第6話『きみのタイムラインに、ぼくはまだいる』

──今日は、誰にも見られていない気がした。


 朝起きて、顔を洗い、冷蔵庫の奥にあった野菜スープのパウチを鍋で温めた。

 ご飯は炊いていない。食べなくても、たぶん死なない。

 それでもスープだけは、温めて飲んだ。


 それだけで、少しだけ生き返る気がした。


 


 扇風機の音。

 部屋に溜まった空気を、かき回しているだけの弱々しい風。

 カーテン越しに日差しは射していたが、真人は今日はその隙間を開けたままにしていた。


 それでも、外には出ていない。

 何か特別なことがあるわけでもなかった。


 ただ──


 春乃からの通知が、来なかった。


 


 昨日までは、毎日のように来ていた。

 短文、雑談、そしてときどき“過去の記憶”。


 でも、今日は朝から夜まで、既読にもならなかった。


 


 ──忙しいだけかもしれない。


 そう思おうとした。

 けれど、心の中のどこかで、薄い不安がじんわりと広がっていく。


 あれほど慎重だったはずの彼女が、いきなり黙るなんて、変だった。


 


 「……ブロック、されてたりして」


 


 呟いた声が、あまりに冗談に聞こえなくて、自分でも苦笑する。


 


 スマホの画面を開き、春乃のTwitterアカウントに飛ぶ。


 表示されたのは──


 > アカウントは非公開です。このユーザーをフォローしていません。


 


 胸が一瞬、冷たくなる。


 いや、前から鍵垢だった。

 フォローしてなかったのがいけない。

 ログインしてるのかどうかは、確認できない。


 


 ……でも、なんだ?


 


 不安だけが、確かに自分の中に増殖していく。


 



 


 そのまま、スマホを握りしめたままベッドに横になる。


 天井を見つめる。

 蜘蛛の巣が一筋、隅に光っている。


 


 ──今日、自分は「誰の記憶にも残ってない」気がした。


 


 誰からも通知は来ない。

 仕事の連絡も、友人も、家族も、もういない。


 春乃のメッセージだけが、ここ数日の“命綱”だった。


 


 もし、彼女がもう自分を忘れてしまったら──


 画面の向こうに、自分の存在がもういなかったら──


 何も、残らない。


 


 ただの、無だ。


 


 そのとき、スマホが震えた。


 通知。

 手が勝手に反応する。


 


 春乃/Twitter


 > 「タイムラインの片隅にいた“君”のこと、たぶん誰も知らない。

 >  でも、私は忘れてない。

 >  名前も顔も、今は思い出せないけど──

 >  “あの日の背中”は、私の中に残ってる」


 


 真人の心臓が、音を立てた。

 それは、まるで昔のセーブデータをロードしたときのような、“読み込み中”の感覚に似ていた。


 


 ──春乃は、まだそこにいた。


 自分のことを“知っていた”。

 名前もなくても、顔もあやふやでも。

 記憶のなかで、“存在”していた。


 


 誰も見ていない。

 誰も知らない。

 タイムラインの端っこにいる、匿名のアカウント。

 それでも、“彼女の中”では──


 


 ぼくはまだ、そこにいた。


 



 


 夜になり、久しぶりにゲームを起動した。


 誰ともパーティーを組まず、一人でログインする。

 懐かしいロビー画面。

 背景のBGMは変わっていない。


 


 フレンドリストには、いくつかの名前がまだ光っていた。


 けれど、話しかけなかった。


 


 チャット欄の一番下に、“春乃”の名前を探してみる。

 やはりいない。


 あの人は、もうこのゲームをやっていない。

 たぶん、数年ぶりの偶然が──SNSで再会を生んだだけだ。


 


 けれど、記録だけは、残っていた。


 過去のチャットログ。


 そこに、一つだけ、“スクショ”が保存されていた。


 


 【2013年 9月2日 01:03】


 > 春乃:

 > 「ありがとう、“sahara_1980”くん。

 >  誰も見てなくても、あなたはずっとヒーローだったよ」


 


 そのスクショを開いたまま、真人はしばらく動かなかった。


 


 ヒーローなんて、大げさだ。

 笑ってしまう。


 だけど──

 “誰かのタイムラインに残る”ということが、こんなにも救いになるなんて、思いもしなかった。


 


 この部屋に、勲章はない。

 年収も、社会的地位も、恋人も、未来も──ほとんど、何も持っていない。


 でも、


 


 記憶のなかで、誰かの人生に残っている。


 


 それだけで、真人は今日を“生きていてよかった”と、初めて思えた。


 



 


 夜が深まっていく。

 冷蔵庫の中の水を飲み干して、窓の隙間から外を眺める。


 ネオンの光が、ぼんやりと揺れている。

 街は生きている。自分の知らないところで。

 でも、春乃のタイムラインには、自分の“背中”が、まだ残っている。


 


 真人は、スマホのメモ帳を開いて、書き始めた。


 


 > 「もし、“君のなかの俺”がヒーローだったなら、

 >  せめてもう少し、ちゃんと生きてみるよ」

 >

 > 「ありがとう、春乃。

 >  今日、俺はちゃんと“ログイン”できた」

 >

 > 「君のタイムラインに、

 >  ぼくは、まだいる」


 


 指を止め、そっと保存する。


 


 そして、ふと──

 「生まれて初めて、“日記”を書いたな」と思った。


 


 もうすぐ午前二時。


 時計の針の音が、静かに、静かに部屋を刻んでいた。


(つづく)

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