時間泥棒と白ワイン
浅野じゅんぺい
時間泥棒と白ワイン
プロペラの音が、ぽつりぽつりと空に溶けていく。
ゆっくり刻まれるリズムに身を任せて、僕は南の島へ旅立った。
雲の切れ間から漏れるやわらかな陽射しが、
まるで水面に反射する光みたいに空気の中で揺れていた。
*
三十歳の手前で、僕は仕事を辞めた。
理由はたくさんあるけれど、どれも言葉にするには重すぎた。
「燃え尽き症候群ですね」と医師は言った。
でも、それが正解なのか、僕にもわからなかった。
ただ毎日、少しずつ時間が身体の片隅を溶かしていくような感覚があった。
怖くて、逃げるようにこの島に辿り着いたのだった。
プロペラ機の静かな振動が、まだ抜けきらない日常の名残を身体に残す。
その揺れは、これからの道をそっと示すような気もした。
*
午後の陽がゆっくり地面を撫でる頃、空港に降り立つ。
借りた車は傷だらけで、小さな音を立てながらもエンジンは優しく目を覚ました。
車内に流れるのは、ギターとピアノだけの静かな調べ。
まるで映画のワンシーンのように、胸の奥がふっとほどけていく。
窓の外には、風に揺れるハイビスカスの花。
通り過ぎる犬が一瞬だけ僕を見つめた。
ここには、時間をゆっくり盗んでいく「時間泥棒」が本当にいるのかもしれない。
そう思えた。
*
ロビーで広げた地図の上に、細い指先がすっと差し込んできた。
「ここ、観光客はあまり来ないけど、空気はほんとうにいいんだよね〜」
その声は軽やかで、少しだけはにかんでいた。
彼女に教わったバーは、白い砂の上にぽつんと建つ小さな木の小屋だった。
看板もなく、入口の灯りだけが静かに誰かを待っているみたい。
カウンターの隅に腰を下ろすと、隣には彼女がいた。
黒髪はゆるくまとめられ、片耳に小さなピアスが並んでいる。
うっすらと日焼けした肩には、水着の跡がほんのりと残っていた。
全体は島の景色に溶け込んでいるのに、彼女の瞳だけはどこか違う世界を見ているようだった。
「お酒は強くないんですけど……白ワインありますか?」
バーテンダーに尋ねると、彼女がくすっと笑った。
「白ワイン、いいよね〜。あたしもそれにしようかな」
そう言ってグラスを傾けながら、彼女は紙ナプキンの端を静かに折っていた。
折った角をまた別の方向に折り返す、まるで出口を探すかのように。
「君って、“時間泥棒”みたいだね」
「え? 僕が?」
「うん、話してると時間の流れがふわっと変わる気がする」
冗談か本気かはわからなかったけれど、彼女はただ微笑んだ。
押し付けず、受け入れるようなその笑顔が、なぜか心に残った。
*
翌日、彼女と小さな船に乗った。
「誰もいない浜があるんだ。観光地じゃないけど、風がほんとうにきれいで」
その言葉に誘われるように、僕は隣に座った。
船は小さくて、波に押されるままゆらゆらと進んだ。
やがて、軽い吐き気が胸をよぎる。
「……ちょっと無理かも」
「うん、顔が真っ白。戻ろうか」
彼女は迷わず、自分の帽子を僕の頭にそっと乗せた。
「実はあたしも船苦手〜。でも、君がぐるぐるしてる顔、ちょっと見たかったんだよね」
「それって、性格悪いよね?」
「でも、嬉しそうな顔が見られたから、なんだか安心した」
彼女の言葉は、嘘と本当がふわりと溶け合っていて、心地よかった。
*
島での時間は、夢みたいにゆっくり過ぎていった。
朝は鳥の声で目を覚まし、昼は水平線をぼんやり眺め、夜は彼女とワインを飲んだ。
彼女はよくグラスの水滴をなぞりながら話す。
語尾はゆるやかに伸びて、間が自然とできる。
そのリズムに身を任せると、僕の中の時間までやわらかくなっていった。
ある夕暮れ、砂浜に並んで座りながら、僕はぽつりと尋ねた。
「君も、どこかから逃げてきたの?」
彼女は少しだけ黙って、波を見つめながら小さな声で答えた。
「うん。逃げてきたよ。でもね、誰かに話すのは君が初めて」
そう言って、ポケットからレシートを取り出し、またゆっくり折り始めた。
「逃げることは悪いことじゃないと思う。
逃げたって、生きてるなら大丈夫」
「……僕も、そう思えるようになりたいな」
彼女が笑った。
ちょうどその時、波がひとつ弾けて、足元をそっと濡らした。
*
帰る日。
空港の売店で、あの白ワインを一本だけ買った。
小さなスーツケースに、そっと忍ばせて。
彼女の連絡先はあえて聞かなかった。
会えないほうが、思い出はきっと鮮やかなままでいてくれるから。
プロペラ機が滑走路を離れるとき、僕はスマホの再生ボタンを押す。
あの夜のギターとピアノの調べが、静かに耳に降ってきた。
誰にも盗まれたくない時間が、確かにここにあった。
だから僕は、生きていけると思った。
あの日のままじゃなくていい。少しずつ、でいい。
時間泥棒と白ワイン 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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