第18話『名前のないデータに、タグをつける夜』

検索しても、出てこない記憶がある。


 


 昔つけたファイル名を忘れてしまったら、もう二度と開けないフォルダがある。


 そして──


 画面の奥に、名もなく積み重なったデータたちが、今もなお“保存されたまま”なのだ。


 



 


 夜の部屋。

 今日もエアコンはつけず、扇風機だけが回っていた。


 静かな時間に、パソコンを立ち上げる。


 なんとなく──だけど、今日は“整理”がしたくなった。


 


 いや、厳密にいえば、“確認”したくなったのだ。


 あの時、自分がどんなものを保存していたのかを。


 どんな名前で、どんなフォルダに、何をしまったのか。


 


 ──それを知るためだけに。


 


 ぼくはデスクトップの「外付けHDD」アイコンをダブルクリックする。


 


 何年も前に買った安物のHDD。

 落としてもいないし、濡らしてもいないけど、たまに“カツン”と中で音がする。


 だから、ずっと怖くて開けなかった。


 その中に入っているデータは、どれも“失いたくないもの”ばかりだったから。


 


 だが、今夜は違う。


 ぼくは少しだけ勇気を出してみた。


 


 カツン……と音を立てて、読み込みが始まる。


 フォルダ数、全部で107。


 


 その中のいくつかには、確かに見覚えがあった。


 


 「2021春」


 「落書きまとめ」


 「新刊アイデア」


 「HARUNO_」


 


 ──HARUNO_?


 


 一瞬、マウスが止まる。


 いや、正確には、止まってしまった。


 


 記憶の奥に引っかかる名前。


 でも、すぐに“彼女の名前”と結びついたわけではない。


 


 そう──これは、ぼくが勝手に付けた“タグ”だった。


 


 ファイルの中身を確認する。


 jpgが2枚、txtが3つ、そしてmp3が1つ。


 


 jpgは、どれもスクリーンショットだった。


 メッセージアプリのログ画面。

 春乃とやりとりしていた、当時の言葉がそのまま画像になって残されていた。


 


 ……読めば読むほど、胸の奥がざらついていく。


 


 「今日は、雨でしたね」


 「見たい映画があるんだけど、一緒にどうかなって」


 「今はまだ、会えないけど──いつかきっと」


 


 その“いつか”は、来なかった。


 


 でも、画面の中の彼女は、たしかにぼくと何かを交わそうとしてくれていた。


 文字越しでも、たしかに“共有”しようとしてくれていた。


 


 その時間は、消えていない。


 スクリーンショットという形で、ちゃんと残っている。


 


 だけど。


 


 それらのファイルには、名前がついていなかった。


 


 「img__00243.jpg」


 「chatlog-07.txt」


 「___sound0.mp3」


 


 どれも、ただの連番や自動生成の名しか持っていない。


 


 まるで──

 自分との思い出に、名前をつけるのが怖かったみたいに。


 


 もし、最初から“タグ”さえ付けていなかったら、

 ぼくはこのデータを、もう二度と見つけられなかっただろう。


 


 そして気づく。


 「HARUNO_」というフォルダ名。


 


 これが、ぼくがかろうじて残した、**唯一の“彼女の痕跡”**だった。


 



 


 ──名前を、付けてあげよう。


 


 そう思った。


 名もなきデータに、ぼくだけの“意味”をつける作業。


 


 それはつまり、失われる未来からの避難所を作ることだ。


 


 1枚ずつ画像を見て、音声を聴いて、テキストを読み直す。


 


 そして、静かに──新しい名前をつけていく。


 


 「君が雨のことを話してくれた夜.jpg」

 「映画のタイトルだけで、会いたくなった日.txt」

 「ため息と小さな笑い声のまじる午後.mp3」


 


 ……少しだけ、涙が滲んだ。


 滑稽なほどロマンチックなネーミング。


 


 でも、それが、ぼくなりの“弔い”だった。


 もう二度と更新されない過去に、ちゃんと名札をつけて、並べ直す。


 


 “自分の人生の、データ整理”。


 


 誰かに見せるわけじゃない。


 でも、誰かを大事にした証拠として、自分が見つけられるようにするために。


 


 そのタグのひとつひとつが、ぼくの心の形を映していた。


 



 


 全てに名前をつけ終わった頃には、夜が深まっていた。


 扇風機の風も弱く感じるほど、ぼくの中は静まっていた。


 


 だけど、不思議と孤独ではなかった。


 


 名もなきデータに名前を与えるという行為は──

 “自分の感情に意味をつける”ことと同じだったから。


 


 あの日、君と話した時間。


 送ったスタンプ、聴いた声、見た写真。


 


 全部、タグをつけていいんだって。


 


 「寂しい」「悔しい」「泣きたかった」──

 どんな名前でも、それはぼくが生きた証拠になるのだから。


 



 


 PCをシャットダウンする。


 フォルダの中には、もう“無題”はひとつも残っていない。


 


 ──名前をつけてあげた夜。


 


 それだけで、今日という日はもう“消えない日”になった気がした。


 


 そして、そっと一言を呟く。


 


 「ありがとう。……まだ、好きだった」


 


 この夜の記憶もまた、いつか“ぼくの名前”で保存されていく。


 


(つづく)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る