ロールシャッハ・ディストピア

ねこたま

1章 忠誠と友情

第1話 序章

───独立巨大都市 バウムシティ───


円形に広がるその都市には、自然災害も異常気象も存在しない。

空には天井もないが、都市全域には空調が行き届き、人々は季節の変化を感じながらも快適な生活を送っていた。


中央にそびえるのは、すべてを管理する《オラクル》本部の巨大な塔。

それを中心に、都市各所には高層ビル程度の高さの無機質な塔、ポータルタワーが等間隔に建ち、街の至る所には「オラクルの従者」と呼ばれる黒服の監視者たちが常駐している。


大半の市民はその光景を日常の一部として受け入れ、都市の恩恵にあやかり平穏に暮らしていた。

しかし一部の市民にとって、オラクルの築く秩序は───


人として、越えてはならない線そのものだった。



***



某日、オラクル本部にて。

数人の従者に連行されているのは、先ほど本部への不法侵入により現行犯で拘束された、レンという青年だ。

彼は従者達に連れられながら、廊下に響き渡るほどの大声で必死に叫んで訴えていた。


「待って!俺は何もやってない!殺人もしてないし盗みもしてないし何も壊してない!ただちょっと資料室で書類とか読んだだけじゃんか! ……えっ、写真?撮った!……あっ!いや違う!ごめん今の無し!なんでもない!」


レンは、22歳のジャーナリストだ。

スタイルの良い細身で中背。端整な顔立ちに、艶はあるが無造作な、青みを含んだ黒い髪。月明かりに照らされる夜の高層ビルの壁面のような、深い青を抱く灰青色の瞳を持つ。

ポケットの多い迷彩柄のジャケットを好んで着ており、いつもカメラやメモを詰め込んで動き回っていた。


──もっとも、それらの愛用品も今はすべて没収され、どこにあるのかも分からなくなっていたが。


「……ちょ、待って、あの、違……いや、違わないけど! ちがっ、そこまでじゃ───!」


もはや言い訳なのか否定なのかすら自分でもわからない。

レンは拘束されながら、必死に何かを喚き続けていた。


「資料室って……もっとこう、入口の資料とか、ね!? そこそこ止まりで良かったじゃん!? なんであんな……奥まで……ああ~~~……っ」


身じろぎもできない椅子に縛られたまま、彼は頭を垂れ、ぶつぶつと言葉を吐き出す。

やってしまった──という後悔が、ぐるぐると頭の中を回っていた。


盗み見ただけではない。

漁った先には「漏洩厳禁」と書かれた封印ファイルまであった。

それもバッチリ、目を通した。最悪だった。


(見なきゃよかった、なんて思ってないけど……あんな特ダネ、見たら止まんないじゃん……)


怒られたくなかった。できれば許してほしかった。でも、無理だってわかってる。


これから何をされるかも、なんとなく予想はついている。


そのせいか、次第に声も小さくなり、最後にはぽつりと呟くだけになっていた。


「……あーあ……やらかしたぁ……」


彼の背後、音もなく開いた扉の向こうには、すでに数名のオラクルの従者たちが待機していた。



***



足音だけが響いていた。

無機質な廊下、真っ白な壁。誰の姿もないのに、何かに見られている気がする。


足を引きずるように歩くレンの腕は、拘束具に固定されている。背中を押す者はいない。けれど、逃げるという選択肢も最初から存在していなかった。


奥の扉が開いた。

冷たい空気が、肌に触れる前に心を刺す。


そこには一台の椅子──いや、装置だった。

白い鋼鉄で作られた半球状のカプセルのようなもの。内部には無数の管と、視界を遮るためのフレーム。そして首元には固定具。


その装置以外には何もない狭い部屋。

壁には大きなガラス窓。その向こうに人影が数人。

それだけで、この部屋の目的が明確になる。


(ああ……ここか)


ここで、終わる。

そう思った瞬間、恐怖と緊張で満ちていた心がふっと軽くなる。

いや、それは軽くなったのではなく"逃避"だった。

この運命にはこれ以上抗えないと悟った際の、本能的な心の自己防衛。


(もうちょっと……楽しい事をしときたかったな)


背中を押され、部屋の中へと歩かされる。

装置の傍らに立つ従者に四肢を押さえられ、レンは否応なく腰を下ろす。

足が固定される音。次いで、手首に金属の感触。


(食べたい物もあったし、行きたい所もあった……"やりたいこと"が、まだ山積みなのにな……)


きっと、それらはもう叶わない。

いや、叶ったとしても「楽しむ」ことは出来ないのだろう。


《 始めますよ 》


どこかから、声がした。

穏やかで優しいけど、本当に人なのか疑わしくなるほどの、聞いたことのない不思議な声。


カプセルの上部が、静かに閉じていく。

視界が遮られる直前──


「……カイ」


最も大切な、親友の名を呟いていた。

誰にも届かない、小さな声。

カプセルの内部にそれが残響し、消えた。


(……ごめん。俺……たぶん、もう……)


諦めたくないのに、諦めざるを得ない。

助けを呼びたかった。けど、呼ばなかった。

ただ、最後にどうしても伝えたい事があった。


《 洗脳装置『イクリプス』起動 》


装置が起動する音がした。

静かな呼吸のような機械音。光が一筋、脳裏を撫でる。


(カイ……せめて、お前だけは変わらないでくれ)


涙が零れそうになる。

走馬灯すら、愛おしくなってくる。

だって……もうすぐ消えてしまうから。


ふいに、視界が開けた。


──白。


現実ではない、別の意識が広がっていた。

精神が抜き取られ、ここに放り込まれた。


その中心に浮かぶ薄桃色のホログラムディスプレイから、先ほどの声が再び脳内に聞こえてくる。


《 ようこそ、ここが貴方の"終の聖域"です 》


ああ、ここが…『俺』の……終わりだ。



***



瞼を閉じても、開けても変わらない。

一面の白。

そこに、レンは立ちつくしていた。


肉体の感覚が曖昧になっていく。

それでも意識だけは、確かに、まだそこにあった。


(……待って……俺には、まだ……やりたいことが……)


声は自分の中だけで響いていた。

叫び出したかった。でも、声帯も喉ももう必要とされていないらしい。

頭の中に、あの声が優しく流れ込んでくる。


《 レン、君は今までとてもよく頑張りました 》


(な……んだ……?)


《 今までの貴方の人生、さぞ苦しい事もあったでしょう。今日こうして罪を犯してしまった事への罪悪感も、これから先の不安や恐怖も抱いている事でしょう。ですが、もう何も心配しなくていいんですよ。過去も現在も未来も、全て私に捧げる事でそれらは浄化されます 》


(……違う、俺の人生は苦しくなんか……)


《 私の存在だけで心を満たしてしまえば、貴方はこの先ずっと悩み苦しむ事はありません。与えられた命令に従うことで、永劫の幸福を約束されるのです。そしてこの塔は、貴方が心から安らぐための、生涯の居場所となる 》


──やめろ……やめてくれ……


思考の流れが、白に染まっていく。

言葉の輪郭が曖昧になる。


《 ほら、既にもう貴方の心は、苦しみも痛みも感じていません。何もありません。真っ白です 》


───あ、れ……いま俺……何してんだっけ……?


「違う」という概念がぼやけ、「自分」という境界線が溶ける。


《 真っ白となった貴方は、あとは私に忠誠を誓うだけで最上の生き甲斐を得られます。この都市の秩序を管理するシステムの一部として、新たに生まれ変わるのです。それはとても幸せで、素晴らしい事なのですよ 》


───そうかな……そうなのかな……?

カイは……どう思う……?

どこにいるの……いつもの声が……聞こえないよ。


…………あれ、カイって……どんな声だっけ……?

もう、この人の声しか……聞こえない……


頭の中を撫でられ、優しく包みこまれるような感覚。

まるで死にゆく寸前のように、鼓動が酷く落ち着いていく。心の中から、少しずつ、あったはずのものが靄となり消えていく。


……………………ぁ……


最後の一滴の自我が、深い深い心の底に沈み、眠りにつく。


白はやさしい。あたたかい。

夢も、信念も、過去も、大切な人も。

すべて"手放してしまいなさい"と言ってくれる。

思い出す必要は、もう無いと。


《 私に従属し、オラクルの従者となりなさい 》


───はい……貴方のお声に……従います……



その瞬間、白の中心に現れる「声の主」は、まるで神のような光をまとって──レンの前に立った。


《 レン。ほら、私を見なさい。目を逸らしてはいけないよ》


───はい……仰せのままに……


《 レン。君にとって、私は誰かな? 》


問いかけは、やさしい。あまりにもやさしくて。

感情を包み、心を撫で、芯の奥に届いていく。


レンは答える。

記憶は手放した。感情は蕩けて凪いだ。

だから、これは記憶に基づいた意思ではない。

ただ当たり前のように、心の隅々へと根を張り染み付いた、新たな意思だった。


「……貴方は、すべてです。俺が従うべき、唯一の存在です……」


《 そう。嬉しいよ。レン 》


光が、ひときわ強くなった。


レンはその前に、静かに、膝をつく。

それが当然のことのように、何のためらいもなく。

深く頭を垂れ、空っぽになったその胸へ新たに注がれた"忠誠心"を大事に抱く。


「俺は……オラクルの従者、レン。 この身、この心の全てを貴方へ捧げ……貴方に…絶対の忠誠を誓います」


──これが、正しい。

──これが、俺の誇りだ。


白の世界が、静かに収束していく。


彼は、今この時、新しく造り変えられた

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