第9章:本当の関係性、言えないままで
──ハルちゃんが“姉”。
──紅が“妹”。
──そして、ふたりは“ライバルで仲良し”の百合カプ。
今のふたりに求められているのは、そういう関係だった。
実際とは、真逆なのに。
「姉っぽく見えるようにさ、あたしちょっと髪上げてみたんだけど……変じゃない?」
「ううん、似合っとるよ。王子様感、さらに増した」
「……ほんとはこれ、めっちゃ頭皮引っ張られて痛いんだけどね……」
「えっ、じゃあやめたほうが……」
「でも、“らしく”見えるなら……いっか」
それは、何気ない会話だった。
小さなやりとり。
でもそこには、もう無理が滲んでいた。
「撮影入るよー!紅ちゃん、ハルちゃん、そのまま見つめ合ってください!」
「……うふふ、ハルお姉ちゃん♡」
「は、はは……おまえ、甘えてんじゃねーよ、妹のくせに」
笑顔。
“それっぽい”台詞。
ファンの期待を裏切らない構図。
──だけど、カットがかかった瞬間。
ハルは無言で、飲みかけの水を一口。
紅は、何気なく口元のファンデを直すふりで俯く。
沈黙は、わずか数秒。
でも、その沈黙が積み重なっていくのが、ふたりにはわかっていた。
*
マンションに戻ってからも、その空気は続いていた。
どちらかが悪いわけじゃない。
むしろ、お互い“相手を思っている”のは、明確だった。
「……あのな、さっきの撮影、うち、もうちょっと声のトーン下げたほうがよかったかもしれん」
「えっ、そんなことないって!かわいかったよ!
ていうか、紅の甘えボイス、ファンにウケてたし、あれで完璧だったと思う」
「……でも、ほんとは……あんな声、うち、出すん苦手なんや」
「……うん。知ってる」
それでも、“やろう”としてくれた紅に、
ハルは「ありがとう」を言えなかった。
そして、“そう言ってくれた”ハルに、
紅も「つらい」を言えなかった。
どちらも、ギスギスしたあの頃に戻りたくなかった。
だから、歩み寄ろうとした。
でも、それがかえって“すり減らす”ことになるなんて、
まだふたりは気づけていなかった。
*
週末、番組の収録。
観覧の観客は、ハルの「お姉さん力」を求め、
紅の「甘える可愛さ」に夢中だった。
「ハルさん、ほんと頼れる姉って感じしますよね~!」
「紅ちゃん、ハルさんの後ろにちょこんって隠れる姿、マジ妹!」
スタッフも、ファンも、そういう目でふたりを見る。
(あたし、そんなに“しっかりしてる風”に見えるんだ……)
ハルは笑いながらも、
本番前に飲んだ胃薬の感触がまだ喉に残っていた。
(うちは……ほんとは、守ってほしい側やのに……)
紅は、観客席の「かわい〜!」の声に笑いながら、
心のどこかで、自分の弱さがちゃんと届かない感覚に
空虚さを感じていた。
ステージで“理想の姉妹”を演じるたびに、
どこかが削れていく。
だけど、誰にも責められない。
誰にも相談できない。
“もうギスギスしたくない”
“ちゃんとした関係でいたい”
その想いだけで、
ふたりは、今日も“ちゃんと”やっていた。
でも、本当の“関係性”は、
誰にも、言えないままで。
*
マンションの廊下を歩きながら、ハルはうつむいていた。
夜も更けて、ビルの灯りは消え始め、周囲には誰の気配もない。
けれど彼女の胸の中だけが、ざわざわとざらついていた。
肩が重い。
足も重い。
でもなにより――心が、重かった。
今日もまた、“ハルお姉ちゃん”をやりきった。
テレビでは頼れるリーダーとして、
雑誌では理想の姉属性アイドルとして、
SNSでは「かっこいい」「包容力ある」コメントがずらりと並ぶ。
(……違うんだけどなあ)
違ってる。全部。
ほんとは、誰かの後ろに隠れていたい。
不安で、弱くて、どうしようもなくて。
でも、それを誰にも言えない。
それを知られたら、壊れてしまう気がして。
エレベーターのボタンを押しかけて、
ハルはやめた。
代わりに、向かうのは、ひとつ下の階――紅の部屋だった。
コンコン、とドアをノックする音が、夜の廊下に静かに響く。
「……紅」
「……ハルちゃん?」
中から出てきた紅は、パジャマ姿のまま、目を丸くした。
髪を乾かしかけていたのか、肩にタオルをかけている。
「どうしたん? こんな時間に……」
ハルは一瞬、何も言わずに立ち尽くした。
けれど次の瞬間――
「……紅、だめだ……もう、無理っぽい……」
そう言って、紅の胸に突っ伏した。
紅は驚いたように瞬きしたが、
すぐにその体をそっと抱きしめ、部屋の中へと引き入れる。
床に大きなクッションが並んだ、
静かで落ち着いた紅の部屋。
そこでハルは、何も言わず、ただ膝の上に頭を乗せた。
「……ごめん、紅」
「謝らんでええよ」
「……頑張ってるつもりだったんだ。
“姉キャラ”も、頼れるリーダーも……
前に、うまくいかなかったから、
ちゃんとやろうと思ってたのに」
紅の指が、ハルの髪をそっと撫でる。
何も言わずに、優しく、ゆっくり。
「……なんかさ、ファンの声とか、スタッフの期待とか、
“それっぽく”やるの、もうだいぶ慣れたと思ってたんだよね。
でも、今日ふと……“あたし誰なんだろ”って思っちゃってさ」
声が震える。
けれど、泣くのはまだ我慢していた。
「……ほんとは、紅のほうがずっと強くて、優しくて……
うち、いつも甘えてるくせに、
表では“守ってる”風に見られてて……
なんかもう、嘘ついてる気がして……」
「……ハルちゃん」
「うん」
「泣いてもええよ。ここ、うちしかおらんし」
「……うん……」
ぽたり。
ぽたり。
涙が紅のパジャマに落ちていく。
ハルは声も出さずに、静かに泣いていた。
紅は黙って、それを受け止めた。
ハルの髪を撫でながら、背中をゆっくりとさすりながら。
「うちは、ハルちゃんのこと、ちゃんと見とるよ」
「紅……」
「ステージでどんなふうに見られても、
どんな設定で売られようとしても……
うちは、“泣き虫な妹のハルちゃん”が、だいすきやから」
ハルは、ようやく笑った。
くしゃくしゃに、涙ぐちゃぐちゃの顔で、
それでも紅の膝に頭を乗せたまま。
「……ありがと、紅。
あたし、紅がいるから、がんばれてるんだって、
ほんと、思ってる」
「知っとる。うちも、ハルちゃんおるから、やってけとるもん」
言葉を交わすたびに、
心の中のしこりがほどけていく。
嘘じゃない。
ここだけは、ほんとうの自分でいられる。
ふたりは、繋がれた手をぎゅっと握り合った。
声に出さなくても、伝わる。
ここが、泣いていい場所なんだと。
*
翌朝、紅は目を覚ますと、隣で小さく丸まって眠っているハルを見つけた。
まだ微かに、目元が赤い。
けれどその寝顔は、どこまでも無防備で、安心しきっていて、
まるで“自分の場所を見つけた子ども”のようだった。
(……甘えられるって、ええことやのにな)
紅はそっと起き上がり、ハルを起こさないように部屋を出た。
キッチンで静かに朝食を準備しながら、
ふと、心の奥に刺さった言葉が、また疼いた。
──「紅ちゃんは、ハルさんに守られてる“妹キャラ”って感じでいいよね!」
何気ない、現場スタッフの一言。
悪意なんてなかった。
でも、それが胸にずっと残っていた。
(ほんとは、うちのほうが、ずっと――)
(ハルちゃんに守られたいのは、うちじゃない。
うちは、守っとる側やのに……)
いつの間にか、そう“見られること”に慣れてしまっていた。
それどころか、“演じられる自分”を作ることに躍起になっていた。
無理して標準語を貫くこと。
不思議キャラを演じて、天然っぽくふるまうこと。
ハルに甘える“妹”のような立場を、表では続けること。
それが“紅”としての役割で、
それが“ハルと紅”の売りだった。
(でも、ほんまは……全部逆や)
いつも自分を甘やかせてほしそうに見上げてくる瞳。
膝に頭を乗せて泣く姿。
こっそりシャツの裾を引っ張って「帰りたくない」って甘える声。
その全部が、
紅だけの“月島ハル”だった。
(なのに、表では……うちは“守られてる”ことに、なっとる)
思わず、握っていた菜箸の手に力がこもる。
「……はあ」
紅は静かに息を吐いた。
苦しい。
でも、壊したくはない。
ギスギスしたあの頃みたいに、すれ違っていたくない。
(だから、うちは“演じる”。あの子が傷つかんように)
(そのためなら、なんぼでも“妹”になったる)
(なんぼでも、笑ったる)
そのとき、背後からそっと腕が回された。
「……おはよう、紅」
「おはよ、ハルちゃん。……びっくりした」
「朝からすごい気合い入ってたから、起きたらキッチンから剣幕が聞こえて……」
「……剣幕ってなんや」
ハルは、紅の肩に額を預けるように寄りかかってくる。
「……昨日、ありがとね」
「うん」
「今日から、また“姉キャラ”頑張るから、
夜になったらまた、紅のとこ戻っていい?」
「最初から帰る場所、決まってるみたいやな」
「だって、紅のとこが一番落ち着くんだもん」
甘えるハルの声に、紅は笑った。
ほんとは、ずるい。
ほんとは、自分だって支えられたい。
けれど――
この人のために、強くなろうと思った。
*
その日のライブ。
ふたりはまた、ステージに立っていた。
観客の前で、「姉妹カプ」を演じる。
ハルがリードし、紅が甘え、
王子様と妹姫の構図に、ファンたちの歓声が湧き上がる。
「やっぱハル姉×紅妹、最高!」
「紅ちゃん、ハル様に抱きつくの尊い~!」
紅は笑顔で手を振る。
だけど、その内心で、
ただひとりの人だけを強く想っていた。
(ステージの上では、なんとでも演じたる)
(でも、うちの知っとる“ハルちゃん”は、あの膝の上で泣いた子や)
(その子を、うちが守る。誰にも知られんでええ。
うちだけが守る)
それが、紅の覚悟だった。
そして――
ハルもまた、ステージの光の中で、
観客の前で“姉”として凛とした笑みを浮かべながら、
内心ではこう願っていた。
(終わったら、また紅のところに帰ろ)
(ぎゅってしてもらって、甘えて、安心して……
明日もまた“姉っぽいあたし”を演じよう)
ふたりの間にあるのは、
ほんとうの関係を語ることができない、もどかしさ。
でも、そのもどかしさの奥にあるのは、
信頼と、ぬくもりと、
言葉じゃ言い表せない、確かな絆だった。
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