■第5章 - その一歩の先に
スマホの画面に映る「SAJ証券 口座開設完了」の文字を見つめながら、美紀は小さく息を吐いた。
指先が震えていたのは、寒さのせいではない。
図書館で読みあさった投資本。
付箋を貼り、ノートにまとめ、分からない言葉をひとつひとつ調べた。
「知識」と呼ぶにはまだ稚拙なものかもしれない。
それでも、知ろうとした日々は確かに、彼女の中に積み重なっていた。
“最初は口座をつくるだけでもいいんですよ”
西園寺の言葉が、何度も心によみがえる。
誰かに背中を押されたのは、いったい何年ぶりだろう。
画面の中の証券会社のロゴを見つめながら、彼の顔が思い浮かぶ。
――自分のために、もう少しだけ、勇気を出してみよう。
数日後の朝、娘の結衣が学校へ向かったのを見届け、美紀は静かにパソコンの前に座る。
ダイニングテーブルの上では、淹れたばかりのハーブティーが、ほのかに湯気を揺らめかせていた。
ログイン画面に情報を入力し、ゆっくりと証券口座にアクセスする。
そこは、まるで未知の空間だった。
銘柄、指数、チャート、株価変動率……数字と記号がスクロールしていく画面に、思わず目がくらむ。
「やっぱり、むずかしい……」
思わずこぼれた声が、静かな部屋に吸い込まれる。
けれど、ページの隅にあった「初心者向けガイド」ボタンを見つけた瞬間、美紀の表情がわずかに和らいだ。
数時間後、彼女の口座には、わずか十株のインデックス連動ETFが記録されていた。
金額にすれば、ランチを数回我慢すれば買える程度の額だった。
けれど、その数字は、彼女にとって「はじめて未来に向けて選び取った行動」の証だった。
「買えた……」
その瞬間、胸の奥からこみあげてきたのは不思議な達成感だった。
誰にも褒められるわけじゃない。
けれど、自分で選んで、自分でやったこと。
それがこんなにも心を満たすものだったなんて。
ふと、西園寺が以前言っていたことを思い出す。
“人生って、結局、自分の意思で動いた時間しか残らないんですよ”
その言葉が、今なら少しだけわかる気がした。
**
数日後、「CLUB月下美人」の夜。
西園寺がカウンター席に現れたのは、23時を少し回った頃だった。
「……こんばんは」
「こんばんは、綾音さん」
相変わらず、彼の笑顔は柔らかく、何気ない仕草のひとつひとつが綾音の視線を引き寄せた。
「この前のETF、買ってみました」
グラスを差し出しながら、そっと告げると、西園寺の表情が明るくなった。
「えっ、本当に? すごいじゃん」
「十株だけですけど」
「十株でも、例え一株だったとしても立派な一歩だよ。最初の投資って、ほんとに特別なんだ。忘れられないでしょ?」
その言葉に、綾音はふっと笑った。
確かに、忘れない気がした。
この手がクリックした、たった一度の動作が、自分を変えたのだ。
「……なんだか、不思議です。昨日と何も変わってないのに、世界が少しだけ違って見える」
「それが“自分のお金で考える”ってことなんだよ」
「……そういうものなんですね」
彼との会話は、まるで静かな音楽のようだった。
心に染み入って、いつの間にか身体の奥まで満たされていく。
(もっと……この人のことを知りたい)
その思いが、気づけば綾音の胸に広がっていた。
投資のことだけじゃない。
彼の毎日や、好きな食べ物、過去のこと。
どんなふうに笑って、どんなふうに悲しむ人なのか。
触れたくて、知りたくて――けれど、それは同時に恐ろしさでもあった。
(こんな気持ち、いつ以来だろう)
亡き夫の顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
優しくて、不器用で、それでもいつも家族のために汗を流し、傷つきながらも守ろうとしてくれた人。
あの腕に、もう一度抱きしめられることはないのだと知っていながら、綾音の胸には、いまだにぽっかりとした空白が残っている。
(あなたがいなくなって、私はやっと前を向けたのかな。それとも……)
その問いの先に浮かぶのは、若き男の横顔だった。
西園寺の、少し眠たげで冷めたような目。
けれど時折見せる、無防備な笑顔。
距離を置くようでいて、ふとした言葉が、まるで心の奥底まで見透かしてくるようだった。
触れられてもいないのに、肌の内側が熱くなる。
声を聞くだけで、指先が震える。
笑いかけられると、嬉しくて、愛しくて、呼吸がうまくできなくなる。
(どうして、あなただけ……)
胸の奥が、焼けつくように痛む。
これは裏切りだろうか。亡き夫を思い続けてきた年月に対する、そして娘との誓いに対する――裏切り。
けれど、想いは止められない。
心はもうとっくに、あの人に触れてしまっている。
彼の言葉に希望を感じ、彼の仕草にときめき、彼の沈黙にすら、意味を探してしまう。
愛したい。
でも、愛してしまえば、過去も自分も壊れてしまいそうで怖い。
それでも、この胸の疼きは、日ごとに強くなっていく。
狂おしいほど、彼に惹かれてしまっている。
もう、どうしようもないほどに……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます