第2章 ノックの音⑤
ふと、タオルを部室に忘れてきたことを思い出し、そのまま裏手の棟へ足を向ける。
部室の扉を開けると、ほのかにラバーと埃の混ざったにおいが鼻をくすぐった。
静かな空気の中、荷物棚へ向かい、タオルを探していた未来の視線が、ふと壁際の掲示板に吸い寄せられた。
そこには、大会結果やスケジュール表のほかに、いくつかの写真がピンで留められていた。
色褪せたプリント。いつから貼られているのかもわからない古い写真たち。
今まで何度も見たはずの掲示板だった。けれど、今日だけは、その一枚がやけに目についた。
集合写真の中央。真っ白なユニフォームを着た女子生徒が、ラケットを構えている。
周囲は笑顔が多い中で、彼女だけが真顔だった。その顔に、見覚えがあった。
——神宮寺咲。
中学三年のときの写真だろうか。今より少し髪が短く、表情も硬い。
これまで未来が知っていた咲は、いつも試合の中にいた。
無表情で、鋭く打ち返す姿。どこか現実感のない、遠い存在だった。
けれど、今目の前にあるこの写真は違った。
白凰のユニフォームに身を包んで、仲間たちと並んで写る咲。
この学校にいて、同じ空間で、戦っていたんだ——そう思わせる記録だった。
未来はそっと、写真の前に立ち尽くした。
静かに写る咲の真顔が、何かを語りかけてくるような気がした。
「……変わらないな」
思わず呟いた言葉が、誰にも届かずに掲示板の前に落ちた。
咲の表情は、今と同じだった。どこか距離のある視線。誰とも目を合わせない立ち方。それでも、中央に立っているという事実が、彼女がこの部にとってどれほど大きな存在だったかを物語っていた。
(本当は、あのときからずっと——)
未来は写真にそっと手を伸ばしかけて、思いとどまった。触れるには、まだ早い気がした。過去の重みを勝手に掘り起こすようで、申し訳なさすら感じた。
でも、そこに映っている咲は、確かにこの部にいた。
「なんで、あんな人がここから消えたんだろう……」
それが、ずっと心に引っかかっていた。
掲示板の横には、古びたスケジュール表がぶら下がっている。次の大会はもうすぐだ。けれど、今の部の実力では到底届かない。
未来は、ふたたび咲の写真を見た。
(やっぱり、終わってない。あの人の中に、まだ何かが残ってる)
それはただの希望かもしれない。でも、今の未来にとっては、それだけが道しるべだった。
部室の時計が、午後五時を少し回っていた。
練習が一段落した夕方、未来は顧問の大沼がいつも使っている準備室に顔を出した。
鉄製の古びた机には、ラケットのストックや古い大会要項、トレーニングメニューのプリントが雑多に積まれている。その中に、ラミネートもされていない一枚の写真が、何気なく本と本の隙間に挟まれていた。
未来がふと手を伸ばしかけると、背後から大沼が声をかけてきた。
「気になるか?」
未来が驚いて振り返ると、大沼はスポーツタオルを首にかけたまま、窓際からこちらを見ていた。
「神宮寺さん、ですよね」
確認するように言うと、大沼は無言で頷いた。未来はそっと写真を引き出す。
そこに写っていたのは、試合中の咲だった。構えのフォーム。ラケットを引いたその瞬間の姿勢は、研ぎ澄まされた静けさに満ちていた。どこにも無駄がなく、どこにも力みがなかった。
「機械みたいだったよ、あいつ」
大沼がポツリと呟く。
「決まったフォーム、決まったリズム、決まった角度でしか打たない。けど、それが恐ろしいくらい正確でな。見てるこっちは息が詰まりそうだったよ」
未来は写真を見ながら、小さく息を呑んだ。今の咲からは想像できないほど、その姿は“動”にあふれていた。
「そして……感情を出すのが下手な子だった」
未来が顔を上げると、大沼はいつになく真剣な表情をしていた。
「勝っても喜ばない。負けても悔しがらない。チームメイトとも最低限の会話だけ。卓球だけが、あの子のすべてだったんだと思う」
その言葉は、なぜか未来の胸に強く刺さった。
「それが、ある日突然部をやめて、それきり音沙汰なしだ。理由も言わずに」
大沼の口調には、悔しさというよりも、残念そうな響きがあった。
未来は写真をそっと元の場所に戻した。今はまだ、その過去に触れていいタイミングではない気がした。
「……また、戻って来てくれますかね」
思わず口に出た問いに、大沼は肩をすくめてみせた。
「どうだかな。でも、あの目はまだ死んじゃいない。あれを消せるほど、卓球は浅いもんじゃないよ」
準備室の窓の外、空は茜色に染まり始めていた。
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