時間泥棒と白ワイン

浅野じゅんぺい

時間泥棒と白ワイン

プロペラの音が、ぽつりぽつりと空に溶けていく。

ゆっくり刻まれるリズムに身を任せて、僕は南の島へ旅立った。


雲の切れ間から漏れるやわらかな陽射しが、

まるで水面に反射する光みたいに空気の中で揺れていた。



三十歳の手前で、僕は仕事を辞めた。

理由はたくさんあるけれど、どれも言葉にするには重すぎた。


「燃え尽き症候群ですね」と医師は言った。

でも、それが正解なのか、僕にもわからなかった。


ただ毎日、少しずつ時間が身体の片隅を溶かしていくような感覚があった。

怖くて、逃げるようにこの島に辿り着いたのだった。


プロペラ機の静かな振動が、まだ抜けきらない日常の名残を身体に残す。

その揺れは、これからの道をそっと示すような気もした。



午後の陽がゆっくり地面を撫でる頃、空港に降り立つ。

借りた車は傷だらけで、小さな音を立てながらもエンジンは優しく目を覚ました。


車内に流れるのは、ギターとピアノだけの静かな調べ。

まるで映画のワンシーンのように、胸の奥がふっとほどけていく。


窓の外には、風に揺れるハイビスカスの花。

通り過ぎる犬が一瞬だけ僕を見つめた。


ここには、時間をゆっくり盗んでいく「時間泥棒」が本当にいるのかもしれない。

そう思えた。



ロビーで広げた地図の上に、細い指先がすっと差し込んできた。


「ここ、観光客はあまり来ないけど、空気はほんとうにいいんだよね〜」

その声は軽やかで、少しだけはにかんでいた。


彼女に教わったバーは、白い砂の上にぽつんと建つ小さな木の小屋だった。

看板もなく、入口の灯りだけが静かに誰かを待っているみたい。


カウンターの隅に腰を下ろすと、隣には彼女がいた。

黒髪はゆるくまとめられ、片耳に小さなピアスが並んでいる。

うっすらと日焼けした肩には、水着の跡がほんのりと残っていた。


全体は島の景色に溶け込んでいるのに、彼女の瞳だけはどこか違う世界を見ているようだった。


「お酒は強くないんですけど……白ワインありますか?」

バーテンダーに尋ねると、彼女がくすっと笑った。


「白ワイン、いいよね〜。あたしもそれにしようかな」


そう言ってグラスを傾けながら、彼女は紙ナプキンの端を静かに折っていた。

折った角をまた別の方向に折り返す、まるで出口を探すかのように。


「君って、“時間泥棒”みたいだね」

「え? 僕が?」

「うん、話してると時間の流れがふわっと変わる気がする」


冗談か本気かはわからなかったけれど、彼女はただ微笑んだ。

押し付けず、受け入れるようなその笑顔が、なぜか心に残った。



翌日、彼女と小さな船に乗った。


「誰もいない浜があるんだ。観光地じゃないけど、風がほんとうにきれいで」


その言葉に誘われるように、僕は隣に座った。

船は小さくて、波に押されるままゆらゆらと進んだ。

やがて、軽い吐き気が胸をよぎる。


「……ちょっと無理かも」

「うん、顔が真っ白。戻ろうか」


彼女は迷わず、自分の帽子を僕の頭にそっと乗せた。


「実はあたしも船苦手〜。でも、君がぐるぐるしてる顔、ちょっと見たかったんだよね」

「それって、性格悪いよね?」

「でも、嬉しそうな顔が見られたから、なんだか安心した」


彼女の言葉は、嘘と本当がふわりと溶け合っていて、心地よかった。



島での時間は、夢みたいにゆっくり過ぎていった。


朝は鳥の声で目を覚まし、昼は水平線をぼんやり眺め、夜は彼女とワインを飲んだ。

彼女はよくグラスの水滴をなぞりながら話す。

語尾はゆるやかに伸びて、間が自然とできる。


そのリズムに身を任せると、僕の中の時間までやわらかくなっていった。


ある夕暮れ、砂浜に並んで座りながら、僕はぽつりと尋ねた。


「君も、どこかから逃げてきたの?」


彼女は少しだけ黙って、波を見つめながら小さな声で答えた。


「うん。逃げてきたよ。でもね、誰かに話すのは君が初めて」


そう言って、ポケットからレシートを取り出し、またゆっくり折り始めた。


「逃げることは悪いことじゃないと思う。

逃げたって、生きてるなら大丈夫」


「……僕も、そう思えるようになりたいな」


彼女が笑った。

ちょうどその時、波がひとつ弾けて、足元をそっと濡らした。



帰る日。


空港の売店で、あの白ワインを一本だけ買った。

小さなスーツケースに、そっと忍ばせて。


彼女の連絡先はあえて聞かなかった。

会えないほうが、思い出はきっと鮮やかなままでいてくれるから。


プロペラ機が滑走路を離れるとき、僕はスマホの再生ボタンを押す。

あの夜のギターとピアノの調べが、静かに耳に降ってきた。


誰にも盗まれたくない時間が、確かにここにあった。

だから僕は、生きていけると思った。


あの日のままじゃなくていい。少しずつ、でいい。





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