第四章:崩れるものと崩れないもの
礼拝堂全体に、絶叫が木霊する。
侮蔑、嘲笑、怒声、呪詛、悔恨、拒絶、嘆願――
チャコタの無数の顔が一斉に呻き、呻き、呻き……肉塊がぐずぐずと崩れ始める。
鯖江は咄嗟に手を引き、粘液まみれになった腕を振り払う。
「うぇー、汚ねぇ。これは母ちゃんに怒られるな……」
チャコタの肉体は完全に崩れ落ち、礼拝堂の張り詰めた空気がわずかに緩んだ。だが、それでも完全に狂気が去ったわけでなかった。
「逃がすかっ……死ね!!」
唐音が勢いよく駆け出し、再び鯖江に襲い掛かる。
「なっ、怪物は倒したのに!!」
その手は震えながらも拳を固め、再び殴りかかろうと振り上げられる。
狙いは鯖江の顔面。全力を振り絞って怪物を倒した彼に、避ける余力は残されていなかった。
しかし、その拳が届く直前――
「唐音、やめろ!!」
叫び声と共に、八雲が唐音の拳の軌道を遮った。
ごっ、と鈍い衝撃。八雲の頭が振れ、よろめく。それでも彼は踏みとどまり、唐音にのしかかるように組み伏せた。
「ぐっ……!離しなさいよ、この変態!!」
床に倒れ込む二人。八雲の体が唐音を押さえつけ、動きを封じる。殴られた頬には、じわりと赤い血が滲んでいた。
「やめろって……もう、終わったんだよ……!」
苦しげな声、ふらつく視界。それでも、八雲は諦めなかった。
「鯖江は何もしていない……むしろオレたちを助けてくれたんだ……!」
「離して……全員、殺さなきゃいけないの!!皆が怖くてたまらないの!!」
説得も虚しく、唐音は必死に暴れようとする。だが、疲れからか、その動きは明らかに鈍っていた。
「オレだって同じだ……っ!!」
八雲の瞳に、涙が滲む。夢路の砕けた腕が、未だ脳裏に焼き付いて離れない。
「オレのせいで……夢路さんは噛まれたんだ……!あのとき、俺が大福を怪物の口に投げていれば……っ!」
声が震える。吐き出した言葉の重みに、八雲の喉が詰まった。
「でもそれでも、夢路さんは……最後まで、オレを責めなかった……っ! そばにいて、八雲のせいじゃないって言ってくれたんだ……!全部、年上の自分が止めなかった責任だって……!!」
その言葉に、唐音の動きがふっと止まった。彼女は抵抗を止め、完全に力を抜く。
「……ずるいよ、そんなの……っ」
かすれた声が、ぽつりと零れた。
「夢路先輩……そんな風に全部引き受けて……誰の事も責めなくて……そんなの、ずるいよ……アタシがバカみたいじゃん……」
握った手に力がこもる。けれど、それはもう誰かを殴るためではなかった。
「アタシ……何故か誰かが裏切ってるって思い込んで……それで……っ」
言葉が詰まり、嗚咽が漏れる。
八雲は何も言わず、唐音を抱き寄せた。唐音も拒むことなく、それを受け入れる。
礼拝堂の中にはようやく静寂が訪れた。
唐音は、八雲の胸に顔を埋めたまま、しばらく声を殺して泣いていた。震えが徐々に静まり、呼吸が落ち着いていく。
「……本当は、鯖江だけじゃなくて……近くにいる人、全員が……敵に思えた」
八雲は何も言わず、ただ静かに頷く。
「自分以外の全員が、何かを隠してる気がして。……だから殴ろうとしたんだ。鯖江が“信頼できなかった”からじゃない……近くにいる人なら、誰でもよかった」
唐音は視線を上げ、鯖江の方を向く。その表情はまだどこか硬く、震えていた。
「だから……ごめん、鯖江」
鯖江は一瞬眉を顰めたが、特に気にする様子もなく答えた。
「いいよ。別に怪我してないし。――それよりも、そこで抱きしめている八雲くんに謝ったら?」
「……っ、あ……」
唐音は、はっとしたように八雲の顔を見上げた。自分が、いま誰の腕の中にいるのかをようやく思い出したかのように。
八雲は、どこか困ったように微笑んでいた。頬にはまだ、唐音の拳が残した赤い跡がかすかに残っている。
「……ごめん。八雲──痛かった、よね」
「うん、まあ、ちょっと」
八雲は正直に頷いた。けれど、その態度に責め立てる素振りはない。
「オレは……唐音が戻ってきてくれて良かった。本当に、良かったよ」
その言葉に、唐音は再び目を伏せる。
「……もう、やだ。泣くの、今日で二回目」
「怪我人を放っておくとは……随分と大層なことで」
その声に、三人が顔を上げる。そこには、夢路が木製のベンチにもたれかかり、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべていた。だが、その顔色は真っ青で、まるで死体のようだった。
さらに、左腕はだらりと垂れ、袖が肩まで赤黒く染まっていた。
「夢路さん!」
八雲がすぐさま駆け寄り、その前にしゃがみ込む。
「大丈夫ですか!? 傷……っ」
「命に別状はないと、俺の無意識がそう言っているが、放置したら流石にマズいだろうね」
夢路は軽く深呼吸をし、息を整える。誰がどう見ても、死にかけていた。
「そんなことよりも、唐音は落ち着いたようだな」
唐音はコクリと頷く。
「夢路さん……ごめん。全部、オレのせいで……」
「違う」
夢路はきっぱりと言った。その視線はまっすぐで、曇りがなかった。
「誰のせいでもない。……そんなこと言い出したらキリがないんだよ。全ての事象は誰かのせいで、自分のせいなんだから」
「……それでも、オレ……怖くて、逃げて……夢路さんの腕が」
「それも、お前のせいじゃない」
夢路は八雲を落ち着かせるように、手を撫でる。
「逃げたくなったの は生きる為だ。無意識に従ったお前が正しい。あの場で恐怖を感じなかったら、そいつは異常者だよ」
その言葉に、八雲の目に再び涙が滲む。
隣に来た唐音も、夢路と八雲の重なる手を両手で優しく包み込む。
「夢路先輩。私、完全に……おかしくなってた」
「俺から見たら、全員おかしかったよ。後で診療所に来るといい。……それとも、皆で焼肉でも食べに行くか?」
「それ良いっすね〜。夢路が奢ってくれるってことでOK?」
遅れてトコトコと歩み寄ってきた鯖江が、いつもと変わらない呑気そうな顔をして、いつもと変わらない軽口を叩く。
「えっ。俺これから治療費かかるのに!?」
そんな冗談を言い合っていた時だった。
礼拝堂の梁が、大きく軋み、天井から拳ほどの瓦礫が落ち、床で砕け散る。
その隙間からは、ポタポタと黒い染みのようなものが滴り落ちていた。
「……まずいっすね。もうじき崩れますよ、ここ」
鯖江が声を上げた。
「おいおい、俺は怪我人だぞ!?走って逃げろっていうのか、ここの神様はよぉ!!」
「大丈夫。夢路さんは……オレが背負っていくから!」
八雲が力任せに夢路を背負う。
「ちょっと待て、痛い痛い痛いって!!」
夢路が背中で抗議の声を上げたが、八雲はそのまま、エイヤと抱え直した。
「任せてください。今度は絶対に……見捨てませんから!!」
「そいつは嬉しいけども、アッー!!」
聞く耳持たず、八雲が走り出し、唐音と鯖江がそれに続く。
礼拝堂の天井はすでに崩落し、それに続いて廊下も嵐のように崩れ始めていた。
玄関の扉を抜けた瞬間、振り返るまでもなく、建物が完全に崩壊したことを理解する。
冷たい外気が、肺を満たし、喉をヒリヒリと乾かす。
「はあっ、はあっ……」
唐音が膝に手をついて息を整える。
八雲は夢路を慎重に地面に下ろすと、その場に座り込んだ。
「ふー……夢路さん、無事っすか?」
鯖江が声を掛ける。
「お陰様でね。何度か意識が飛びかけたよ」
崩れ去った宗教施設――そこにあったものは、もうこの世のどこにも存在しない。
あれが何だったのか、本当に理解できた者は、誰一人としていなかった。
それでも、その場にいた全員が知っていた――礼拝堂にいた怪物は、決して“神”などではないと。
「……帰ろっか」
最初に言葉を発したのは、唐音だった。
その一言に、全員が顔を見合わせる。
夜の風は、いつのまにか冷たさを失っていた。
日が昇る中、4人の影が西の礼拝堂へと伸びていく。
だが、礼拝堂にいた悪魔は、もう二度と人を閉じ込める事はできないのであった。
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