good luck

九条鳥宗

good luck

 ニックは幸運な男だった。

 戦争に巻き込まれたことと、悪霊に取り憑かれたこと以外は。


 雨が降りしきる。

 鉛色の空から、鋭く冷たい雫が身を縮こませる。身震いが止まらない。足を襲うぬかるんだ土の冷たさから必死に堪えようと奥歯を噛み締めるが、歯がカチカチと重なり合って言うことを聞かない。雨を吸い込んだ服は重く冷たく、身体の熱を奪っていく。


 掘った土の中で震える。まるでそれは棺桶の中にいる死人のよう。

 もしかしたらそれは、今日にでも現実になるかもしれない。


 轟音。激しい衝撃と共に、土塊が上から降り注ぐ。飛び散った土の破片が、自慢の顎鬚あごひげを汚していった。

 震える。握る小銃を掴む力が、強くなる。握る手が銃から離れない。今手放すと、何もかも壊れてしまいそうだから。


 砲撃は止まらない。大きな音は土を抉り取り、塹壕を揺らす。雨が身を濡らし、土が心をすり減らす。

 耳に聞こえてくるのは、数多の声。怒号、悲鳴、沈黙。


 たった一つの、歓喜。


『今、死ぬかもしれないって思ってるだろ?』


 ニックの左隣から、この世とは思えぬ声が聞こえてきた。


『自分はここまでだ。あの砲弾にぶち当たって死んじまうんだ、って思ってんだろ』


 幻聴ならばどれだけいいか。幻視ならばどれだけ幸せだったか。

 だがニックには聞こえているし見えている。自身に取り憑いた悪霊の存在が。

 軍服を着た髑髏どくろが、その虚な双眸でニックを捉える。


『ハッハァ! そりゃ無えぜニック! お前は死なねえよ!』


 死神そのもののような存在が、狂った歓喜を露わにして祝福した。


『何せお前は、運が良いヤツだからなぁ!』


 豪雨の中で最もそぐわない言葉が高らかに放たれた。

 運。この場において運などあるのだろうか。

 この沼地で。この悪天で。鉄火鳴り響く塹壕の中で。

 この戦場で、運が良い人間などいるのだろうか。


『だから言ってんだろ! それがお前────』

「ニック! 行くぞ、おいニック!」


 悪霊の言葉を遮ったのは、ニックと同じ歳くらいの兵士だった。

 彼はニックの隣にいる悪霊に目も向けない。気付いていないのだ。ニック以外に、悪霊の存在は捉えられない。

 彼は呆然としたニックを揺さぶる。ニックの視点が、彼へと向いた。


「敵が来てる! はしごに上がれ!」


 揺り起こされたニックは、心が定まらないまま身体が動いた。

 敵が、来ている。


 視線を回す。隘路あいろの如き道で、同士たちが走り回っていた。

 まるで蟻の巣だ。複雑に築かれた塹壕ざんごうの道筋を、兵隊蟻へいたいありが急いで駆けている。

 雑にはしごを立てかけていく兵士。「行くぞニック」と彼は傍に掛かったはしごに足を掛け、小銃を構え敵を迎え撃つ。


 その前に、敵に撃ち殺された。

 まるで糸の切れた人形のように、力無く塹壕の泥濘に落ちる亡骸。先程まで声をかけてくれた同胞が、泥水に倒れ伏す。くぼんだ頭から血が流れて、泥路を赤く濡らした。


 死んでいる。死んだ。

 ニックの白い息が、雨音と銃火に掻き消えた。


『運の悪い野郎だ! 流れ弾に当たっちまうとはな!』


 ただ一つ、この亡霊の声だけは鮮明に聞こえていた。


『まあ仕方ない。運が無かった、それだけさ!』


 愉悦に浸った髑髏の声。それにせき立てられるように、ニックははしごを上がっていた。

 身体を壕の上に出し、小銃を構える。照準から見える視界に神経を集中させる。

 雨靄が広がる沼地。木々が薙ぎ倒され撓んだ大地には、ただ見晴らしの良い地平が広がっている。


 柔らかい土を踏み締め突撃する、敵軍の兵士たちが靄を裂いて向かって来ている。喉が裂くほどの怒号を発しながら突き進む。銃剣を取り付けた小銃を構えながら。


『運試しか! 面白え!』


 髑髏の声が、せきを切る合図となった。

 照準を合わせる贅沢な時間などない。ニックは合わせたつもりで、指先の引き金を引き絞った。


 反動が衝撃となって右肩に伝わる。慣れない感覚に顔を苦痛で歪めた。銃弾が敵に当たったかどうかなんて気になんてできない。

 小銃の遊底ボルトを引く。煙吐き出す薬莢が飛び出て落ちていった。死体の転がる水辺へと。

 ハンドルを前方に戻し、銃弾を装填する。がむしゃらに引き金を引いた。銃火と共に放出された銃弾は、10mほど離れた敵兵士へと直撃する。ニックよりも若い兵士の下顎が砕け、血染めとなって後方へ倒れた。即死だった。


『危なかったなぁ! 今の仕留めてなかったら、死んでいたかもしれねぇぜ!』


 嬉々として語る悪霊。人手なしの言葉にニックは耳を貸す余裕などない。

 再びハンドルを後方へスライド。排莢。前方に押し込む。装填。引き金を引く。繰り返し。

 何度も何度も何度も何度も。弾が尽きるまで。


 その銃弾は外れているかもしれないし、当たっているかもしれない。人を殺した罪悪感はとうに枯れている。もはや彼は一つの執着によって戦っていた。

 死にたくない。たった一つの、祈りにしがみつく。


『そうさ! それでいい! お前はただ波に乗り続けろ! 強運の高波にな!』


 ニックが敵を迎撃する間、悪霊は倒れた死体の体を弄っていた。

 ポケットから何かないかと物色しながら、悪霊は語り続ける。


『お前も思うだろうニック! 世の中にゃあ実力じゃどうしようもねえ力がある。そりゃ運命だ! 占いだとかチャチなもんじゃねえ。天然の運の勢いってのさ』


 悪霊は兵士のポケットから一つの手帳を手に取った。汚水に浸った黒い手帳を。


『この地獄じゃ誰が死ぬのが日常さ。じゃあ生き延びる奴は何が違うかって? それを分けるのが運なのさ! 運さえあれば貧民街のクソガキだろうが大富豪の仲間入りさ!』


 手帳を適当にパラパラと開く音が耳元で聞こえてくる。


『ここには運の無え連中が巨万といやがる! 銃弾に当たり疫病に罹り死んでいく。運に見放された奴らが次々とな!』


 だが、と悪霊はニックの肩に手をかける。


『お前は違うぜニック。聖書すら真っ青な地獄の中で、お前は最高の運を持ってるのさ。使おうだなんて思うなよ。利用しようとした瞬間、運ってのは尽きちまう』


 優しく撫でかける骨の指。毛が粟立つも銃から手を離せない。


『あるがままでいい。祈り続けろ! あとは運否天賦だ!』


 福音を読み上げるが如く、天を仰いで高らかに言い放った。鉛色の閉ざされた空は頷きもせず、怖気が勝つニックも嫌味の一つも返すことができなかった。


 瞬間。脳を揺さぶる強い衝撃と共に、ニックの身体が塹壕へ落ちた。


 音を立てて落ちる。雨を含んで柔らかくなった土が飛び跳ね、ニックは顔を苦痛に歪めていた。

 ヘルメットが取れた右側頭には、抉れたような一線が刻まれている。敵が放った銃弾がニックの頭部を掠めたのだ。血が停めどなく溢れ、泥水が染みる激痛をニックに伝達していた。


 幸いなのは、ヘルメットをしていたお陰で傷が浅かったこと、落下した箇所が柔らかく衝撃を抑えられたことだ。背中を痛めて動けなくなることも、銃弾が右脳を貫通し脳漿のうしょうと血を撒き散らしながら死ぬことも避けられた。


 幸運。そう呼べる類なのだろう。

 ニックは、そうとは思えなかった。


 下敷きにした同胞の亡骸の顔と向き合う。瞳の色を失った青年と目が合う。

 ニックは急いで飛び退いた。嫌な感触を振り払うように背中と横腹を何度も払い続ける。


 敵が接近してきたのは、その時だった。

 機関銃の掃射も大砲の砲撃も潜り抜け、30m先の敵地最前線に踏み込んでくる。


『来たぜ来たぜ! お前と同じ豪運の持ち主がよ!』


 雄叫びが聞こえる。壕から迎撃していた仲間が立ち上がり、携帯用シャベルを振り上げる。それで敵兵の首を折る者もいれば、銃剣に突き刺される同胞もいた。

 命運が別れる。生か死かに天秤が動いていく。

 その秤はニックをも測ろうとしていた。


 背後から聞こえる雄叫び。振り返る。敵兵が銃剣をつけた小銃をニックに突き立てようと迫ってくる。

 肉薄。かわせる距離ではない。銃は手元を離れていた。今のニックに、迎え撃てる武器はなかった。


 殺される。死んでしまう。

 絶望の只中。震えが止まらない。歯が重なって言うことを聞かない。

 死ぬのか? 嫌だ、死にたくない!


『そりゃ人はいつか死ぬさ。だが今じゃねえ! いや、今かも知れねえな! お前に運が無かったら!』


 髑髏はせせら笑う。


『弾かれたコインがどっちを向くか。お前の運か奴の運か。せめぎ合いの瀬戸際せとぎわだ!』


 立つのがやっとの足を、逃げようと後ろに引いた。

 が。彼は再び転倒することになる。先程クッション代わりとなった死体の足に引っかかり転んでしまったのだ。

 硬い感触がかかとに伝わり、後ろ向きに倒れるニック。落ちる彼の視線の上で、銃剣の刃が空を貫いていた。


『天秤は傾いた! のは、奴の方だぜ!』


 水音と共に泥が跳ねる。敵兵は今度こそニックを刺そうと再び小銃を構えるが、今度はニックの方が早かった。

 泥濘を掴み、敵兵めがけて投げつける。水気を含んだ泥の塊は空中で崩れ、散弾のように前方に飛び散る。


 踏み込んだ敵兵が怯んだ。投擲された泥から顔を守るため片手を銃から離した。その隙間をニックは逃さなかった。


 立ち上がり泥水の中からを掴むと、全力で振り上げた。

 飛沫と共に上げられる小さなナイフ。ニックが躓いた兵士が携帯していた武器だった。

 敵兵がそれに気付いた時には、もう遅かった。


 ナイフは彼の脇腹を刺す。絶叫を上げて蹌踉めく敵兵にニックは全体重をかけた。力負けした敵兵が倒れ、ニックが馬乗りになる。

 両手でナイフを握り締め、喉が裂けるほどの声と共に振り下ろした。


 胸に何度も振り下ろす。微かな呻き声が次第に聞こえなくなる。ナイフを引き抜いて敵を見やる。口を血で、目を涙で濡らして事切れていた。ニックよりも若い青年だった。


 馬乗りのまま、ニックは暫く呆然と天上を見上げた。激しい雨音や敵味方混合の叫び、銃声や砲火の音が遠くなる。

 口を半開きにし呆然とした顔で、敵兵が持っていた小銃を手に取って立ち上がる。


『ハッハァ! 思った通りだぜ! やっぱりお前は俺が見込んだ男だよ!』


 天上を歩く骸骨の悪霊は変わらない様子でニックに言う。


『お前は生き残るぜ、何があってもな。がいる限り、お前が死ぬことは絶対にねえ』


 明朗に笑う悪霊を無視して、ニックは歩き出す。激情に駆られる気力さえも今の彼にはなかった。

 この悪霊の戯言を信じることもできないほど、疲弊し切っていた。


『良いさ。お前はただ示し続けるだけでいいんだ』


 でも戦いは続いている。襲撃する敵を倒し、故国を守らなければいけない。

 大事な家族を、守らねばならない。

 ……いつまで。

 いつまで彼は、この地獄を生き延びなければいけないのだろう。


『見せ続けろ! 俺に、お前の豪運をな』


 幸運をgood luck。髑髏は汚れたメモ帳に書いたそれを口にした。

 ニックは振り切るように、汚れた隘路を走り出した。

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good luck 九条鳥宗 @Akitake2774

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