羊の末裔。
@musasabi001
第1話
さよなら、私の神様。
同級生が嫌いだ。
勝手に“同じ”だと認識されるから。そこから少しでもはみ出したら変やらなんやらと言われる。僕からしたら、他人を『同じ』なんて勘違いできる奴の方がよっぽど変だ。
❶
令和7年、4月1日。新しい制服に身を包んだ新入生を彼は白けた目で見ていた。彼自身、変わり者の自覚はあるが、新入生全員が憎いなんて尖った思考を持っている訳ではなかった。立花俊。都内で進学校に通う高校二年生の彼が、新入生をこんな目で見るのは、単に、新入生が探している人物が、立花の隣にいたため、周りの視線が騒がしいためだった。
立野凪咲。その爽やかな名前に負けない美少女だった。大きなアーモンド型の瞳も、通った鼻筋も、やや下がった眉も、確かに、世間一般的に見れば魅力的だ。長い髪をポニーテールにしているが、その髪が揺れるのを目で追ってしまう人は少なくはないだろう。
彼女が新入生から熱烈な視線を受けているのは、彼女の美貌だけが理由ではなかった。彼女の母親だ。彼女の母親は有名な女優だった。その美貌と好感度の高さから、今でもメディアでの露出は絶えない。ミーハーな高校生にとって、女優の子どもなんて、そのフレーズだけで飛びつくだろうが、そうでない生徒も彼女に興味がある様子だった。
それは彼女が普通ではないからだ。
そんなことを考えていると、彼女と目が合ってしまった。彼女は見られるのに慣れているのか、嫌な顔一つせず、微笑み返してくる始末。彼はすぐに目を逸らして、さして興味がない在校生代表の挨拶を清聴するフリをすることにした。
「……からお祈り申し上げ祝辞とさせていただきます。在学生代表高橋健司」
その生徒の両親と思わしき人物たちが、熱心に動画を撮影している姿に、彼は微かに、口元を歪ませた。
入学式が終わった。椅子を片す重労働も終えた僕は一枚の紙を見ていた。クラス名簿だ。昨年と同じ名前もある。その中に一番仲が良い人物の名前があった。僕は帰りの電車の確認をしようとスマホの電源を入れた。まだ校内で迂闊だったと思うのに時間はかからなかったが、「今年はクラス一緒」というメッセージ通知が来ていた。見れば分かることを、わざわざ言ってくるのが奴らしくて笑えた。
この様子だと、奴は電源を入れたまま持ち歩いていたらしい。僕は学級委員長でもないし、その気質もなかったので特に何を思うこともなかったが。
返信をしようと、ロック画面から移動しようとした時。
「あ、スマホ」
声が聞こえた。よく聞く声だった。
「……もう学校の時間じゃないから」
僕はスマホをポケットにねじ込んだ。こんなことで時間を取られたくなかったからだった。
「私、何も言ってないよ?」
相手はふ、と笑った。僕でなければ、舞い上がっていたのだろうか。僕はそのまま歩き出す。
「クラス、また同じだね」
彼女は、立野凪咲はそう言い放った。
「ああ、また明日」
僕は返事だけをして、また歩き出した。
絡まれて嬉しいなんて感情はなかった。
そんな僕もきっと普通じゃないんだろう。
電車で一時間が通学時間として長いかどうかは知らないし、興味がない。だが、乗り換えもない一時間は退屈だった。スマホで適当な動画を流し見することにした僕はイヤホンを着ける。まだ動画を再生していなくても、それだけで世界が少しだけ静かになる。そのことに少しの安堵を感じつつ、長い前髪を少し退けて視界を良くした。
ショート動画は今日も好き勝手に盛り上がっていた。政治家の汚職に性犯罪、学校でのイジメ問題、子供の反抗期、芸能人批判。
つくづく思う。こんな生きる意味を見出せない世の中でのうのうと生きてるなんて、損切りが下手な馬鹿しかいないんじゃないかって。
心の中で毒づきながら、無感情に次から次へと画面をスワイプする。
その中に見覚えのある顔を見つけてしまい、固まってしまった。
立野杏香。……立野凪咲の母親。舞台上で映画の宣伝をしているようだった。恐ろしいほど、顔が似ている。当たり前のことだけど。
そんなことをしていると、隣に人が座ってきた。僕はその人が座りやすいように席を詰める。咄嗟の行動だったが、スラックスが同じだった。
「ありがとうございます」
何も言わなくてもいいのに、その人はお礼を言ってきた。無視するのも憚られたので「いえ」と相手の顔を見て、後悔した。
「あ」
相手もお礼を言ったことを後悔したのか、急いでスマホに集中し出した。その露骨な態度に笑い出しそうになったが、今は学校以外で問題を起こすつもりもなかったので、止めた。
高橋健司は在学生代表の挨拶をしていた好青年と同一人物とは思えない嫌な顔をした。いつも笑顔で爽やかな生徒会長しか知らない他の生徒が見たら、度肝を抜かれるだろう。その様子を想像して笑ってしまった。
数駅後、逃げるように席を立ち、駅のホームに向かう高橋を横目で見ていた。
駅近の一軒家の『立花』の表札は今日も無駄に綺麗だった。賢吾のせいだろう。僕は乱暴に扉を開け、鍵が閉まる音を聞いた。靴を整えた。
リビングの扉を開ける。
「おかえり」
ボサボサ頭の眼鏡がいた。今日は髭を剃っていないのか、いつもより不格好だった。
「ただいま。珍しいね、リビングで仕事してるの」
「同じところで作業してるとたまに発狂しそうになるからな」
ボサボサ男―賢吾は苦笑した。
「学校、どうだった?」
「別に。普通」
「そうか」
賢吾はパソコンから顔を上げる。
「飯にしようか」
賢吾は席を立つとパソコンを自室に仕舞いに行った。僕はその間に手を洗い、部屋で制服から部屋着に着替えた。どんなことがあっても、食事だけは家族で食べる。それが我が家のルールだった。
賢吾は全く似合わない可愛いピンクのエプロンをしながら、キッチンで何かの肉を焼いていた。これはジビエとかそういう意味ではなく、僕が肉の種類に興味がないだけで、マイナーなものを食べさせられているということではない。
僕は冷蔵庫に入っている洗わなくて良い野菜を皿に盛り付けた。お米の上に肉が乗せられるのを確認して、賢吾の席に箸置きと箸を置いた。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせる。リビングに咀嚼音だけが響く。賢吾は沈黙に耐えられなかったのか、テレビを点けた。ニュースは終わっていて、くだらなさそうな生放送のバラエティが始まっていた。
「あ、立野さんだ」
また、立野だ。僕はうんざりしながらテレビを横目に見た。親の方の立野は完璧な笑顔でゲスト席に座っていた。
『立野さん、本当にいつ見ても美しい!』
『恐縮です』
風格を纏った彼女は笑っている。
『旦那さんは有名脚本家で、まさに完璧なご夫婦ですよね』
その次に続く言葉に予想がついたのか、彼女はほんの一瞬、顔を歪めた。
『娘さんもさぞお綺麗なんでしょうね』
『いや、クローンなんだから当然やろ!』
お笑い芸人が相方を叩く。それを見届けるか否かのタイミングで賢吾はテレビのスイッチを切った。
また、沈黙が始まる。僕は今、口に入っている食べ物を飲み込んでから言った。
「このお笑い芸人、炎上するだろうね」
クローンという言葉の語源はギリシャ語の小枝だという。そこから派生して、挿し木を意味するようになった。植物は高度な技術を用いなくても、挿し木や株分けなどの方法により、同じ遺伝子をもったクローンをつくることが出来たそうだ。
立野凪咲はクローン人間だ。その細胞は全て立野杏香と同一で、年が異なる一卵性双生児と言えば分かりやすいだろう。クローン人間かつ有名女優の娘。それが同じクラスの立野が全生徒から注目されている理由だった。
自室に戻った僕はベッドに横になる。血糖値の急激な上昇に伴う耐え難い眠気のためだった。そして、明日のことを考える。始業式の良いところは宿題が出ないことだと感じた。まぁ、出たとしてもやらないが。
控えめなノック音が部屋に響いた。
「どうぞ」
賢吾は随分とスッキリとした姿をしていた。髭を剃って、服を着替えたから、そう見えるのだろう。まぁ、頭はボサボサなんだけど。
僕は次に続く言葉が予想できてしまった。
「愛花の見舞いに行くけど、来るか?」
賢吾だって、僕が来ないことなんて知っているだろう。何万回と繰り返したから。
「行かない」
僕もお決まりの言葉を吐く。賢吾は少し眉を動かすと「そうか、行ってくる」と発言して、扉を静かに閉めた。
賢吾と愛花は婚姻関係で、愛花は長らく意識が戻っていない。なんでそうなったのか、僕は知らない。知ったところで僕にはどうしようもないことだ。病院で寝ているその人は生気が感じられなくて、管が沢山刺さった人形みたいだった。
このままだとお風呂に入るのも忘れそう。僕は風呂場に向かう。栓を抜いて浴槽を洗おうと風呂蓋を開けると、もうお湯が張ってあった。その湯気が、このお風呂の湯が今さっきできたことを教えてくれた。賢吾がやってくれたのだろう。賢吾はぶっきらぼうだが、気が利く人だった。僕の髪はキシキシしていて、触り心地が最悪だった。賢吾が高いシャンプーを買ってきた時は勿体無くて、無駄遣いしやがってと思った。だが、使わない方が勿体無いので有り難く使わせて貰ってる。まぁ、僕の髪のキューティクルが蘇ってくれたとして、良いことなんかないんだけど。
湯船に浸かると、今日の疲れが癒える気がした。
僕にはお風呂で行うルーティンがあった。目を閉じて、鼻をつまむ。そして、そのままお湯に潜る。そうすると、世界が静かになる。僕だけになる。静寂が僕を包んでくれる。
翌日、クラスはあの番組で持ちきりになっていた。お笑い芸人の配慮のない言葉に憤慨する言葉が飛び交う。その真ん中で、立野は困ったように微笑んでいた。
「凪咲、あんなの気にしちゃ駄目だよ。コネがない奴がコンプレックス拗らせて騒いでるだけなんだからさ」
立野の取り巻きの女子その2がそう喚いた。僕はあまりの五月蝿さに眩暈がしたが、もうすぐに授業が始まるため、大人しく着席していた。
どうやら、あの後もお笑い芸人のクローン弄りは続いたらしい。このコンプライアンス重視の世の中で、わざわざ炎上するに決まっている言葉を選ぶ神経が理解できなかった。だが、クローンには反対側の人間も多い。その層へのアプローチ目的か、または、爪痕を残せれば何でも良かったのか。番組を見ていない僕には判断がつかなかったが、立野には素直に御愁傷様、と思った。
「はは、その、ごめんね」
立野は笑っていた。元々下がり眉の立野が困ったように笑うと、悲劇のヒロインの出来上がりだった。ただでさえ魅力的な立野のそんな様子にクラスの僕以外が心を奪われていた。
「もうさ、凪咲のお父さんの力で潰しちゃえばいいんだよ。あんな奴」
「今時、クローン反対なんて遅れてるよね。法律もきちんとあるのにさ」
「偉い人が叡智を集結させて生み出した技術をあんな素人が侮辱して良い訳ないし」
「よく言った! やっぱさ、育ちが良くないんだよ。ああいう人は」
「あの芸人、高卒だったっけ?」
「あー。お里が知れてるって感じ」
「CMの後、いきなり黙ったもんね。怒られたんだよ」
「なにそれ、ダサ」
クラスメイトは好き勝手に騒ぎ出す。それはショート動画の罵詈雑言に似ていた。その怒りは果たして、本当に立野のためなのだろうか。立野はますます困った顔をしていたが、ヒートアップした民衆には届いていなかった。
「……先生、遅くない?」
暫くそうしていると、誰かが呟いた。時計は授業開始時間を超していた。
「これ、自習?」
「やった」
自習になったところで、その埋め合わせは教師が毎度時間を引き延ばすことになるだけなのに。
「はぁ、仕方ないな」
少し芝居がかった様子で、高橋は立ち上がった。
「柴野先生、呼んでくる」
その瞬間、教室はブーイングに包まれる。高橋がうざい委員長タイプなら、本気のブーイングが飛んでいただろう。だが、高橋は勉強が出来るだけではなく、スポーツ万能で気さくな性格の漫画のキャラクターのような人間だった。立野がこの学年のヒロインなら、高橋はヒーローだった。
「高橋、今更真面目キャラでいこうとしても無理あるぞ」
「案外、先生は騙せるかもよ。俺の演技力で」
「これ以上内申上げてどうするんだよ!」
ドッと笑いが起こる。正直、何が面白いのか理解出来ない。箸が転んでもおかしいお年頃ということなのだろうか。
「俺は完璧主義なの!」
そう言って高橋は教室を出て行った。
ヒーロー不在の教室はそれでも騒がしかった。
「高橋、やっぱカッコいいよな」
「あー、真の陽キャっていうの?」
「分かる。高橋なら立野さんと付き合ってもギリ許せる」
お前はどの目線なんだよ。僕は興味のない教科書を捲りながら思った。
「え、てか高橋って立野さんのこと好きだよね?」
教室が静まり返った。それは、これから騒がしくなる前振りだった。
「やっぱそう思う?」
「分かる。高橋は皆に優しいけど、なんか、立野さんのこと見てる目が優しいよね」
「目が優しいとか! 詩的じゃん」
「詩人目指してるから、俺」
「詩人に謝れよ」
男子達が話を逸らしてしまいかけた時。
「凪咲ちゃんは高橋のことどう思うの?」
取り巻き女子その1が核心を突いてきた。教室に緊張が走る。
「え、わ、私……?」
今まで静観していた立野は急に話を振られて、目をしばたたせていた。周りの視線が立野を刺す。誰も、何も言わない。立野が困ったように笑っても、答えないことを許さない。
立野はついに下を向いてしまった。
「そんな性格だから、一年の時にクラス全員から無視されたんだろ」
言ってしまった。取り巻き女子―矢島香里奈は眼球が飛び出るのではないかと思うほど、目をかっぴらいた。かと思えば、小さい体でこちらに突進してきた。
「今、なんて?」
僕の机を叩く。手が痛いだろうに。
「ついに耳まで悪くなったの? 可哀想に」
「は?」
「頭、悪いよね。矢島って言わなくていいことばっかり言うじゃん」
「立花だけには言われたくない!」
「僕に言われるほどなんだ……って思うから?」
鼻で笑うと、矢島は茹蛸みたいに真っ赤になった。
「立花みたいな性格最悪男には言われたくないって言ってるの!」
「矢島って都合が悪い時だけ男とか女とか言い出すよね。そういうの止めた方が良いと思うよ」
それが試合終了の合図だったのか、矢島は黙る。矢島が僕に手を振り上げるのがスローモーションのように見えた。暴力に出るなんて、自分は口喧嘩に勝てない馬鹿ですって自己紹介しているようなもんなのに。なんで、こんなことも分かんないだろう。
くるであろう衝撃に目を瞑ったが、いくら待っても、その時は来なかった。
恐る恐る目を開ける。
「あ、ごめん。その、暴力はいけない……と思うよ」
高橋が矢島の腕を掴んでいた。
「……勝手に触ってごめん」
高橋は気まずそうに手を離した。
「いや、その、止めてくれてありがとう」
矢島も気まずさが移ったのか、はたまた冷静になったのか、下を向いた。
高橋の言うことなら大人しく従うんだな、とも思ったけど。
「あ! あ! 高橋! 結局、自習だったのか?!」
場の空気を変えようとしたのだろう。底抜けに明るい声が響く。
「それが……残念ながら……」
高橋は下を向く。周りは次にくる言葉を理解しつつ、堪えていた。
「自習です!」
「いや、自習なのかよ!」
いい加減、笑うのにも飽きてこないかと言ってやりたかった。これ以上、空気を悪くしたい訳ではなかったので黙っていたけど。
俺は席を立つ。その行動が予想外だったのか。また、クラスに沈黙が走る。その様子を横目にスタスタ歩き出す。
「おい、どこ行く?」
高橋は矢島を止めた時のように僕の腕を掴んだ。
「自習は教室の中でしなきゃいけないルールでもあるの?」
「いや、あるだろ」
「高橋がそのルールを先生に確認してくれるなら考えるけど。そんなに僕といたかった?」
高橋は余程、その言葉が心外だったのか、手を離す。
「生徒会長様は大変だね。こんな下々の人間まで相手しなくちゃいけなくて」
「分かってんなら言うこと聞けよ」
そう言ったのは高橋ではなかった。高橋の取り巻きは僕を睨みつける。
「お前が大好きな高橋の視界から消えてやるんだから感謝しろよ」
僕は歩き出す。もう絡んでくる奴はいなかった。
遥か昔は学校の屋上は開放されていたらしい。今はしっかりと鍵が掛かっていた。空を見たいなんてセンチメンタルは持ち合わせていなかったが、行ける場所が減ったのは素直に痛手といえるだろう。
僕は仕方なく、保健室に向かう。保健医は僕を快く出迎えた。
「あら、立花くん。いらっしゃい。ベッド、空いてるよ」
予約席でも案内するかのような気軽さで先生は僕を案内した。
「ありがとうございます」
僕は素直にお礼を言った。カーテンレールを滑る耳障りな音を聞きながら、僕はベッドに横になった。
今日はもう、授業受けなくていいや。クラスメイト達だって、僕がいない方が良いに決まっているんだから、お互いに最適解。ウィンウィンというやつだろう。きっと。
そういえば、昨日、賢吾が帰宅した姿を見た記憶がない。病院は自転車で5分の場所にある。面会時間の終了時間はそこまで遅くないし、また無理を言ったのだろうか。
シャー。シャー。
ギギギ。
ひんやり。
いつの間にか寝ていた僕は冷たい感触で目が覚めた。カーテンレールを滑る音と椅子を引く音も、僕が起きる要因になったのは明白だった。
「賢吾……?」
僕はまだぼやける視界の先の誰かに問いかけた。その人物は微笑んだ。
「ごめんなさい。私で」
その声に、僕の意識は急激に覚醒した。
「なんで、いんの?」
率直な疑問だった。立野はまた困ったように微笑んだ。立野には笑顔しかインストールされていないのかと、本気でそう思える。
「お昼休みだから」
「そんなこと聞いてないんだけど」
また、立野は困った顔をした。
「その、心配だったから」
それが紛れもない事実なのが、更に僕をイラつかせた。
「ヒロイン様は随分暇なんだね」
「立花くん、その、そういう言い方は、本当に止めた方がいいよ」
言葉を詰まらせながら立野は発言する。
「その、さっきも、立野くんの優しさ……だったんだよね?」
疑問系のくせに、立野には確信があったようだ。
「違うけど。自分は助けられて当然だとでも思ってるの? というか、立野って矢島と仲良いんだよね? 矢島が嫌いな僕のお見舞いなんて、よく出来るね」
「私が香里奈ちゃんと仲良しなこととお見舞いに来ちゃいけないことに関係はない、と思うよ」
「あるよ。矢島はきっと嫌がるよ? あ、分かった。矢島のこと本当は嫌いなんだ。分かるよ。矢島、ウザいもんね」
「香里奈ちゃんはウザくないよ。正義感が強いだけで」
「そういうのウザいって言うんじゃないの? 机上の空論って言えばいい?」
立野はまた、下を向いてしまった。
「立野、休み時間勿体無いから戻れば?」
「立花くんといる時間は勿体無くないよ」
「は、学校のアイドル様は大変だね。こんな」
「立野くんは下々の人間じゃないよ」
真っ直ぐな瞳が僕を捕らえる。
その真摯な姿に、猛烈な吐き気を覚えた。
「立野と話してると、本当に気分が悪くなる」
僕は立ち上がった。
「じゃあね」
乱暴にカーテンを引くと、耳を澄ませている保健医と目があった。
「職務怠慢じゃないですか? 先生」
「怠慢にならないように、耳を澄ませてたよ」
その言葉に苛立ちを募らせながら、僕は足早に保健室を去った。
僕は屋上を目指す。正しくは、屋上に繋がる廊下の突き当たり。そこには人がいないからだ。
誰もいないことを確認した僕は階段に座った。
イライラする。
わざわざ僕に会いに来る立野も、あの保健医も。そもそも男子のベッドに女子を通すとか昨今のコンプライアンス的にどうなの? 何かあったらどうするの? 逆なら大問題じゃないか? 教育委員会に怒られろ。
僕は頭の中で思考がぐちゃぐちゃに巡るのを感じた。こういう時は考え尽くすのに尽きる。午後の授業に出る気も無かったから、時間だけはたくさんあった。
体育座りした膝の上に頭を預ける。壁に身体を寄せる。目を瞑る。平衡感覚がなくなって、静かになる。息を吐いて、吸う。
スマホとイヤホンも持ってくれば良かった。そんな後悔が浮かんで、すぐに消えた。
まぁ、ボールペンがあるし、いいか。
足音がした。この先には何もない。屋上を使う課外授業なんて滅多にないし。
嫌な予感がしたため、顔を上げた。そこには、高橋がいた。
「起こしてごめん。僕、前から立花くんと話したくて」
オドオドと話す高橋。高橋といっても、目の前の人物は生徒会長の高橋ではなかった。同じクラスのもう一人の高橋。名前は何だったっけ。僕は記憶を遡ったが、思い出せなかった。
許可もなく、高橋は隣に座ってきた。
「前から思ってたけど、矢島ってウザいよね」
「……へぇ」
僕の返事に好感触を得たのか、高橋は水を得た魚のように話出す。
「小さい女のくせに調子乗ってるって言うか。実力もないくせに、立野さんの友達になってから痛々しさに磨きが掛かってるって言うか! 去年、同じクラスだったんだけど、皆に無視されてて、やっぱ性格が悪いんだよ! 黒板消しの当番忘れただけでガチギレするし。女子の代表みたいな顔してるのに、女子にも嫌われてるし! 目立ちたがり屋で! それにそれに……」
高橋の聞くに耐えない言葉は止まらなかった。途中から聞く気になれなくて、意図的に意識を飛ばしていた。残念なことに高橋は気が付かなかった。
「……だからさ、僕たち、友達になれると思うんだ」
何を思ったのか、高橋は手を繋いできた。僕は人はここまで自意識過剰になれるのかと感心していた。もちろん、悪い意味で。
いつもだったら、こんな奴、僕だって相手になんかしないが、今日はイラついていた。
「そっか、じゃあ、高橋は矢島が嫌いなんだ?」
「……! そう! そうなんだよ!」
たった一人の理解者を見つめるような目をした高橋。
「一つ、聞いていいかな?」
「うん。何でも聞いてよ」
高橋は歪んだ笑みを浮かべた。長らく笑っていないのだろう。気持ちの悪い、下手な笑顔だった。
高橋が笑ったのは、僕が話を聞いていたと勘違いしたのと、恐らく、高橋を高橋と呼んだからだと思う。高橋は生徒会長の高橋と同じクラスになった瞬間から、『メガネ』と呼ばれていた。
「一年のとき、矢島に告白してフラれたって本当?」
その言葉に高橋は固まった。
「噂で聞いちゃってさぁ。高橋から本当のこと聞きたいな?」
「あ、ああ。……まぁ、その、事実でもあるよ」
「ふぅん」
「矢島、あいつ、僕がクラスの奴に揶揄われてる時に、『そんなこと言うな』って怒鳴ったんだ」
「へぇ」
「それでさ! 僕に言ったんだよ。『気にしなくていい。人にキモいなんて言っちゃいけないんだから』って! それから、ちょくちょく話すようになって。皆が矢島を無視するようになって、僕だけは話しかけてやってたんだよ。恩も感じてたし。それで、二人で勉強とかもするようになって! 矢島、絶対僕に気があるんだなって! それで、告白してやったら、『ありがとう。でも、高橋のことそういう目で見られない』って! 思わせぶりなことしやがって! あいつ性格悪いんだよ! 他の男にもそういうことやってるんだ! 僕だけじゃなくて! ビッチだよ! ビッチ! 大して可愛くもないくせに調子乗りやがって!」
最終的には肩で息をしていた。普段、よっぽど運動していないんだな。僕は冷めた目で高橋を見ていた。
「本当に酷いね」
「そうだろ?!」
高橋は縋るような顔をしていた。
「うん。お前が」
僕は微笑んでやる。
「僕、矢島のこと嫌いだけどさ。矢島の陰湿ではないところだけは評価してるんだよね。凄いなって。僕、陰湿だから。高橋って、凄い陰湿なだけなのに、ニヒルな僕カッコイイ、女に靡かない僕って冷静! 他の男どもは女の尻追っかけて猿みたい! とか考えてるよね? そのくせ、女に告白してフラれたら、僕ちゃんのプライドを傷つけやがって最低! 僕ってば可哀想……って。ははっ! どんだけ自分に甘いんだよ! 大して可愛くないと思う女にフラれて喚く男がモテる訳ないじゃん。頭悪すぎじゃない? お前なんかママしか愛してくれないよ? どうせ叶わない恋するくらいなら親孝行でもすれば?」
僕が何を言っているのか理解できなかったのか、高橋は固まった。すぐに行動した矢島の方がまだ頭が良いんだなと思った。
「な、違う!」
「何が? 何が違うの? あ、ママさえ愛してくれてないとか?」
「違う! ここでママの話をするのは卑怯だろ!」
「そうかな。あ、知ってる? 性格って50%くらい遺伝するらしいよ。きっと、高橋のママも性格が悪いんだろうね。だったら、高橋だけのせいじゃないよ。良かったね。『僕』だけのせいじゃなくて」
「ママは世界一優しい!」
「じゃあ、ママが可哀想だね。こんな性格が悪い息子で」
高橋は呻き声をあげて黙った。これくらいで止めてやるかと僕は歩き出した。
「高橋にさえ目の仇にされてるくせに」
僕は振り返った。この『高橋』は生徒会長の高橋だろう。
「他の奴らは気付いてないけど、僕だけは知ってる。電車で凄い嫌な顔してるの見てたから」
あの時のことか。僕は昨日の電車のことを思い出した。
「高橋にさえ嫌われるとか、人間じゃないよお前」
今までで一番歪んだ顔をしていた。
「お前が高橋にさえ認知されてないだけじゃない? ていうか、お前、生徒会長のこと嫌いなくせにこういう時は利用するよね」
「……は?」
「自分のスペックじゃ僕に勝てないからって、嫌いな相手の威厳にフリーライドするのってどうなの? 『メガネ』って言われた時のお前の顔! 本当に不細工だった。虎の威を借る狐って言葉あるけど、狐ってビジュアルいいから、高橋には勿体無いよね」
また、高橋は呻き出す。
「ああ、これこそ高橋は悪くないよ。容姿の遺伝は性格より強力だろうから。きっと高橋のママはブッサイクなんだろうな! お前が矢島に惚れたのも受け入れてくれそうな女だったからで、別に矢島自体が好きな訳じゃなかったんだろ? ママもママの代わりの女体も欲しいんだよね? お前を揶揄った男やメガネ呼びした男より自分を拒絶した女のが憎いんだもんな!」
「ママはすごい美人だ!」
「遺伝してなくて最悪だな!」
今度こそ完膚なきまで叩きのめされたのか、高橋は動かなくなった。
今日はもう帰ろうと僕は歩き出す。
「……の癖に」
ボソボソと何か聞こえた。
「は? 人語で話せよ」
「僕と同じ陰キャな癖に!」
「確かに僕は陰キャだけど、流石にお前と一緒にされるのはキツいよ。ていうか、僕、顔はいいし。顔が良い僕が許されないことが、不細工のお前に許される訳ないじゃん。鏡見ろよ」
高橋は奇声を発した。
それから、僕は倒れていた。遅れてきた腹痛に、腹部を蹴られたことに気がついた。ここ、偏差値は高めの私立高校なのに。暴力的な人間が多いのはどういう了見なのか。
「……の癖に! 癖に! 遺伝子だけの癖に!」
高橋、声だけはいいな。声優になればいいのに。そんな現実逃避をしていた。
階段を駆け上がる音が聞こえた。誰かが来る。あんな大声で奇声を発していたのだから、当たり前だ。どこまでも衝動的過ぎる。
奇声さえ発しなければ、腹を蹴っている訳だし、上手いこと僕を脅せばなかったことにもできたかもしれないのに。きっとそこまで考えていないのだろう。僕は芋虫みたいに丸くなりながら、そう考えた。
「おい!」
誰かが高橋を羽交諦したようだ。脚からして男だった。また、誰かが僕に駆け寄る。倒れている僕にはズボンしか見えない。取り押さえた男のズボンは黒。駆け寄ってきた男のズボンは、指定のスラックスだった。
僕は顔を上げる。
心底嫌そうな目が僕を捕らえていた。
「あ、本物の高橋じゃん」
その言葉に偽の高橋は蛙が潰れたような声を上げる。
「は、は、きったない声!」
痛む腹を抑えながら、嘲笑った。笑うと腹に響いて傷が痛んだ。これじゃ確実にアザになるだろう。
俺のそんな様子に、本物の高橋は眉を顰めた。
「……立てるか?」
「これが一人で立てるように見える?」
純粋な疑問だったが、本物高橋はため息を吐いた。
少しの浮遊感の後、どうやら本物高橋に肩を組むような形で起き上がらされたことに気が付いた。
「……これじゃ、階段降りられなくない?」
「一段ずつならいける」
そう仏頂面で高橋は言った。そんな顔するくらいなら、僕なんか助けなければいいのに。
僕はそう思いながら、転ばないように歩いた。
保健医は僕を間抜け面で出迎えた。流石に今日は来ないと思っていたのだろう。この表情で今日の損失はカバーできるかもしれない。そんな冗談を考えたが、口に出すのは止めておいた。
「……高橋くん、ついに、やっちゃったの?」
保健医は意を決した顔でそんなことを宣った。
それに高橋は苦笑で返した。
「俺じゃありません。同じクラスの高橋龍二です」
あいつ、龍二なんて大層な名前なのか。僕はさっきの蛙声を思い出して嘲笑った。トカゲかイモリってところだろ。いや、爬虫類は結構可愛い顔をしているから、トカゲとイモリ、ついでに蛙にも失礼か、と考えを改めた。
「え? あの大人しい子?」
「はい」
「……あ〜、確かに立花くんと相性悪そう……」
「アレと相性が良い人間なんていないと思いますよ」
僕は真理を教えてあげたのに、2人はなんとも表現し難い顔をした。
「ええと、で、立花くんはどこやられたの?」
「お腹を蹴られました」
未だにジクジクと熱がこもった腹を摩りながら発言した。高橋は僕を黒の長椅子に座らせる。
「お腹、見ても良い?」
保健医はまるで幼児にするように目線を合わせてきた。
「もちろん。そうじゃないと、先生仕事ができないでしょ?」
「ありがとう。じゃあ、失礼するね」
保健医は服を捲る。
「触っても良い?」
「どうぞ」
先生は僕の腹を撫でる。
「痙攣や硬直、出血、腫れはないね。吐き気はあるかな? 手足の痺れは?」
「ないですね」
その言葉と共に、予鈴が鳴った。
「高橋、いつまでいるの?」
「は?」
「皆勤賞、とれなくなるよ」
その言葉に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「……失礼します」
高橋は一礼してから、保健室から出て行った。
担任が賢吾に電話をした。賢吾が来るのにそう時間は掛からなかった。
ドタドタと騒がしい足音が賢吾の訪れを僕に教えてくれた。
生徒がやったのなら、絶対に怒られるであろう扉の開け方を賢吾はした。スライド式の扉は勢い良く跳ね返ってきたが、賢吾は巧くそれを避けていた。ああ見えて賢吾は運動神経が割といいから。
「ああ、立花くんのお父さん」
保健医は賢吾に微笑みかけた。賢吾はそれを無視すると、僕に駆け寄った。
「俊……」
賢吾は絞り出したような声を発した。この様子だと保健医のことを無視したのも、わざとではなく、単純に聞こえていなかったのだろう。
ゾンビみたい。僕は賢吾のそんな姿を見て思った。
賢吾は僕に近付くと、僕の服を捲し上げた。僕はその衝撃で少し後ろに倒れた。
「ちょ、お父さん……?」
保健医は若干引き気味に賢吾に話し掛けたが、やはり賢吾には聞こえていないのか、結果的に無視をした。
「吐き気は? 痙攣は? 痺れの症状はあったか?」
「ないよ」
その言葉に賢吾は安心したのか、眉間の皺を少し緩めた。
「病院に行こう」
賢吾は僕を背負おうとしながら言った。
「うん」
僕は一応返事をする。
「あ、あのぉ、お父さん?」
保健医は賢吾が少し落ち着いたと判断したのか、恐る恐る話し掛けてきた。保健医のこういうメンタルが強めなところは結構好きだった。
「お父さんが来るまでに事件の経緯を立花くんと高橋龍二くんから聞きましたので、その話を。あ、若干言い分は違うのですが」
「聞こえませんでしたか」
賢吾は聞いたことない冷たい声を出した。
「俺と俊は病院に行きます」
「あ、それはもちろん、病院は行った方が良いかと思います。ただ、緊急性は高くは見えないので」
「それは先生の見立てでしょう」
賢吾は食い気味に言葉を被せた。
「え、ええ。まぁ」
保健医は少し狼狽えた様子を見せた。賢吾は背が高い。恰幅は良くなかったが、凄まれると、それは怖いだろうなと思った。保健医は普通身長だし。
「俺は医師免許を持っていますが、現場の人間でないと分からないと思うことは多いです」
保健医は少し顔を歪めた。それはそうだ。賢吾の言葉は保健医の仕事は現場ではないと言っているも同然なのだから。
「俺は絶対に俊を失いたくないので。ここで貴方と無駄な話をしている暇はありません」
「お父さん、落ち着いてください」
保健医は勤めて冷静に言った。いつも戯けている人間のこういう顔を見ると複雑な気持ちになるな、と他人事のように感じた。
「先生は子供がいないからそんなことが言えるんです」
「……賢吾」
僕は優しい声で賢吾に話し掛けた。賢吾はどんな時だって、僕の声だけは聞こえるから。
「病院行くんでしょ?」
「あ、ああ」
賢吾は僕を優しく背負った。
それを保健医―鈴木先生はなんとも言えない顔で見つめていた。
流石に賢吾の言葉はライン超えだ。明日、謝っておこうと思った。僕は意図的に相手の嫌がることを言っている。だが、賢吾は無自覚の論理展開で相手を追い込むところがあった。
「また明日。鈴木先生」
僕の挨拶に鈴木先生は困ったように笑った。
「私の名前、知ってたんだ」
そんな鈴木先生の言葉が聞こえると同時に扉が閉まった。
賢吾は車内で何も言わなかった。愛花がいる病院に行くとほぼ顔パスで病室に通された。それを見ていた老人が「順番がおかしいだろ!」と怒鳴っていた。すぐに、病院のスタッフが宥めに行く。あんな人間、追い出せばいいのに。僕はそう思ったが、現に僕だってあの学校から追い出されていないのだから、勝手は同じかと変に納得していた。邪魔者を追い出すというのは、簡単そうで、実際は難しい。そういうものなのだろう。
仰々しい機械に身体を隈なく検査される僕を賢吾はずっと見つめていた。新人らしき看護師は少し緊張した様子だった。賢吾はその界隈ではかなりの有名人だったからだ。担当医は賢吾の知り合いなので、特に気にした様子もない。というか、もう慣れてしまったのだろう。人間の順応性については、いつも驚かされるばかりだった。
「大丈夫そうだね」
担当医のその言葉を聞くと賢吾は僕を抱き締めた。
「本当に良かった……」
「賢吾、人前だよ」
迷子みたいな顔をした涙目の賢吾を看護師はガン見していた。学会発表の時の賢吾は人間の感情なんか持ち合わせていないような素振りをするので無理もないだろう。
「薬出しとくから。あと、ホールで爺さんが騒いでるから裏から出て」
賢吾に薬の説明は不要と考えたのだろう。担当医は顎で指図してきた。
「あ、愛花と面会する?」
賢吾は僕を見た。僕は首を横に振った。
「いや、大丈夫だ」
「……了解」
担当医は何か言いた気にこちらを見たが、僕は敢えてそれを無視した。
「忙しいのにありがとう」
賢吾は担当医にお礼を言った。
「……本当だよ。忙しいのに」
「……ごめん」
「いいよ。慣れてるから」
担当医は諦めたような顔をして、僕たちを送り出した。
帰宅した僕は早々にお風呂に入って寝ることにした。まだ腹は熱を帯びていた。湯船に浸かれないのは残念だったが、仕方がないことだった。
「え、なに?」
僕がシャワーが人肌になるのを待っていると、お風呂場に誰かが侵入してきた。賢吾だった。当たり前だ。賢吾でなくては困る。強盗とお風呂場で対面なんて、考えうる最悪の中でも割と最上位に位置する。
袖とズボンを捲った賢吾はキョトンとした顔をしていた。
「洗うの大変だろ?」
「いや、大丈夫だけど」
「腹以外にも傷がないか確かめる」
多分、それも賢吾の本音だった。どこまでも信用がない。僕は苦笑しながら言うことを聞いた。
「……大きくなったな」
僕の背中を洗いながら、賢吾は感傷深く呟く。
「お陰様で」
それ以上、会話は続かなかった。賢吾は元々口下手だし、僕も会話を続けたくなかったから。
お風呂を出て、少し経った後だった。無機質なインターホンが鳴った。
賢吾は不愉快そうにインターホンを出た。
「高橋龍二の父です」
「おかえりください」
賢吾は嫌悪感を隠さず言い放った。普段怒らない人間の感情を押し殺した声ほど怖いものはないな、と僕は感じた。
「そういう訳には。筋を通させていただくまで帰りません」
あの高橋の父親らしい勝手な理論だな。僕はソファで寛ぎながらそう思った。
賢吾はこの手のタイプは帰らないと判断したのか、舌打ちした後に「お待ちください」と言った。
僕も立ち上がると、賢吾は「俊はそこにいなさい」と命令した。僕は高橋の吠え面を見れないことを残念に感じたが、おくびにも出さず頷いた。
「この度は、誠に申し訳ありませんでした!」
馬鹿みたいに大きな声が聞こえてきた。近所迷惑だろ。僕は眉を顰めた。ここまでくると高橋の父親がどんな面しているのか見たくなってしまった僕は扉から顔を覗かせた。高橋の父親は深々と頭を下げていて、片手で高橋の頭を押さえつけて、同じように謝らせていた。
顔を上げた高橋父と目があってしまった。あ、ヤバい。そう思うより先に高橋父は口を開いていた。
「ああ! 君が俊くんですか!」
その言葉に、賢吾は目を見開いて振り返った。怖いって。僕は苦笑しながら、玄関に近付いた。
「今回はうちの馬鹿息子が本当にすまない」
笑みを浮かべた高橋父は上から下まで、舐め回すように僕を見た。
「いえ。僕も言い過ぎたので」
全くそんなことは思っていなかった。だが、こう言った方が良いことは理解しているつもりだった。
「なんて聡明な子なんだ!」
そのボリュームでしか話せないのかよ。高橋父は賢吾を見た。
「いやはや、いやはや、俊くんは本当に素晴らしいですね。それに引き換え、うちの馬鹿息子ときたら、本当に何をやらせても駄目で! 長男と長女は優秀なんですけどねぇ。きっと母親に似たんでしょうね。頭が悪い女なので。顔で選んで失敗しましたよ。年々劣化しますからね。せめて、私に似れば良かったのですが」
高橋父はここでやっと息継ぎをした。陰湿を超えて陰険。そんな言葉が頭に浮かんだ。
高橋はずっと下を向いていたので、その表情は見えなかった。
「だから、俊くんが羨ましいんです」
その次に続く言葉に予想がついたのか、賢吾はあからさまに顔を歪めた。
「クローンなら、余計な遺伝子が入りませんもんね!」
賢吾が静かに震え出す。やはり立野杏香は女優なんだなと、僕は思った。彼女も心の中ではこうやって震えていたのだろうか。クローン人間の娘を思って。
「今はクローンは不妊の人間にしか認められていないでしょう? 所得制限があるのは素晴らしいと思いますけどね。優秀でない人間のクローンなんて意味ないですし。クローンは大きなビジネスチャンスです。不妊という条件を撤回すべきだ! そうしたら、俺のクローンを作りたいんですよね。立花さんはクローン研究の第一人者で在らせられると伺っています。ぜひ、今後とも仲良くしていただきたいんですよね。あ、そういえば奥様はどこに? 立花さんのお家ですから専業主婦ですよね? ご挨拶させてください。きっと美しいだけでなく、頭も良い方なんでしょうね」
ここまでくると大概の僕も呆れを通り越して感心してしまった。謝罪に託けて、この男はビジネスの話をしに来たのだ。この男にとって、クローンどころか息子でさえ、金儲けの道具でしかなかったのだろう。まだ頭を下げ続けている高橋の足元は濡れていた。数時間前なら、それを汚いと罵ることができたのに、今は出来そうになかった。
「あ、立ち話もなんなので、お宅の中に……」
片手に仰々しい菓子折りを持った高橋父は笑顔で言い放った。
「帰れ!」
賢吾はそう叫びながら扉を閉めた。僕はその勢いに、玄関ドアが壊れた場合、幾らくらい掛かるのだろうかと考えた。急いで鍵とドアガードを閉める賢吾。
ほどなくして、またチャイムが鳴った。困惑した様子の高橋父の姿が映っていた。
「警察呼ぶぞ!」
賢吾はそう叫ぶと、カメラ付き玄関チャイムの電源を落とした。
賢吾はまた僕を抱き締めた。
「……痛いよ」
僕は事実だけを率直に述べた。
「あ、ご、ごめん」
賢吾は力を緩めながら、それでも僕を抱き締めることは止めなかった。
「もう慣れたよ。今更でしょ」
また、僕は事実だけを述べた。
「あんな言葉にっ! 慣れなくて良い!」
賢吾はもう泣き出していた。こうなった時の賢吾は長いんだよなぁと僕はどこか冷めた目で賢吾を見ていた。
「僕、生まれてきて幸せだよ。父さん」
その言葉に、賢吾は赤子のように泣き声を上げ出した。
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