第18話『名前のないデータに、タグをつける夜』
検索しても、出てこない記憶がある。
昔つけたファイル名を忘れてしまったら、もう二度と開けないフォルダがある。
そして──
画面の奥に、名もなく積み重なったデータたちが、今もなお“保存されたまま”なのだ。
*
夜の部屋。
今日もエアコンはつけず、扇風機だけが回っていた。
静かな時間に、パソコンを立ち上げる。
なんとなく──だけど、今日は“整理”がしたくなった。
いや、厳密にいえば、“確認”したくなったのだ。
あの時、自分がどんなものを保存していたのかを。
どんな名前で、どんなフォルダに、何をしまったのか。
──それを知るためだけに。
ぼくはデスクトップの「外付けHDD」アイコンをダブルクリックする。
何年も前に買った安物のHDD。
落としてもいないし、濡らしてもいないけど、たまに“カツン”と中で音がする。
だから、ずっと怖くて開けなかった。
その中に入っているデータは、どれも“失いたくないもの”ばかりだったから。
だが、今夜は違う。
ぼくは少しだけ勇気を出してみた。
カツン……と音を立てて、読み込みが始まる。
フォルダ数、全部で107。
その中のいくつかには、確かに見覚えがあった。
「2021春」
「落書きまとめ」
「新刊アイデア」
「HARUNO_」
──HARUNO_?
一瞬、マウスが止まる。
いや、正確には、止まってしまった。
記憶の奥に引っかかる名前。
でも、すぐに“彼女の名前”と結びついたわけではない。
そう──これは、ぼくが勝手に付けた“タグ”だった。
ファイルの中身を確認する。
jpgが2枚、txtが3つ、そしてmp3が1つ。
jpgは、どれもスクリーンショットだった。
メッセージアプリのログ画面。
春乃とやりとりしていた、当時の言葉がそのまま画像になって残されていた。
……読めば読むほど、胸の奥がざらついていく。
「今日は、雨でしたね」
「見たい映画があるんだけど、一緒にどうかなって」
「今はまだ、会えないけど──いつかきっと」
その“いつか”は、来なかった。
でも、画面の中の彼女は、たしかにぼくと何かを交わそうとしてくれていた。
文字越しでも、たしかに“共有”しようとしてくれていた。
その時間は、消えていない。
スクリーンショットという形で、ちゃんと残っている。
だけど。
それらのファイルには、名前がついていなかった。
「img__00243.jpg」
「chatlog-07.txt」
「___sound0.mp3」
どれも、ただの連番や自動生成の名しか持っていない。
まるで──
自分との思い出に、名前をつけるのが怖かったみたいに。
もし、最初から“タグ”さえ付けていなかったら、
ぼくはこのデータを、もう二度と見つけられなかっただろう。
そして気づく。
「HARUNO_」というフォルダ名。
これが、ぼくがかろうじて残した、**唯一の“彼女の痕跡”**だった。
*
──名前を、付けてあげよう。
そう思った。
名もなきデータに、ぼくだけの“意味”をつける作業。
それはつまり、失われる未来からの避難所を作ることだ。
1枚ずつ画像を見て、音声を聴いて、テキストを読み直す。
そして、静かに──新しい名前をつけていく。
「君が雨のことを話してくれた夜.jpg」
「映画のタイトルだけで、会いたくなった日.txt」
「ため息と小さな笑い声のまじる午後.mp3」
……少しだけ、涙が滲んだ。
滑稽なほどロマンチックなネーミング。
でも、それが、ぼくなりの“弔い”だった。
もう二度と更新されない過去に、ちゃんと名札をつけて、並べ直す。
“自分の人生の、データ整理”。
誰かに見せるわけじゃない。
でも、誰かを大事にした証拠として、自分が見つけられるようにするために。
そのタグのひとつひとつが、ぼくの心の形を映していた。
*
全てに名前をつけ終わった頃には、夜が深まっていた。
扇風機の風も弱く感じるほど、ぼくの中は静まっていた。
だけど、不思議と孤独ではなかった。
名もなきデータに名前を与えるという行為は──
“自分の感情に意味をつける”ことと同じだったから。
あの日、君と話した時間。
送ったスタンプ、聴いた声、見た写真。
全部、タグをつけていいんだって。
「寂しい」「悔しい」「泣きたかった」──
どんな名前でも、それはぼくが生きた証拠になるのだから。
*
PCをシャットダウンする。
フォルダの中には、もう“無題”はひとつも残っていない。
──名前をつけてあげた夜。
それだけで、今日という日はもう“消えない日”になった気がした。
そして、そっと一言を呟く。
「ありがとう。……まだ、好きだった」
この夜の記憶もまた、いつか“ぼくの名前”で保存されていく。
(つづく)
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