笑う男
100chobori
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もう日は昇っているだろう。部屋の中はまだ薄暗いが、西向きと北向きの窓しかない割には結構な明るさだ。
島田篤志が見つめるノートパソコンのディスプレイの明るさは、この部屋ではもう際立っていない。半分に畳んだ布団の横には段ボールが四つ、二段づつ積み上げられている。その上には、しわ一つない背広とスーツパンツが、ハンガーに掛かったまま置かれている。
送信ボタンにマウスを合わせ、ゆっくりと確実にクリックした。ブラウザは待ち状態を示すアイコンを五秒ほど点滅させた後、送信完了のメッセージを発した。
小さく息を吐くとブラウザを閉じるボタンをクリックし、パソコンをシャットダウンする操作を行った。立ち上がり、窓のカーテンレールにかけてあったハンガーからワイシャツとネクタイを取る。
ネクタイの太い方と細い方が同じ位にならない。どうしても細い方が十五センチほど長くなってしまう。二回巻き直した後、スーツパンツを穿き、背広を着る。
冷蔵庫には紙パックの牛乳が一つだけ入っている。半分ほど残っていた中身を一気に飲み干した。
「っしゃっ!」
一声気合いを入れ、両手で頬を軽く叩く。
玄関を開けると、まだ少し肌寒い。上着を用意しようかと思ったがやめた。ヘルメットをかぶり、外に出る。
チョークを引けばバイクのエンジンはすぐにかかった。本当は、このバイクも処分してしまおうかと思っていたが、これからの通勤に重宝するだろうと思い、やめた。それ以外のものは生活に必要なもの以外、ほとんど処分してしまった。
静かな住宅街をゆっくりと走り抜ける。すぐに視界は開ける。鴨川の流れに沿った通りを、下流に向かう。川面がキラキラと輝く。道沿いに連なって植えられた桜の木々はまだ少し堅いつぼみが赤い彩りを添えている。
これから先、この景色を何度も繰り返し見ることになるだろう。まだ見慣れていないこの感覚を目に頭に焼き付けておこう。そうすればこれから先、どんなに先に進んでしまったとしても、行くべき場所を見失いそうになったとしても、たった今、この瞬間に戻って立ち止まり、考え直すことができるだろう。篤志はこの瞬間を胸に刻んだ。
走る車はまだまだまばらだが、下流に進むにつれて道幅は広くなる。篤志のバイクは、少しづつ速度を上げていく周囲の車の流れに順調に乗っている。
地元の小さな住宅メーカーの営業マン。大学卒業以来ずっと見失わずにいた夢をきっぱりなげうち、三十歳にして初めて掴み取った正社員。
走る道は既に川端通りに入っていた。川の向こうにはひしめき合うように瓦屋根の低い建物が並ぶが、そのずっと向こうではビルの塊が遠くで霞む。あの中に篤志が目指す勤務先がある。
まだ始まったばかり。俺はこれからだ。篤志の体が震えるのは、寒さと武者震いの両方だ。俺の夢。一つはきっぱりと断った。もう後悔していない。これっぽっちも。
送信ボタンをクリックしてゆっくりと離した感覚がよみがえる。
俺のもう一つの夢。どうしても諦め切れなかった。つながるだろうか。お前に届くだろうか。まだ間に合うだろうか。
丸太町を過ぎ、京阪三条を過ぎた。タクシーが少しづつ目立ってきた。祇園四条駅前では客を乗せようとして停まっているタクシーがいる。
男二人と女一人が何やら言い争っている。女はタクシーに乗り込んだ。続けて男が一人乗り込んだ。タクシーは動き出そうとするが、篤志は軽々と追い越すつもりで速度を上げた。
タクシーは急ブレーキをかけた。右後ろのドアが開き、女が飛び出した。篤志には女のピアスの色までがはっきりと見えた。急ハンドルを切り、タクシーのドアと女をかわしたが、走り続ける姿勢を維持できなかった。
篤志の体は路上に崩れ落ちる。バイクと引き離される。アスファルトが篤志のスーツを擦り削る。慣性の力が篤志を対向車線に引きずり出す。
対向車線から走ってきたダンプがクラクションを鳴らす。篤志は自分の目が一瞬、運転手と合ったと思った。望みがつながる。永遠にも感じられるような一瞬だった。
ダンプは篤志から逃げるようにして反対車線に飛び出した。篤志は奇跡が起きたと思ったが見当違いだった。ダンプは車体の右半分が浮かび上がり、あっけなく横転した。
砂利が路上にぶちまけられた。ダンプに満載されていたものだった。篤志はその中に埋まった。
篤志の部屋では、パソコンのファンが回ったままだった。篤志が閉じたと思っていたブラウザは閉じられないまま残っていた。
「Delivery to the following recipient failed permanently:」
送信したメールは宛先不明で戻っていた。
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