第21話『夜明けと共に、ふたりで走る』

午前四時三十分。

 外はまだ暗い。薄青くぼやけた空の端が、ようやく朝を予感させる程度だった。


 奈緒は息を殺して布団から抜け出し、そっと足音を忍ばせた。

 枕元にあった小さなトートバッグには、スマホ、財布、歯ブラシ、着替え、それだけ。手荷物は必要最低限。いつでも捨てられる覚悟で。


 廊下に出ると、冷たい空気が頬を打った。

 真夜中の静寂よりも、明け方直前の沈黙の方がずっと重いことを、奈緒はこの時初めて知った。


 ――来てる。


 約束通り、彼女はいた。

 髪を一つに結んで、パーカーのフードを深く被っていた。

 名を知らぬ彼女は、奈緒にそっと指を当てて「シッ」と小さく口を閉じる動作をした。


 ふたりは視線を交わし、頷いた。


 逃げ道はひとつ。

 建物の裏にある、古びた物置の陰に隠された非常用の裏扉。

 日中は施錠されているが、夜中の三時から五時の間は換気のために開いていると、彼女が小耳に挟んでいたという。


 扉に手をかけると、ひんやりと冷たかった。

 軋む音が出ないよう、慎重に押す。わずかに開いた隙間から、冷たい夜の空気が流れ込んできた。


 ――あと一歩。


 そのとき、背後の廊下の奥から、わずかに人の気配がした。


「……誰か、いるの?」


 スタッフの声だった。女の声。

 だがそれは、「心配」ではなく、「見張り」の響きを帯びていた。


 ふたりは反射的に駆け出した。


 コンクリートの路地に靴音が響く。

 まだ朝刊も届いていない時間。人の姿はない。車も、通らない。

 ふたりは走った。何も考えずに、ただ走った。


 曲がり角を何度か超えて、大通りに出たとき、ようやく息をついた。


「……セーフ、かな……」


 パーカーの彼女が言う。肩で息をしながら、奈緒に目を向けた。


「ありがとう、一緒に出てくれて……あたし、ずっと怖かった」


「……名前、聞いていい?」


 彼女は小さく笑って答えた。


「ミユキ。漢字だと『美雪』だけど、今はもう、ただの“ミユキ”でいい」


 ふたりは近くのコンビニで、あたたかい缶コーヒーを買った。

 手が震えて、缶の蓋を開けるのに何度も指が滑った。


「奈緒さんって……ごめん、勝手に“さん”つけたけど」


「いいよ。“奈緒”で」


 コンビニの前に座り込み、ふたりで朝の缶コーヒーを飲む。

 遠くで新聞配達のバイクの音が響く。明け方の街に、日常が少しずつ戻り始めていた。


「これから、どうする?」


「わからない。だけど、戻らないってことだけは、決めた」


 ミユキは強く、はっきりとそう言った。


 奈緒も、うなずいた。


「……ねえ、知ってる? あの“光の会”、都内で何か所も施設持ってる。表向きは『NPO法人』だけど、中身は“財団系カルト”に近いって。うちの地元じゃ有名だった」


「……でも、助けてくれる人、いなかったよ。わたし、最初は本当に助かったと思った」


「うん。あのごはん、ちゃんと温かかったもんね」


 だがそれは“温かい檻”だったのだと、いまは分かる。

 誰かを囲い込み、依存させ、名前も過去も奪っていく――


「次、どこ行こうか」


「シェルターは怖い。でも、外はもっと怖い。寒いし、寝る場所もないし」


「……駅前に、夜だけ開いてる無料スペースがあるって。昔、ホームレスのおじさんが教えてくれた」


「信じていいと思う?」


「今は、選んでる余裕なんてないでしょ。信じるしかないよ」


 ふたりは再び歩き出した。

 その足取りはまだおぼつかない。けれど、方向だけは決まっている。


 背後の空が、ほんの少しだけ明るくなった。

 鳥の鳴き声が聞こえはじめる。


 目の前の未来は、何も変わっていない。

 それでも、ほんの少しだけ――孤独は、ましになった気がした。


「ミユキ」


「うん?」


「……ありがとう。逃げるとき、紙くれて」


「こっちこそ。あんたが一緒に逃げなかったら、私、怖くて動けなかったよ」


 交差点を渡ると、朝刊を取りに出たらしいおじいさんとすれ違った。

 何も知らない表情が、ふたりの存在を風景の一部として通り過ぎる。


 シェルターの夜も、そこにいた日々も、誰にも気づかれないまま過去になる。


 その事実が、少しだけ苦しかった。

 けれど、もう振り返らなかった。


 風が吹いていた。

 今日は、昨日よりも少しだけ、春に近づいている気がした。

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