第3章 ブレイクポイント⑥

 どれくらい時間が経っただろう。

 未来はゆっくりと立ち上がり、ラケットをそっと拾った。

 使い慣れたラケットの感触が、かろうじて手の中に現実をつなぎとめてくれる。

 泣いていたことを知られたくなくて、顔を拭い、深呼吸をひとつ。

 まだ目は熱く、鼻の奥がつんとする。でも、顔を上げようと決めた。

 そのときだった。

 ふと、何かの気配を感じた。

 未来は反射的に顔を上げた。

 体育館の壁際、高い位置にあるガラス窓

 —— その向こうに、誰かの影が立っていた。

 制服のシルエット。細身の体つき。肩まで伸びた黒髪。

 逆光で表情は見えない。それでも、未来には分かった。

 ——神宮寺咲だった。

 彼女はそこにいた。何も言わず、何もせず、ただ静かに立っていた。

 その姿には、偶然立ち寄ったような曖昧さはなかった。

 まるで、最初から“そこにいて”、全てを見ていたように、咲は佇んでいた。

 未来は言葉を飲み込んだ。

 距離が遠い。声をかけても、届かない。

 だけど、確かに——咲はそこにいた。

 その瞬間、未来の中で、何かがふと灯る。

 (見てたんだ。……ずっと)

 根拠はなかった。けれど確信があった。

 誰よりも距離を取って、誰よりも目を離さなかった人。

 遠くて、冷たくて、近づけない。でも、見ていた。

 咲はゆっくりと踵を返し、歩き去っていく。

 未来は、一歩も動けないまま、その背中を見つめていた。

 完全に見えなくなるまで、まばたきすら忘れていた。

 試合の結果よりも、スコアよりも、 その静かな一瞬が、未来の胸に深く刻まれていた。

 神宮寺咲の姿が視界から消えたあとも、未来はしばらく動けずにいた。

 静まり返った体育館の中で、自分の心臓の音だけが妙に大きく響いていた。

 本当に咲は見ていたのか、それとも偶然通りかかっただけなのか。確かめる術はない。

 けれど、今の未来にとって、それはもう大きな問題ではなかった。

 ——誰かがそこにいた。

 たとえ声をかけられなくても、存在を感じられただけで、それだけで十分だった。

 ベンチに置いてあったラケットを手に取る。

 グリップには、試合中についた汗と涙の跡がわずかに残っていた。

 指でそれをそっとなぞりながら、未来は思う。

 (負けた。でも、それで終わりじゃない)

 今日は何も得られなかったようで、きっとそうじゃない。

 悔しさも、無力さも、誰かに見てもらえたかもしれないという小さな希望も。

 全部ひっくるめて、これが“最初の一歩”だったのかもしれない。

 「……よし」

 未来は、小さく息を吐いた。

 涙の跡を袖で拭い、ゆっくりと立ち上がる。

 足取りはまだ重かったが、それでも確かに前へと進んでいた。

 体育館の扉を開けると、夕方の光が差し込んだ。

 西の空はやわらかな朱色に染まり、校庭のアスファルトに長い影を落としていた。

 廊下をひとり歩く。誰もいないその空間に、未来の足音だけが控えめに響く。

 その音は、まだかすかで頼りない。けれど、未来の胸の奥には静かな炎が宿っていた。

 (きっと、また会える。そのとき、胸を張って話せるように)

 未来は自分にそう言い聞かせながら、まっすぐ前を向いた。

 春の光が、少しだけ背中を押してくれるようだった。

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