんは顔を上げ、涙目でハルトを見上げた。「ああ、ごめんね、坊や。足をくじいてしまってね……」


ハルトは、散らばった野菜に目をやった。泥がついてしまっているものもある。普段なら、ママから「汚いから触らない!」と怒られるところだ。でも、今は「ヒーローになれるチャンス」だ。

「僕、手、汚れてもいいよ!」

そう言って、ハルトは迷うことなく、泥のついたキュウリを拾い上げた。そして、その小さな手を、おばあさんに向かって差し伸べた。


おばあさんは、目を大きく見開いた。そして、涙目で「ありがとうね……」と震える声で言いながら、ハルトの小さな手をしっかりと握り、ゆっくりと立ち上がった。


その瞬間、ハルトの耳に、まるで透明な鈴の音のような、奇妙な「チリン」という高音が響いた。そして、彼の視界の隅で、おばあさんの手のひらから、まばゆい光の粒が数個、宙に舞い上がり、フッと消えたように見えた。


「…え?」ハルトがそれを見つめていると、おばあさんが優しく言った。「坊や、本当にありがとう。あなたは、私の今日のヒーローだよ。……そうだ、お礼にこれを」

おばあさんは、ポケットから手のひらサイズの小さな布袋ぬのぶくろを取り出し、ハルトにそっと握らせた。「これは、不思議な石だよ。困った時に、きっと力になるからね」

そう言って、おばあさんは笑顔で去っていった。その足取りは、先ほどとは打って変わり、どこか軽やかで、まるで空気を踏んでいるかのようだった。


ハルトは呆然としながら、おばあさんからもらった布袋ぬのぶくろを見た。袋の中には、見たことのない奇妙な模様が刻まれた、琥珀色に輝く小石がひとつ入っていた。


学校に着くと、ハルトは興奮冷めやらぬまま、親友のタケルに今朝の出来事を話した。

「そしたらさ、おばあちゃんからもらったのがこれ!」

ハルトが小石を見せると、タケルは目を輝かせた。「うわ、これ、なんだ!? なんかパワーストーンみたいじゃん!」

「だろ? 不思議な光がするんだ」


放課後、ハルトは自宅に帰り着くなり、ママに今朝の出来事を報告した。

「ママが言ってた通りだったよ! ぼく、ヒーローになれたんだ!」

サオリは息子の成長に目を細め、「よくやったね、ハルト。ママは誇りに思うよ」と優しく抱きしめた。

しかし、ハルトが琥珀色の小石を見せると、サオリの顔色が変わった。

「ハルト、これ……どこで手に入れたの?」

サオリの会計士としての冷静な顔が、どこか緊張した表情に変わった。

「おばあちゃんからもらったの! これ、不思議な石なんだって!」


その夜、ハルトが寝静まった後、サオリは手元の書類を広げ、パソコンのキーボードを叩いていた。画面に映し出されているのは、複雑な数式と、奇妙な記号の羅列。そして、その一部に、ハルトが拾った小石と全く同じ模様が描かれている。


「まさか……このタイミングで**『共鳴石』が起動したとは」

サオリは呟いた。彼女はただの会計士ではなかった。彼女の家系は代々、世の中に生じる「不均衡」を感知し、それを「純粋な善意の行動」**によって修正する役割を担う「均衡の調整者」だったのだ。サオリが会計士になったのも、世の中の「数字のバランス」が、人々の心の「エネルギーのバランス」と深く繋がっていることを知っていたからだった。


ハルトがヒーローになった時に現れた「共鳴石」は、善意の行動に呼応して発動する古代のアイテム。ハルトが「手、汚れてもいいよ」と純粋な善意を発した瞬間、石がそれに反応し、**「ポジティブなエネルギー」**を周囲に放ったのだ。おばあさんが瞬時に回復したのも、そのエネルギーによるものだった。


翌日、サオリはハルトに「その石は、特別なものだから大切にしまっておいてね」と言い含め、小石はそっと彼の机の引き出しにしまった。

しかし、ハルトは、ママが何かを隠していることに薄々気づいていた。なぜなら、その日以降、彼の周りでは奇妙なことが起こり始めたのだ。


給食の時間、嫌いなピーマンを残そうとした瞬間、彼の耳に「栄養の不均衡だ!」という謎の声が響き、手が勝手にピーマンを口に運んだ。

体育の時間、ドッジボールで弱い子がいじめられているのを見かけた時、彼の口から「それはフェアではない、心の不均衡だ!」という、まるで別人のような言葉が飛び出し、クラス全員が彼の勢いに圧倒されて、いじめが止まった。


ハルトは、自分が「ヒーローになれるチャンス」を求めているだけでなく、**「誰かの不均衡を正す」**という、もっと大きな使命に巻き込まれていることに気づき始めていた。

ある日、リリが保育園で泣いていると、ハルトの耳元で「寂しさの不均衡!」という声が響き、彼のランドセルから、別の琥珀色の小石が転がり落ちてきた。リリがそれを見ると、瞬く間に泣き止み、笑顔でハルトに抱きついた。


サオリは、ハルトが純粋な心で困っている人を助けるたびに、共鳴石が起動し、彼の行動を「増幅」していることに気づいた。そして、その増幅された力が、彼の周りの「不均衡」を修正しているのだ。

彼女は、ハルトにこの秘密をいつ伝えるべきか悩んだ。彼はまだ小学4年生。しかし、彼の行動は、すでに世界に影響を与え始めていた。


ある日の夜、サオリが会計事務所で残業していると、経済産業省の役人から電話がかかってきた。

「野口さん、先週、貴女のお子さんが関わったと推測される、とある小学校の給食残量データについてお聞きしたいのですが」

サオリは内心で冷や汗をかいた。「は、はい?」

「異常なほど、ピーマンの喫食率が向上している。さらに、クラス内のいじめ問題が急激に改善され、生徒間の協調性が統計的に有意なレベルで上昇している。これらは貴事務所が関与されたとされる、某企業の会計不正発覚と、それに伴う株価の適正化現象と関連があるとお考えでしょうか?」


サオリは電話を握りしめ、心臓が大きく脈打つのを感じた。ハルトの小さな行動が、ただの善意に留まらず、社会全体の「不均衡」を修正する力を持っている……。それは、彼女が「均衡の調整者」として代々受け継いできた使命そのものだった。


翌朝、ハルトが家を出る準備をしていると、サオリは言った。「ハルト、今日の通学路は、少し遠回りになるけど、新しいルートで行ってみない?」

ハルトは目を丸くした。「え? どうして?」

サオリは、深呼吸をして、ハルトの目を見つめた。「実はね、ママが昔、困ってた人がいてね。その人が、今、ちょっと大変なことになってるの。もしかしたら、ハルトの力が必要になるかもしれない」


ハルトは、ママの言葉の真意を全て理解したわけではなかった。しかし、「ヒーローになれるチャンス」という言葉が彼の心を揺さぶった。彼はランドセルを背負い、まだ見ぬ「不均衡」の修正に向かって、新しい通学路へと足を踏み出した。彼のポケットには、琥珀色の小石が静かにその時を待っていた。世界は、小さなヒーローの一歩で、少しずつ均衡を取り戻していくのかもしれない。

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