第七頁 声
【水曜日】は軽々とジルビを運び、ふわりとジルビを床の上に下ろした。ジルビはその黒目を呆然と見つめた。【水曜日】もジルビを見つめ返した。ジルビの目尻にみるみるうちに涙がたまって、零れた。水曜日はそれを無表情のままで見ていた。
ジルビは怖いと思った。宝石を得るために、人の身体を暴く海賊のことを。
ややあって、【水曜日】は僅かに眉を潜めた。目頭の下に皺のようなくぼみができる。彼は血色の悪い唇を開けて、息を吸い込み、唇を動かしてひゅうひゅうというくぐもった音を出した。宝石を入れた首の膨らみが上下する。
「こん――で――、でも、――でき――」
水曜日ははっとしたように音を出すのをやめた。彼はゆるゆると指で自分の首をなぞった。その爪に塗られた青色が、てらてらと光って見えた。
ジルビも目を丸くした。今の一瞬、水曜日は自分が声が出ないことを忘れていたのだ。
「ごめんなさい」
ジルビはへにゃりと笑った。
「あたし、唇の動きだけじゃ、まだわからない」
水曜日は目を逸らして、舌打ちをした。それがジルビには意外だった。そして同時に少し気持ちが楽になった。やはりこの青年は、意外と短気で感情豊かなのだ。
「声、出にくいのに……話そうとしてくれてありがとう。貴方はずっと優しいね」
【水曜日】は複雑そうな顔をした。
ぐすっと鼻を鳴らしながらジルビは彼のコートを握りしめて立ち上がった。その頭を【水曜日】はそっと撫でてくる。
……ふと、この人にとってあたしは何なのだろう、そう思って胸がつきんと痛んだ。子ども扱いされているのは間違いないのだ。あるいは、庇護されている。
痛みを振り払うように、ジルビは【水曜日】から手を放し、ハダリーの傍に駆け寄った。
「ねえ、うちのお姉さんとミヒオさんは?」
「あ、やっべ忘れてた」
ハダリーは勢いよく顔を上げた。……が、すぐに表情を消し、気怠そうに言った。
「あー……でも放っておけばいいんじゃね? そのうち戻ってくるだろ。鮫はこの船に括り付けたままだしな」
「心配じゃないの? 探しに行けばいいのに」
「あ? オレたちが下手に行って鮫が花に感染したらどうすんだよ。その方が問題だわ」
「行ったら感染するって決まってるの? 根拠がどこに。あたしはお姉さんが心配なの。ただでさえ姉は、船酔いとか酷いし……」
「根拠なんてねえよ。根拠があったらこの世界でもっと生きやすいんだわ」
ハダリーは宝石を一つ踏みつぶして立ち上がった。オレンジ色の宝石がぐちゃりと潰れる。雫が木板に跳ねて染みを作る。
「あのなあ、そういうのの研究をすべきお偉いさんやブレーン共がこぞって青い海の夢に逃げ込んだの。だからオレたちは全部経験的にしか知りえねえんだよ。だけどな、これだけは言っておこうな。ジルビ、花に感染する方法はただ二つ。注射器で種をこっそり肉の合間に埋め込まれるか、感染者の血肉を取り込むこと」
ジルビは一歩後ずさった。ハダリーは笑っていたが、激烈な感情がその眼に燃えていたから。
「食えば感染して、食わなきゃ進行すんだ。オレたちゃ花まみれにならなきゃ生きてけねぇんだわ。麻薬と一緒だろうがよ、ええ?」
ハダリーはジルビに手を伸ばした。ジルビはもう一歩後ずさった。だがハダリーの手はジルビの耳を掴んで離さなかった。「痛い!」とジルビは叫ぶ。ジルビの耳の下で、赤紫色の宝石が大きく揺れる。
「カニバリズムなんか常識人のすることじゃねえだろ。まだ手遅れじゃねえ奴らに、人らしい食事をさせたいって願って何が悪い?」
ジルビはハダリーの肩を思い切り叩いた。「おお、怖いねえ」とおどけながら、ハダリーはやっとジルビから身体を離す。ハダリーは花の実が詰まった籠からぐずぐずに腐ったものを掴み取った。黄色のそれは、ハダリーが少し拳に力を入れただけであえなく崩れ、その指の隙間からぼたぼたと果汁を垂らした。
「これ見てみろよ、ジルビ。よーく見てみろ」
「な、にが」
「種、無いだろ」
ハダリーの声には疲労が滲んでいる。
ジルビはハダリーの掌を覗き込む。そこにあるのは宝石がそのまま液状になったかのような美しい煌めきだ。一様に黄色で、花の種らしきものはとても見当たらない。
「ここのどこかにな」
ハダリーは呟いた。
「本当は何千、何百って種が紛れ込んでんだよ。でもオレたち人間の肉眼では見えようがない。オレらの血管にはこの熟れきった果汁が花びらと一緒に流れてて、そん中に見えない種がいくつも混じってて……そんなオレらの血が、万が一にでも落ちたら? だからオレは、ミヒオに全部やらせてんだ。ミヒオが選んだ道で、お前がとやかくいうことじゃねえ。姉貴が心配なのはわかるけどな。それで死ぬならそこまでだ。冷酷上等。海賊はそういうもんだろ」
ハダリーは深く嘆息して、籠を抱えると、それをどん、と音を立てて【水曜日】の足元に置いた。
「なんっか興がそがれたし、あとはおまえがやっててよ」
その声は少し拗ねたようにも聞こえた。ハダリーは振り返ることなく左手を腰に当て、右手の指をひらひらと振りながら船長室へと歩いて行く。ばたり、とその扉が閉められた途端、【水曜日】は嘲笑を浮かべて鼻を鳴らした。ジルビにはそれが気にかかるのだった。【水曜日】はその場に座り込み、胡坐をかいて花の実の仕分けを始めた。
取り残されたジルビは、船縁に手をかけて、海原を覗き込んだ。鮫の屍は砂に沈んだり浮かび上がったりを繰り返しながら、船の横を並走する。船縁を掴んだまま、ジルビはその場にずるずると崩れ落ちた。色んなことが一気に伸し掛かって、頭がぐちゃぐちゃだ。何を信じたらいいのかわからない。お姉さん。早く帰ってきて。無事で帰ってきて。お姉さんがいないと、苦しい。寂しい。心細い。ここにはあたしの本当の味方がまだいないの。
木板に額を押し付けて、砂埃の積もった床を焦点の合わない目で見つめて。どれくらいの時間がかかっただろう。不意に、僅かに船が傾いた。鮫の方に傾いた。ジルビははっとして立ち上がった。
ぎしぎしと綱の張る音がする。ジルビは海を見下ろして、きゅっと唇を噛んだ。ぽたぽたと大粒の涙が勝手に零れて、海の方へ吸い込まれていく。
「おっ? 雨っすかね、めずらし……あ、ジルビさんすか。あれ? 泣いてる?」
【水曜日】のそれよりもキラキラと黒曜石のように輝いた目が、ジルビをまっすぐに見上げた。ぼさぼさの漆黒の髪が、風に揺れて砂まみれだ。
「アビルさーん」
ミヒオは下を見下ろして笑った。
「妹さんのお出迎えっすよ!」
「わ、わかったから、は、早くのぼって……!」
少し下の方で、細く一つに結った赤毛が揺れたのが見えた。もう、たまらなくなった。
「うああああああああああん!」
「えっ、ちょっ、どうしたんすか!」
「ミヒオさん、早くのぼって…!」
「あ、はい、はい」
「なんでどうしてそんな血まみれなのお」
ジルビはわんわんと泣いた。ミヒオは顔の半分が額から流れる血で染め上げられている。腕には太く白い骨が刺さっていて、未だ傷口からはどくどくと赤黒い血が零れて砂表に染みをつけていた。そんな体で、ひょいひょいと綱を手繰り寄せのぼってくるのが信じられない。
「どうしてそんなに無理するのお」
「あーっと! 悪かったっす悪かったっす! ちょっと身のこなし間違えちまって」
身軽に船の上に飛び乗ったミヒオが、ジルビを宥めようと腕をぶんぶん降る。その血が飛んでべちゃりとジルビの頬に張りついた。
「あ」
ミヒオは間抜けな声を出した。ジルビは少し我を取り戻し、涙を堪え顔中に皺を寄せながらぐすぐすと鼻を鳴らした。
「ジルビ? あんたこそけがは……」
よいしょ、よいしょ、という小さな声と共にようやく船上に姿を見せた姉の顔を見たら、ジルビはまた泣きだした。
「うわあああ……もう俺どうしたら」
「うわああああああん、お姉、怪我してないいいいいいい、よかったああああああ」
「え、俺の立場は……」
ミヒオがきょとんとしたまま自分を指さす。アビルはジルビをそっと抱きしめてぼさぼさの赤毛を指で梳いてやると、屈んで、ジルビの額に自分の額をこつんとぶつけた。
「ただいま。心配かけた」
「心配したああああああああ」
「はいはい、女の子なんだからもっと綺麗に泣きなさいよ、せっかく私より可愛い顔してるんだから」
「いや、アビルさんも可愛いっすよ」
「あの、今そういう話してない……」
アビルはほんのり首を赤くする。
「騒がしいなあ、んだよ、帰ってくるなり毎度毎度うるせえんだよミヒオはよ」
部屋に籠ったはずのハダリーは、部屋の扉から顔を覗かせて気だるげに怒鳴った。
「ええ、今のってほとんどジルビさんが泣いて――あ、なんでもないです」
アビルがじっと見つめていたので、ミヒオは顔の前で大きく両手を振って手を腰の後ろに回し、にかっと笑ってごまかした。ハダリーは外に出て、腕を組んで壁にもたれた。
「傷の手当ちゃんとしとけよ」
ハダリーは眉根を寄せて、低い声で呟いた。
「ったく、出血過多だと人間死ぬんだぞ、知ってっか」
「知ってます!」
ミヒオはぐっと怪我していない方の手で拳を握って見せた。ハダリーはジト目になる。
「じゃあなんで怪我するし」
「怪我の手当ては……私がするのでいいですか?」
アビルが恐る恐るといったようにハダリーに尋ねた。ジルビはアビルにしがみついてまだ鼻をぐずらせていた。ハダリーは顎をあげる。
「おう。包帯とかの在り処はミヒオが知ってっから、聞いてやれ」
「いや、俺一人で大丈夫っすよ――あ、なんでもないです」
アビルが涙目で頬を僅かに膨らませ、ミヒオを睨んでいた。ジルビはそんな姉の姿を、珍しいものを見るような心地で見上げて、鼻の下を指で擦った。
「あー……えっと! そう! すっげえ報告があるんすよ船長!」
ミヒオが誤魔化すように両手をぱん、と鳴らす。腕の血飛沫が、今度は【水曜日】の頬に飛んだ。ジルビは思わず「あ」と呟いた。【水曜日】はそれは不快そうな顔をして、持っていた宝石で血を拭った。ハダリーは眉尻を下げて溜息をついた。
「おう……お前は早くその腕をどうにかしろっつうんだよ……で、なんだよ」
「あの鮫、雌でした! キャビアっすよキャビア! 世界三大珍味! 俺他の食べたことないっすけど!」
「フカヒレはいつも食ってるだろうが。てか俺たち食べないし関係ねえわ! 興味もねえ」
目を輝かせるミヒオと対照的に、ハダリーは仰け反って空に向かって吠えた。それを、他の船員たちがきょとんとして顧みる。
ジルビは、急に騒がしくなった船上の様子を呆然として見ていた。不意に姉が小さな吐息を漏らした。姉の淡い緑色の目を見つめると、アビルはジルビの頭をもう一度撫でてくれた。
「ジルビ、あとで話がある。私ちょっと思いついたことがあるの」
「奇遇だね、お姉さん。あたしも話さなきゃいけないこと、いっぱいできた」
「そう」
そう言ってアビルは、目を細めてミヒオを見、黙々と仕分けの作業を進める【水曜日】を見、頭を掻いて深い溜息をつくハダリーを見遣った。
「この船は、おかしいわ。この船に乗っている人たち、みんな」
ジルビはゆっくりと目を丸くした。
姉の静かな声は、砂の風に溶けていく。
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