北の海へ
無名
北の海へ
岸がだいぶ遠ざかった。船の速度がまた一段階上がった気がする。
昨日までの嫌な記憶は全部、岸に置いてきたつもりだ。もっと、もっと遠くへ行きたい。
僕はとある事件に巻き込まれ、昨日は証人として法廷に立ったところだった。今は思い出さないようにしようと思えば思うほど、記憶が
現実逃避のために貴重な連休を使って北海道旅行に来たのに、いつの間にか現実に戻って来てしまったようだ。
「
書面から目を上げると、僕の左前方に立つ検察官と目が合った。
「青島さん、緊張しなくていいですよ」
検察官が口を開くが、検察官の言葉以外の全てが、緊張しないことを許してくれなかった。視界の右隅に、ぶらぶらと揺れる彼の二本の脚が出入りする。彼の両脇に座る刑務官たちから噴き出す威圧感が、僕を押し潰そうとする。僕は脳内に強面の曹長を召喚することで刑務官たちに対抗しようと試みたが、ただただ僕を取り囲む強面の濃度が増しただけだった。
「私から質問しますが、正面を向いて答えてくださいね」
「はい」
と答えたものの、彼が視界に入るのが怖くて、結局検察官の方を向いてしまう。
「青たん、久しぶり〜」
彼の声に、僕は彼を見てしまう。彼はにかっと笑いながら手を振ってきた。その笑顔が僕の心を
「静粛に」
裁判官が冷ややかな目で彼を
「一緒にオットセイごっこしようよ」
言うが早いか、彼は法廷の真ん中にダイブし、床を転がりながら、おうおうと奇声を発した。すぐさま刑務官たちが彼を取り押さえる。
「いやあっ!セクハラ!!ムッ!お兄さん、おっきいネ!」
大声で騒ぐ彼に、裁判官は淡々と退廷を命じる。
「では、続きを」
言いかけたところで初めて、裁判官は僕が吐き気と
「そんなことでどうする!男を見せろ!」
脳内曹長が僕を叱りつける。
このまま船が氷山にぶつかって、海の底に沈んでいけたら。ふとそんなことを考えていた。
気を紛らわせるために写真でも撮ろうと思って、上着のポケットから携帯電話を取り出す。画面の中で、尊敬する先輩が、ぬいぐるみを手に笑顔を向けてくる。
お土産にジンギスカンキャラメル、頼まれてるんだった。
背後から鼻歌が聞こえてきた。その鼻歌はひどく下手くそで、しかし僕には、それがセリーヌ・ディオンの『My Heart Will Go On』だとすぐに分かった。振り向くと、1頭のトドが
近くとも、遠くとも、あなたがどこにいようとも――。
僕は駆け出していた。トドの分厚い胸が、僕を受け止める。硬い毛皮が僕の頰に触れた。分厚いヒレが僕の身体を包み込む。
気付けば、トドも僕もおうおうと涙を流していた。
北の海へ 無名 @mumei31
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