第6章:ステージの下で甘えていいよ

 開演五分前。ステージ袖は、いつものように慌ただしく、緊張と興奮が入り混じっていた。

 スタッフがインカムで指示を飛ばし、音響チェックの最後のコールが鳴る。

 ハルは、一度深く呼吸をしてから、軽く紅の肩を叩いた。


「いくよ」


「うん、こっちこそ足引っぱらんようにがんばる」


「引っ張られるわけないじゃん。あんた天才だもん」


「ハルちゃんのほうが、かっこいいよ」


 笑いながら視線を交わし、二人はそれぞれのポジションへ向かっていった。


 客席のライトが落ち、SEとともにオープニング映像が流れる。

 観客たちの歓声が、一気に会場を包んでいく。


 ふわりと空気が変わる。

 ハルにとって、この瞬間だけが“なにもかもが満たされる時間”だった。


 アイドルとして、ステージに立っている今だけは、

 不安も焦りも過去の失敗も、全部音楽の中に溶けて消える。


 ──はずだった。 


 ライブ中盤。

 メドレー後半の、華やかなフォーメーションダンス。

 ステラノヴァの代表曲のひとつ、『shiny trigger』。


 ハルの体が、いつものようにビートに乗っていた。

 けれど、一瞬――ほんとうに一瞬だけ、

 タイミングをひとつ、遅らせた。


 左足が、わずかに後ろに流れる。

 ポジションを修正するように重心をずらす。

 目線は切らず、笑顔もそのまま。


 ハル自身でなければ、気づかないほどのズレ。

 いや、プロのスタッフや一部のファンなら、もしかしたら――


(……やった)


 心の中で、冷たい水が流れるような感覚。

 あの一瞬が、体の芯から震えを引き起こす。


(また、やっちゃった)


 曲が終わって、次のブロックへ。

 衣装替えのために袖へ戻る。

 紅がすぐ隣に来て、自然な流れで水のボトルを差し出す。


「おつかれ。あとちょっとやで」


「……うん」


 短い返事しかできなかった。

 喉の奥が、なんだか重くて、声が出しにくい。


 ライブは最後まで、何事もなかったように終わった。

 ファンの声援に応えながら、笑顔で手を振る。


 ハルは、ちゃんと“王子様の顔”で立ち続けていた。


 でも、舞台の幕が完全に降りた瞬間――

 張り詰めていたすべてが、音もなく弾けた。


「おつかれさまでしたー!」


「最高だったよ!後半、ほんと熱量すごかった!」


 楽屋に戻ったメンバーたちが、それぞれ笑顔で挨拶を交わす中、

 ハルはひとり、荷物の影にしゃがみ込んでいた。


 水のボトルを開ける手が、微かに震えていた。


(……あれくらい、どうってことない。誰も気にしてない)


(でも――あたしは、気づいてる)


(自分で、自分の一番誇れるはずの場所で、ミスしたこと)


(それが、なによりこたえる)


 誰かが肩を叩いた気がした。

 紅だったかもしれない。けれど、その瞬間は見られなかった。


 視界がにじんで、焦点が定まらなかった。


「あたし、またやっちゃった」


 声は誰にも聞こえないくらい小さかった。

 けれど、自分の中では、確かに響いていた。


(ステージだけが、唯一誇れる場所なのに)


(なのに……)


 スタッフの気遣いの声。

 メンバー同士のねぎらい。


 それらすべてが遠くに聞こえた。 


 自分にだけ、冷たい水が落ち続けているようだった。


 ハルは、タオルをつかんで、立ち上がった。

 まだみんなが楽屋で話している最中、

 彼女は無言でドアを開けて出ていった。


 行き先は、誰も気づかなかった。


 いや――


 ただ一人、じっと視線を送っていた紅を除いて。


 紅は何も言わず、荷物を置いて立ち上がった。


 * 


 会場の廊下は、余韻の喧騒に包まれていた。

 片付けを急ぐスタッフ、次のスケジュールを確認するマネージャー。

 笑い声と、足音と、照明の残光。


 けれど、その中に、ハルの姿はなかった。


 紅は、一瞬だけ迷った。

 でもすぐに、ハルが向かう場所がわかった。


 あの子がどこで“ひとり”になりたがるのか。

 どこで“弱い自分”をこっそり抱えるのか。


 知っていた。


 会場の端の非常階段。

 関係者以外立ち入り禁止の、錆びた鉄の扉。

 静かで、暗くて、ちょっと冷たくて、でも隠れて泣くにはちょうどいい場所。


 紅は音を立てないように扉を開け、

 そっと足を踏み入れる。


 風の音。

 照明の切れかけたランプが、わずかにきしむ。


 下のほうに、誰かの背中が見えた。


 ――ハル。


 階段の途中で体育座りをして、

 うつむいたまま肩を震わせていた。


 声は出していない。

 でも、わかる。

 泣いているんだと。


 紅は、ゆっくりと近づいた。

 何も言わずに、ただ隣に座って、ハルの肩にそっと手を置く。 


「……紅」


 しばらく沈黙が続いた。


 ハルは顔を上げない。

 でも、隣にいる人が紅だとわかって、少しだけ安堵したような吐息を漏らした。


「紅、あたし……」


「……うん」


「やっぱり、だめなんだと思う」


 紅は黙って、ハルの頭を自分の肩に預けさせた。

 タオルでくるんだハルの髪が、しっとりと濡れている。


「……あたし、さ。

 歌はまあまあ、演技は下手、顔はまあ整ってるかもしんないけど……

 アイドルでいることしか、ほんとに、誇れるもの、ないの」


「うん」


「そのステージで、今日、ミスしたの。

 誰にも気づかれてないかもしれない。でも、あたしは気づいてる」


 ハルの声は、かすれていた。

 喉の奥で、言葉がこすれるような、痛々しい音だった。


「これがずっと怖かった。

“これしかない”って思ってたのに、その“これ”を失いそうになるのが。

 何度も、何度も思ってきた。

 ダメなとこばっかだって。

 でも、アイドルだけはちゃんとやれてるって、信じたくて……なのに……」


 紅は、そっとハルの頭を撫でた。

 手のひらの中で、ハルが小さく震えている。


「なぁ、ハルちゃん」


「……ん」


「うちも、そういうとこあるよ。

 ずっと、“これしかない”って思って、必死で演じてきた。

 自分のこと、好きって言ってもらえるように、

 いっぱい無理して、いっぱい怖くて、いっぱい隠してきた」


 ハルの肩が、微かに動いた。


「でも、あのね。

 失敗しても、うまくいかなくても、

 それでも好きって思ってもらえること、あるよ」


「……そんな、保証……」


「あるんやって」 


 紅はハルの頭を抱き寄せ、額にそっと自分の額を合わせる。


「うちは、そうやったもん。

 あんたのダンス、笑顔、棒読みな演技、ぜんぶ見て、

 それでも、“この人みたいになりたい”って思ったもん」


「紅……」


「今日、ミスしてもええやん。

 何百回踊って、ひとつズレただけで、

 それまでの全部、消えるわけやない。

 誰がなんと言おうと、うちは――

 ハルちゃんが、いちばんかっこいいと思っとる」


 ハルの目から、ぽろりと涙が落ちた。

 今度は、隠そうともしなかった。


「……あたし、こんなに泣き虫だったっけ」


「ステージ降りたら、甘えん坊になるくせに」


「……そうだった」


 ふたりは、何も言わずに、静かに寄り添いあった。


 風が吹いて、夜のにおいを運んでくる。

 階段の隅に、ふたつの影が並ぶ。


 誰にも知られずに、

 誰にも見せない場所で、


 ただひとりの人にだけ、

“本当の自分”を見せられる幸せ。


 それを、紅はぎゅっと胸に抱いた。


 * 


 階段の踊り場に、ハルの嗚咽が微かに残っていた。

 けれどその音は、次第に少しずつ、小さく、静かになっていった。


 隣にいる紅が、ずっと頭を撫でていたからだ。


 爪を立てず、手のひらで包むように、

 ときおり指先が前髪を撫でていく。


「……ハルちゃん」


「……ん」


「もう、ステージの上じゃないよ。

 泣いてもええし、甘えてもええ。……ここは、うちらだけの場所」


「……紅の前だけ、特別な場所ってこと?」


「うん。……あんたが“王子様”じゃなくても、ちゃんと立っていられる場所。

“月島ハル”じゃなくてもいいって、言える場所。……うちは、そう思っとる」


 ハルは顔を上げて、少しだけ紅を見る。

 赤くなった目元が、恥ずかしそうに揺れていた。


「紅、強いなぁ……」


「強くなんかないよ。ただ、好きな人にちゃんと立っててほしいだけやもん」


「……今、立ててないかも」


「そしたら、膝貸すよ」


 紅は、ハルの肩をそっと引き寄せて、自分の膝に頭を乗せさせた。

 ハルは抵抗せず、少しだけ眉を下げて、甘えるように身を預けた。


「……あたし、ほんとダメ女だよね」


「知ってる」


「即答!? せめて慰めてほしい……」


「でも、そんなハルちゃんが好き。だから、いいの」


 その一言が、いちばん沁みた。


 ハルはゆっくりと目を閉じた。

 紅の指が、髪をとかすように優しく動く。


「失敗しても、泣き虫でも、ぐちゃぐちゃでも――

 うちは、ちゃんと好きって言えるよ。

 だって、ハルちゃんが“あたししか誇れるものがない”って言ったとき、

 うちは、“あたしがその誇りになりたい”って思ったから」


「……え」


「びっくりした?」


「びっくりした……

 っていうか、そんな、重くない?」


「うん、ちょっと重い。けど、ほんまのことやで」


 紅の声はやわらかく、でも真っすぐだった。

 それは誰よりも確かな気持ちの証で、

 ハルの胸の奥に、じんわりと灯るものをくれた。


「……紅がいるだけで、

 あたし、“アイドルでいられる”って思えるんだよね」


「そうやって言ってもらえるの、ちょっと照れるな」


「でも、ほんと。

 今日、あのまま誰にも会えなかったら、

 あたし、自分のこと、どこまでも嫌いになってたかもしれない」


「じゃあ、止められてよかった」


「紅の“止め方”、好き」


 ハルは膝枕のまま、紅の手の甲に自分の指をそっと絡めた。


「……だから、もうちょっとだけ、ここにいてもいい?」


「なんなら、今日はずっとここでいいよ」


「冷えるじゃん……」


「ほな、あたたかい部屋戻って、続きしてもええよ?」


「……続き、ってなに?」


「甘やかしタイム」


 ハルは目をぱちぱちと瞬かせて、すぐに照れ笑いになった。


「……うわ、好き」


「知ってる」


 ふたりの笑いが、非常階段に響く。


 さっきまでの涙は、もう乾いていた。


 紅は、ハルの手を握りながら、はっきりと言った。


「ハルちゃん。どれだけ強く見せても、無理してるの、うちは知っとる。

 でも、無理してボロボロになるくらいなら、

 これからは“助けて”って、ちゃんと言って」


「……」


「甘えたいときは、甘えて。

 それがあんたの全部で、

 それを全部うちは、好きって言えるから」


 涙は、出なかった。

 でも、心の奥があったかくて、苦しくて、

 でも、安心して。


 だから、ハルは紅の胸に顔を埋めて、震える声で言った。


「……うん、紅。

 あたし、甘えたい。紅に、甘えたい。

 もっとたくさん、素直になっていいなら……」


 紅は、ためらわずに抱きしめた。


「うん。いいよ。うちが、ちゃんと受け止める」


 風の音も、スタッフの気配も、もう届かない。


 今だけは、ステージじゃなくてもいい。


“月島ハル”じゃなくても、

“ただのハルちゃん”でいても、

 となりにいるこの人が、全部を受け止めてくれるから。

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