Last Aria
理瑠
第1話 金木犀のアリア
九月の終わりの空は、高く、どこまでも澄み渡っていた。
あれほど肌を焼いた夏の暴力的な日差しは、まるで嘘のように鳴りを潜め、肌を撫でる風は乾いた葉を転がすような軽やかな音を立てる。昼休みの喧騒が遠ざかっていく放課後の校舎は、心地よい静寂に包まれていた。
遠野想介は、高校二年生の秋を、そんな風に少しだけ退屈に感じていた。
向かう先は決まっている。旧校舎と新校舎の間に挟まれた、中庭と呼ばれる小さなスペース。用務員さんが手入れをしている花壇と、古びたベンチが二つ。そして、この中庭の主のように佇む、一本の金木犀の木。
それが、想介のいつもの居場所だった。
姉の、遠野花凪が亡くなってから、二年が経つ。
太陽みたいによく笑い、誰にでも優しく、そして少しだけお節介だった姉。彼女がこの世からいなくなって、想介の世界からは、確かな光が失われた。人を本気で心配したり、誰かのために心を尽くしたり、そんな当たり前の感情に、いつからか蓋をするようになった。深く関われば、失った時の痛みが襲ってくることを、もう知ってしまったから。
お人よしで世話焼き。姉が生きていた頃はそう言われた自分も、今ではクラスメイトのどうでもいい間違いを見つけては指摘する、ただの口うるさいツッコミ役でしかない。誰かのために心を砕くのが、もう怖かった。
金木犀の甘い香りが、ふわりと鼻先をくすぐる。
この香りを嗅ぐと、姉を思い出す。まだ想介が子供だった頃、この木の下で、姉が秘密のあだ名を付けてくれた。
「そうすけの『そう』って、『想う』って書くんでしょ?優しい子になるようにって。だからね、今日からそーすけは、『そーちゃん』ね!」
子供っぽすぎるからやめろと何度も言ったのに、姉はからかうように、楽しそうに、そのあだ名を呼び続けた。今ではもう、誰も呼ばない、姉だけの特別な呼び名。
「……そーちゃん」
不意に、背後から澄んだ声がした。
幻聴かと思った。姉の声にしては、少しだけ高い。けれど、確かにそう呼ばれた気がして、想介はゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、見慣れない制服の少女だった。
一年生だろうか。少し大きめのブレザーと、ウェーブのかかった柔らかな髪。九月の淡い陽光を輪郭にまとい、その姿はどこか儚げで、現実感がなかった。ブレザーの袖口から覗く手首があまりに細く、まるで幻のようだった。
けれど、何より想介の心を奪ったのは、その表情だった。大きな瞳をきらきらと輝かせ、満開の花のように笑っている。
「やっぱり! 探したんだよ、そーちゃん!」
「……は?」
間抜けな声が出た。なんだ、こいつは。人違いか?
いや、それにしては、あまりにも真っ直ぐに俺を見ている。
「人違いじゃないか? 俺は遠野想介だ。そーちゃんなんて名前じゃない」
「えー、でも、その名前が一番しっくりくるもん」
「もん、とか言うな。だいたい、あんた誰だ。うちの一年だよな?」
「うん! わたしは朝霧花音。よろしくね、先輩!」
花音、と名乗った少女は、ぺこりとお辞儀をする。その屈託のなさに、毒気を抜かれてしまう。
だが、謎は深まるばかりだ。なぜ、この後輩は俺の昔のあだ名を知っている?
「……朝霧、さん。悪いが、俺はお前のこと知らないし、その呼び方もやめてほしい」
冷たく言い放つ。これ以上、関わってはいけない。心の警報が鳴っている。自分のテリトリーに、ずかずかと踏み込んでくる気配を感じる。
「やだ。」
「はあ?」
「だって、やっと見つけたんだもん。面白い先輩!」
「面白いってなんだ、面白いって! 俺のどこにそんな要素がある!」
「今みたいに、すぐツッコんでくれるところとか?」
くすくすと、鈴を転がすように花音は笑う。
その笑顔を見ていると、胸の奥が、ちくりと痛んだ。懐かしい痛みだ。姉と交わした、他愛ないやり取り。失われたはずの時間が、目の前で再生されているような錯覚。
この少女は、危険だ。
想介は本能的にそう判断し、彼女に背を向けようとした。その時だった。
「この香り、懐かしいな。」
花音の呟きに、足が縫い付けられたように動かなくなった。
それは、数年前の秋の日。この場所で、姉が全く同じことを言ったのだ。
「この香り、懐かしいな。なんか、泣きたくなるくらい、優しい匂い」
振り返った先の花音は、金木犀の木を見上げて、うっとりと目を細めていた。
その横顔が、記憶の中の姉の姿と、呼吸が止まるほどに重なって見えた。
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