第6話『きみのタイムラインに、ぼくはまだいる』
──今日は、誰にも見られていない気がした。
朝起きて、顔を洗い、冷蔵庫の奥にあった野菜スープのパウチを鍋で温めた。
ご飯は炊いていない。食べなくても、たぶん死なない。
それでもスープだけは、温めて飲んだ。
それだけで、少しだけ生き返る気がした。
扇風機の音。
部屋に溜まった空気を、かき回しているだけの弱々しい風。
カーテン越しに日差しは射していたが、真人は今日はその隙間を開けたままにしていた。
それでも、外には出ていない。
何か特別なことがあるわけでもなかった。
ただ──
春乃からの通知が、来なかった。
昨日までは、毎日のように来ていた。
短文、雑談、そしてときどき“過去の記憶”。
でも、今日は朝から夜まで、既読にもならなかった。
──忙しいだけかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、心の中のどこかで、薄い不安がじんわりと広がっていく。
あれほど慎重だったはずの彼女が、いきなり黙るなんて、変だった。
「……ブロック、されてたりして」
呟いた声が、あまりに冗談に聞こえなくて、自分でも苦笑する。
スマホの画面を開き、春乃のTwitterアカウントに飛ぶ。
表示されたのは──
> アカウントは非公開です。このユーザーをフォローしていません。
胸が一瞬、冷たくなる。
いや、前から鍵垢だった。
フォローしてなかったのがいけない。
ログインしてるのかどうかは、確認できない。
……でも、なんだ?
不安だけが、確かに自分の中に増殖していく。
*
そのまま、スマホを握りしめたままベッドに横になる。
天井を見つめる。
蜘蛛の巣が一筋、隅に光っている。
──今日、自分は「誰の記憶にも残ってない」気がした。
誰からも通知は来ない。
仕事の連絡も、友人も、家族も、もういない。
春乃のメッセージだけが、ここ数日の“命綱”だった。
もし、彼女がもう自分を忘れてしまったら──
画面の向こうに、自分の存在がもういなかったら──
何も、残らない。
ただの、無だ。
そのとき、スマホが震えた。
通知。
手が勝手に反応する。
春乃/Twitter
> 「タイムラインの片隅にいた“君”のこと、たぶん誰も知らない。
> でも、私は忘れてない。
> 名前も顔も、今は思い出せないけど──
> “あの日の背中”は、私の中に残ってる」
真人の心臓が、音を立てた。
それは、まるで昔のセーブデータをロードしたときのような、“読み込み中”の感覚に似ていた。
──春乃は、まだそこにいた。
自分のことを“知っていた”。
名前もなくても、顔もあやふやでも。
記憶のなかで、“存在”していた。
誰も見ていない。
誰も知らない。
タイムラインの端っこにいる、匿名のアカウント。
それでも、“彼女の中”では──
ぼくはまだ、そこにいた。
*
夜になり、久しぶりにゲームを起動した。
誰ともパーティーを組まず、一人でログインする。
懐かしいロビー画面。
背景のBGMは変わっていない。
フレンドリストには、いくつかの名前がまだ光っていた。
けれど、話しかけなかった。
チャット欄の一番下に、“春乃”の名前を探してみる。
やはりいない。
あの人は、もうこのゲームをやっていない。
たぶん、数年ぶりの偶然が──SNSで再会を生んだだけだ。
けれど、記録だけは、残っていた。
過去のチャットログ。
そこに、一つだけ、“スクショ”が保存されていた。
【2013年 9月2日 01:03】
> 春乃:
> 「ありがとう、“sahara_1980”くん。
> 誰も見てなくても、あなたはずっとヒーローだったよ」
そのスクショを開いたまま、真人はしばらく動かなかった。
ヒーローなんて、大げさだ。
笑ってしまう。
だけど──
“誰かのタイムラインに残る”ということが、こんなにも救いになるなんて、思いもしなかった。
この部屋に、勲章はない。
年収も、社会的地位も、恋人も、未来も──ほとんど、何も持っていない。
でも、
記憶のなかで、誰かの人生に残っている。
それだけで、真人は今日を“生きていてよかった”と、初めて思えた。
*
夜が深まっていく。
冷蔵庫の中の水を飲み干して、窓の隙間から外を眺める。
ネオンの光が、ぼんやりと揺れている。
街は生きている。自分の知らないところで。
でも、春乃のタイムラインには、自分の“背中”が、まだ残っている。
真人は、スマホのメモ帳を開いて、書き始めた。
> 「もし、“君のなかの俺”がヒーローだったなら、
> せめてもう少し、ちゃんと生きてみるよ」
>
> 「ありがとう、春乃。
> 今日、俺はちゃんと“ログイン”できた」
>
> 「君のタイムラインに、
> ぼくは、まだいる」
指を止め、そっと保存する。
そして、ふと──
「生まれて初めて、“日記”を書いたな」と思った。
もうすぐ午前二時。
時計の針の音が、静かに、静かに部屋を刻んでいた。
(つづく)
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