【BL/短編】二番目の死

トモ倉未廻

二番目の死

 ——さあ、話をはじめようか。君がこの哀れな話を気に入ってくれるとはとてもじゃないが思えないけどね。

 で。まず僕は君に言わなくちゃいけない事がある。


 僕はいまでも彼を……、ミンユンを愛しているって事を。


   ◆◇◆◇


 西向きに大きく切り取られた窓と、その窓にかけられた深い藍色のカーテン。セミダブルのベットに腰の高さ程度しかない横長の箪笥。部屋にあるのはそれらの用意された見るからに真新しい家具達と、正反対に古びたダンボールが三つだけだった。引越ししてきたばかりで、といえばそんな雰囲気ではあるけれど、だったらどうしてダンボールがこんなにも古いんだと事情を知らない人間が見れば思うだろう。

 いまここには、その疑問を抱く人間はいないけれど。

「じゃあ、この部屋を好きに使ってください」と、僕の後ろにいるミンユンが言う。

「あ、うん」

「俺はリビングにいますから」

 廊下を歩き去っていく彼を見送って、僕は部屋の中に足を踏み入れた。

 まず一番手前にあったダンボールの蓋を閉めるガムテープをひっぺりはがす。記憶では確か、ガムテープまでは貼っていなかったはずだけど、ここに運ぶさいに閉めたのだろう。やたら丁寧に貼っているそれはミンユンの几帳面さそのもののようでもあり、微笑ましくもあるけれど鬱陶しくもある。僕が彼に抱かせられる感情と同じだ。

 どうせこんなダンボールをまた使うことはないだろうから最後は乱暴にはがして、蓋を開けた。中にぎっしりと隙間なくはいっているのはダンボールの外見同様に古臭い本達だ。ふむ、と記憶と照らし合わせて、このダンボールに入っているものを思い出す。

 以前——、いまから四年前、このダンボール三つに僕のそれまでの二十二年間の人生を詰め込んだ。一応これを後から整理する人のことを考えて、ちゃんと中身はジャンル別にしておいたのだ。本が入っているのなら、あれが入っているのもこのダンボールという事になる。

 僕は丁寧に本達をダンボールから出した。このダンボールに入れた、というのは覚えているけれど、どのあたりにいれたかはすっかり忘れてしまっているので一冊一冊手にとっては表紙を見て、ページをぱらぱらとめくり、床の上に積み上げていく。

 ない、と気づいたのはそろそろダンボールの底が見えそうになったときだった。かわりに床には、作業の途中から面倒くさくなって胡坐を書いて座り込んだ僕の脇ぐらいの高さで乱雑に積みあがった本の塔が三つほど出来上がっている。

 ない。

 捨てたっけ。とも思ったけれど、そんなはずはない。僕にとっては、——四年前の僕にとっては賭けみたいな気持ちでダンボールに入れたのだから、間違いない。

 じゃあ誰かが持っていったのか。と考えると、思い当たる人物はひとりしかいなかった。

 

「本、ですか?」と、リビングで珈琲を一人分入れていたミンユンが顔をこっちにむけて聞き返してくる。「どんな本です?」

「——……、覚えてない」

 ただダンボールの中に詰め込んだ本に紛れさせるようにしてそれを隠した事だけは覚えている。なんという中途半端な記憶、と、ちょっとだけ笑いたくなった。よくよく考えてみれば、あれ、それ、と表現しているわけだから、本だとも確信を持っていえないのだし。

 僕はちいさく苦笑いして肩をすくめたけれど、ミンユンはほんのすこしも笑わなかった。それらしい仕草もせずに僕をまっすぐに見つめていた。むしろ僕の記憶が曖昧すぎるのは彼にも責任の一端があるから、すこし間をあけると心配そうな気遣うような顔をして首を傾げた。

「ダンボールは全部開けたんですか?」

「あけてないよ」

 僕は応えて、ミンユンが次に何を言い出すのか分かっていたから首を横に振った。

「他のダンボールには入れてないと思う」

 だって、他のダンボールに入っているのはお気に入りだった衣類と捨てるに捨てきれなかったプラモデルの類だけだから。

 きっぱりと応えた僕にミンユンは顎をひいて頷いた。

「そうですか。……、ちょっと休憩しましょうか? ふとした拍子に思い出せるかもしれませんから」

 一人分の珈琲カップを持ってリビングの椅子に腰を下ろす彼と向かい合うようにして僕も座る。そうして珈琲を一口啜ってから彼はじっと自分を見つめる僕の視線に気づいたようにその眼をあげて、きょとんと瞼を動かしてから、なんとなく気まずそうに訊ねてきた。

「珈琲、飲みます?」

「僕みたいな標準装備のアンドロイドじゃ、飲食は出来ないよね?」

「そうですよね」

 申し訳なさそうにちょっと肩を縮ませてつぶやくものだから、僕は息をついて首を横に振る。質問に答えただけで、困らせるつもりはちっともなかった。

「……、んや。そういえばミンユン君も、今年で二十二歳になったんだよね。何気に外見上だけでいうなら、僕と同い年なんだ?」

 話題が変わったからだろう。少しほっとするように表情をゆるませて、ミンユンは頷いた。

「ええ。あれから四年ですからね」

「じゃあさ、覚えてる? 二十歳になったらHしてもいいって言ってたじゃん?」

 昔を懐かしんでゆるんでいた表情が途端、赤面する。純情を絵に描いたような反応に僕は意地悪く笑うと、椅子から立ち上がって彼の隣に座りなおした。ちょっと大袈裟な動作で身体を放り出すように音を立てて座ったから、硬直していたミンユンの手が握り締めたままだったカップから、珈琲の雫が小さくはねた。

 僕がその珈琲カップを彼の手ごと支えるつもりで握ると、はっきりとした震えが伝わってくる。

 ただただ驚きに見開かれる眼のなかに、あんまり人としては善人そうには見えない顔で笑っている僕がいる。

「え? ええっ。そ、そんな事は覚えているんですかッ!」

「覚えてるよ。だって、お付き合いしてたのにずぅっとお預けだったんだし。でもお付き合いしてるから風俗とかいけなかったわけだし、溜まってたんじゃない?」

「た、溜まってるとか下世話なことは言わないでください!」

 動揺しきりの表情で叫び散らしているうちにすっかり珈琲カップの存在を忘れてしまったらしい彼の手からカップを抜き取って机の上においてから、僕は真正面にミンユンを見つめた。

「でも実際問題、どうなの? 君、もう二十二歳なわけでしょ? 約束の年齢二歳オーバーなわけだけど」

 視線の応酬は数秒だけ。

 うっすらと熱を帯びたように濡れているミンユンの眼がそっとそれたときには、こりゃOKのサインだと意気込んだものの、躊躇いがちに何度か開きかけては閉じる彼の唇からようやく、おそるおそるとぎこちなく出てきた言葉は僕にとっては予想外のものだった。

「——……、ロコさんにそういう機能はありませんよ」

「、あれ?」

 てっきりあると思い込んでいた。そりゃあもう、無条件で。

 だから、きょとんと目を丸くして目の前でなんとも恐縮そうにしているミンユンを凝視しながら、頭の中で自分の仕様に検索をかける。ゼロコンマの速さで瞬時に表示された情報は確かにミンユンの言う通りのものだったから、小さく唸り声をあげて、彼を睨みつける。

「えっと……、なんで?」

 僕とそういう事したくないわけ?

 とはさすがに直球過ぎて、はい、とでも言われたら立ち直れそうになかったからやめた。でも言いたい事は十分にはっきりと伝わったみたいで、ミンユンはちいさく項垂れるように顔を隠してぽそりとつぶやく。

「貯金が足りなくて」

「そっか」

 としかいえない。僕はひっそりとため息をつく。

 ——まあ、四年前の彼は十八歳で。今は二十二歳。ハイスクールを卒業してすぐに専門学校に通いながら働き出したとは言っていたけれど確かに、まだまだ世間一般的には値段の張る「人の記憶を移植したアンドロイド」を買える年頃じゃない。ましてや僕は四年前の僕と姿形も似せて作られた一点物だ。きっと安くはない前金を払ってローンを組んでようやく買えたのだろう。

 でもなぁ。

 Hしたい。やりたい。って気持ちをなだめすかすには、僕の心はすっかりやましい方向にいってしまっていて、ミンユンのシャツの裾を掴んでいた。

「! ちょ、ロコさん!?」

「仕方ないから、いやらしい事するお手伝いで我慢してあげるよ。うん」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 彼のシャツをたくし上げようとする僕の手がぴたりと綺麗に止まったのはちょうどこの時、玄関のチャイムがなんとも空気を読まない間抜けぶりで鳴り響いたからではない。

 アンドロイドにはご主人様という存在がいて、その人の命令はなにがなんでも絶対なのだ。つまり、「ちょっと待て」と言われれば、「待つ」しかない。アンドロイド三原則と呼ばれているそれはもちろん、僕にも適用されている。なのでどんな人間が見ても、ミンユンを襲う一歩手前の体勢で動きを止めた僕のそばから彼はそっと離れると、そのままいそいそと服の皺をのばして玄関に行ってしまった。

 せめてこの格好をやめさせてから行ってほしかったんだけど——。とため息混じりに思う僕の耳に、玄関での会話が聞こえてくる。

「よう、近くまできたから寄ったんだけど。元気か?」

「あぁ。……、って、ちょっと!」

 大股に近づいてくる足音と、少し遅れてその足音を追いかけるように慌てて響くもう一つの足音。後からのほうがミンユンだ。

 勝手知ったる他人の家。とはまさしくこういう事をいうのだろう。声を聞いた時点で誰が来たのかは分かったけれど、四年が過ぎた今でも彼とミンユンの関係はまったく変わっていないらしいと理解すると、さっきまでのミンユンとHなことをしたいと思っていたやましい感情は綺麗に僕の心の中から拭いとられていた。

 忌々しく腹立たしく、舌打ちしていた。ミンユンとの時間を邪魔されたからじゃない、あと少しでミンユンといい事が出来たのに、と悔しいからでもない。僕は僕自身がはっきりと理解できない真っ黒な思いに逃げ場もなく流されるように、ただ訳の分からない不快感を持て余していた。

 リビングに入ってくる彼が、——ミンユンの親友にして幼馴染、四年前の時にも気づけばミンユンの近くにいて僕の顔を見てくる彼、ハージェス君が、リビングのソファで実に変な格好をしている僕に気づいて心底驚いた顔をしたのは、当然だった。そりゃそうだ。彼にとっては、死人を見たようなものだっただろうから。

 意外だったのは実のところ彼の反応ではなく、僕の心のほうだった。

 率直に目を見開く彼を見て、してやったりと性悪に笑ってやりたくなったから。



 僕はロコという名前のアンドロイドとしてこの世界に誕生した。

 同じロコという名前をして、ミンユンの恋人でもあったとある二十二歳の人間の記憶をアンドロイドとしての脳に刻み込まれて生まれてきた。

 人間であったロコは四年前に死んでいる。知ってのとおり、自殺だった。部屋にあるダンボール三箱の意味は、自殺する前に人間であったロコが身辺整理をした後だ。気に入っていた本やプラモデルを丁寧に片付け、お気に入りの衣類は念のため「葬式の時に着せる服に困ったとき」の事を考えて残した。……まあ、必要なかったみたいだけど。


 そしてあれは——、本達に紛れて入れたはずのあれはまだ見つかっていない。


 ほとんど期待していなかったけれど、他のダンボールにも入っていなかった。

 僕の脳の中にある記憶は死亡したロコの頭の中からミンユンが無理やりに抜き出したものらしい。

 ミンユンはハイスクールの時からアンドロイド工学を勉強していたから、手首から血をだらだらと流して床に倒れている僕の姿を見たときに咄嗟に思いついたのだと言っていた。いうまでもないけれど、本来ならアンドロイドに移植される記憶は生前の生きている人間の頭から抜き出すのが常識的だ。アンドロイド工学の詳細を小難しいことをちゃんと理解していない僕でも知っている。

 だから、僕が持っている人間のロコの記憶は、ところどころ虫食いのような穴があって訳が分からない感情があって、アンドロイドである僕を時々どうしようもなく戸惑わせる。

 ——そう。その最たるものが、ハージェス君だ。

 僕は彼を知っている。ミンユンの一番の親友で、一番信頼されている人物。恋人の僕なんかよりずっと信頼されていて、彼はきっとミンユンが嫌がることなんてなにもしない。

 なのにその姿を近くで見ると、僕はいつもどうしようもない気分にさせられる。

 どす黒く粘ついた感情が胸の奥のほうから沸きあがって、身体の節々に絡み付いてくる。一歩も歩けなくなる。アンドロイドとしての僕がはじめて彼と出会ったあの日に感じた不愉快な感情よりも鮮やかで、アンドロイドらしくもなく眩暈を起こして蹲ってしまいたくなる。

 だから気づけば、僕はいつも家にいるようになっていた。ハージェス君とミンユンはいまでも同じ専門学校に通っているから外でミンユンの傍にいると自然と彼と顔を合わせる事になるからだ。

 けれど、そうしていると今度はミンユンを外へ送り出す回数が自然と増えるようになっていって、——もう一つ、訳の分からない感情を自覚する羽目になった。


「行ってきます」

 と、いつも通りの白地のポロシャツにパンツというそっけない服装に肩掛け鞄をたすき掛けにしているミンユンが玄関先で廊下に突っ立っている僕に振り返ってくる。いってらっしゃい、という分かりやすい返しを待っているんだろうけれど、つい唇を尖らせて僕はため息をついていた。

「えー、今日は一日中家でゴロゴロしてようよぉ?」

 ミンユンが笑う。聞き分けのない子どもをなだめるような顔をする。

「ロコさんとは違って俺は電気を食べて生きられないんですからね」

「でも外は危ないよ」

「大丈夫ですよ。ロコさんは心配性すぎるんです」

 そう。心配性。

 本当は少し違ったんだけど。僕は、彼の傍にいたかった。いや、彼が僕の傍を離れないでくれるのなら僕は彼を守れると思ってた。

 僕はミンユンを守りたかった。——守らなければいけないと思ってた。



 あの日。ミンユンが死んだ日。


 僕はようやく、あの本を見つけたのだ。見つけたときに思い出した。本だと思っていたのは、日記帳だったんだ。

 ミンユンの部屋で、他の本たちに紛れるようにしてそれは並べられていた。人間としての僕が死ぬまで綴っていた記録。不完全な僕の記憶を生める代替装置としての日記帳。

 その内容に僕はどうしようもなくぞっとして、でも今まで感じていた違和感や戸惑いやよく分からない者達が全部あるべき場所へ戻って綺麗すっきりに心が片付いたように、言葉にしようのない満足感を感じてもいた。そうだ。そうだった。と僕は人間の僕の遺品になんとも頷いて、最後のページを読み終えていた。

 ミンユンの部屋にあったという事は、彼はこの日記を読んだという事だ。

 僕を作ってから、この日記を読んだ?

 ぱたん、と本を閉じる。その乾いた音と同時に僕は急に部屋の薄暗さが気になりだした。アンドロイドの眼なら十分に者の識別ができる明るさはあったけれど、跳ね上げた顔で見上げた時計は午後六時を指していた。アンドロイドに血液なんてない、なのに耳の後ろで血が音を立てて落ちていくのが聞こえた気がした。駆け出していた。日記帳を床に投げ捨てて、部屋を飛び出して、玄関の扉を開け放って。

 久し振りに見る窓越しからじゃない空はとてもとても血のように赤くて、走り抜ける地面はとてもとても闇の黒かった。まるで、四年前にカッターナイフで切った手首の切断面から滴り落ちた僕の血のように。ずっとミンユンに隠し通そうと躍起になって、でも本当は見せつけたくもあった僕の深い深い心の底の闇のように。


 小さな小さな物音はきっと、アンドロイドでなければ拾えなかっただろう。まるで僕にこっちを見ろと囁きかけるような音に振り向くと、夕間暮れの赤い陽射しの中に落ちる黒々とした影に、ふたりがいた。

 ハージェス君と、ミンユンだ。

「俺はッ、お前のことが好きだよッ! はじめて会った餓鬼ん時からずっと、お前の事が好きだったよッ!」

「っ、離しッ!」

「なのになんであいつなんだよ! よりにもよってッ、勝手に死んでお前を苦しめた奴をアンドロイドでよみがえらせてッ、なんで!」

 ミンユンの両肩を掴んで、ハージェス君は叫んでいる。必死の形相で、今にも泣き出しそうに顔をしかめて。首筋に顔を埋めるようにして。

 重々しく、胸の奥で唸り声が聞こえる。

 ただ、アンドロイドの心臓を動かす歯車が軋む音に過ぎない。——でも、日記帳を読んだ僕には分かる。無意識に前へ踏み出しかけた足を意識して後ろに一歩下げて、もう一歩、二歩、と距離を開けて、身体を翻して逃げ出した。ミンユンに声をかけて一緒にあの家に帰りたかったけど。

 思い出したんだ。

 僕はずっと誰かから彼を守りたいと思っていた。その誰かを、僕は思い出した。

 それは、僕自身だ。


 家に帰った僕は死のうとした。一度目は出来たんだ。二度目だって出来るはずだって、ベットのシーツをはがしたんだけど、すぐにそれは意味がないって気づいてやめた。アンドロイドは呼吸なんてしないから。だからすぐさま台所に駆け込んで包丁を引っ張り出して、首筋につきたてる事にした。この方法なら、少なくとも今すぐに僕の意識と手足をばらばらに出来る。ミンユンを傷つけようとしたって、僕の意識から手も足も取り上げる事が出来るから。遺書を書いて、今度は絶対に僕を生き返らせないでほしいって殴り書いてから、意を決して包丁の柄を逆手に持った。

 ——ご覧の通り、無理だったけど。

 包丁は、切れ味良さそうに白々と輝いていた。でも、柄を握り締める僕の手はぴくりとも動かなかった。そう、ミンユンにいたずらしようとして変な格好で止められたあの時と同じだ。アンドロイド三原則だ。



 僕はどんな顔をしてたんだろう。怪訝そうに首を傾げるミンユンの顔を見ると、まあらしくない顔をしていたんだろう。

「……、帰ってこないと思ってた」

「え? ここ、俺の家ですけど」

「あのまま、ハージェス君と逃げると思ってた」

 暗にあの光景を見ていたんだ。と告げると、さすがに彼も驚いたように目を丸くした。が、一瞬だけだった。驚きがすっとひくと残ったのはいつもの穏やかな顔で、戸惑いも後悔もなにもなかった。罪悪感さえ。

「そうですか」

 みじかくそういって背を向けた。その彼があんまりに無防備だったから。

 ソファから立ち上がったのも、ミンユンの背にそっと近づいたのも、我に返ってからきづいたことだ。足音に振り向いたミンユンの細い首筋にほんのりと赤く浮き上がった鬱血の跡を見つけた僕は、それを手のひらで覆い隠すようにしてから訊ねていた。

「キスとかさ、したの?」もしかすればもっともっと、——僕にだって許してくれないようなことを。

 間近で並べば僕よりちょっとだけ背の低いミンユンが顎を持ち上げて、僕を見る。そうして、ゆっくりと瞼を押し上げてその目は見開かれた。

 鬱血を覆い隠す手に力を込めて、身体の脇でただ垂れ下がっていたもうひとつの手も首筋に添えて、息を呑みこんだ喉仏も薄い皮膚を押し上げてくる血管も器官もなにもかもを押しつぶすように、僕は力をこめていた。反射的に身体を後ろへ引こうとしたミンユンの足がもつれて、身体が大きく傾く。

 拍子に、ふたりして床に倒れこんだ。ふたり分の体重が床にぶつかって、重々しく音を立てる。隣人が聞いていれば不安にになるだろう大きな音だった。首を絞められ、なしくずしに後ろ向きに倒れたせいで僕に馬乗りにされる格好となったミンユンは思わずといった様子で見開いていた目を細めて顔をしかめたけれど、それだけだった。

 彼は、逃げようとはしなかった。

 僕の手を振り払おうともしなかったから。身体は床に投げ出されたままで、唇は薄く開いたままで、ちいさく息遣いのような呻き声のような音は漏れ出たけれど、悲鳴はひとつも上がらなかった。

 最初はゆっくりとやがてけたたましく狂ったように鳴り響いたリビングの呼び鈴と、その合間から途切れがちに聞こえる見知らぬ人間の叫び声に助けを求めようともしなかった。

 目はまっすぐに覆いかぶさる僕を見上げたままで、たった一度だけ瞼が震えるように動いて目尻から涙が一粒落ちるのが見えた。——……そうして、その目の奥にあった輝きが消えてしまってただうつろにぼんやりと開かれた穴のようになっても、ミンユンは、首筋から両手を離せずにいる僕を見上げ続けていた。

 ミンユンの眼の中にいる僕はずっと、僕を見ていた。


 僕がミンユンを殺したんだ。


   ◆◇◆◇

  

 ——……おかしいよね、アンドロイドである以上は僕は人を殺せないはずなのに。

 アンドロイド三原則は、「人に服従すること」「自己保全をすること」最後は、……「人に危害を加えないこと」。

 でも殺せた。思えば僕はアンドロイドとしての調整を全部ミンユンにしてもらっていたんだ。家からずっと出なかったんだから。ミンユンが僕の中のアンドロイド三原則を解除したのかもしれない。いや、解除されていたんだろう。あの本を、ミンユンとであってからの日記を彼が持っていたんだから。

 僕がどんなにミンユンを愛していたか。

 僕がどんなに、ミンユンを独り占めしたいと思っていたか。

 僕がどんなに、どんなに——そんな僕自身を怖がっていたか。

 僕は僕からミンユンを守るために四年前に死んだ。その僕を四年後、ミンユンが蘇らせた。ロボット三原則に縛られた僕を。でもその中でたったひとつ、「人間に危害を加えてはならない」だけを解除された僕を。

 知ってるかい? ミンユンってさ、異国の言葉で「運命」っていうんだって。

 知ってるかい? ロコっていうのは、異国の言葉で「狂気」っていうんだ。


 ——うん。すべては想像。都合のいい妄想。 


 でも。それでも僕は、ミンユンを愛しているんだよ。


(終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【BL/短編】二番目の死 トモ倉未廻 @kurachi_mikai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ