第一章:主人公たちの背景 6. 研究施設「アストラ・ラボ」

 雲ひとつない晴天だった。だが、どこか無機質な青さだった。

 それは自然がもたらした色というより、まるで空そのものが精密に設計されたディスプレイのように見えた。

 悠と佳乃が立っていたのは、ネオジェン・テクノロジーが極秘裏に管理している研究施設──

「アストラ・ラボ」の正門前だった。

 都市部から車で2時間離れた人工知能特区・アルテミア島の中央にその建物はそびえていた。

 高層でも低層でもない、整った直方体。全面が無機質な白で覆われており、窓も装飾もない。

 ただ、太陽光を吸収して電力に変換する新素材によって覆われたその表面は、ほのかに青白く光を反射していた。

「ここが未来の頭脳ってわけね」

 佳乃が立ち止まり、顔を上げて言った。

 彼女の目は好奇に満ちていた。まるで目の前の巨大な装置が、まだ誰にも解読されていない謎の遺物であるかのように。

 言葉は軽やかでも、その視線には鋭い知性の光が宿っていた。

 一方で、悠は一言も発しなかった。

 彼の視線は建物そのものを“分析”するように注がれていたが、その奥には別の色が潜んでいた。

(……白い壁。窓がない。無音の構造。空調は外から感じられず、すべて内部で処理されている)

 それは、彼の記憶の奥底にある“ある場所”と、あまりにも似ていた。

(ああ……まただ)

 喉の奥が、乾いたように詰まる。

 懐かしい、という感情ではない。

 忘れたかったものに、無理やり顔を突きつけられたような感覚だった。

(まるで過去の亡霊が、目の前に現れたようだ)

 ——ここに入れば、また、あのときの自分に戻ってしまうのではないか。

 そんな不安が、確かに胸の奥にあった。

 だが、立ち止まる時間は与えられなかった。

 佳乃は一歩、ためらいもなくエントランスに向かって歩き出した。

 彼女の白いコートの裾が風に揺れる。

 歩幅は決して広くないが、その足取りには“迷い”がなかった。

 悠は数歩遅れて、その後を追った。

 建物のエントランスには、扉はなかった。

 代わりに、空間に存在する“見えない膜”が、彼らの接近を検知し、スライドドアが無音で開いた。

 内部は、さらに異様だった。

 外からは想像もできないほど広大なホール。

 床は真っ白なタイルだが、足音がまったく響かない。

 天井には光源が見当たらず、まるで空間そのものが発光しているかのようだった。

 壁には時計も、掲示物も、人物写真もない。

 すべてが“意味”を持たない構造でできていた。

 その中心に、受付端末がひとつだけ存在していた。

 まるで、それ以外の“人間の手”は必要ないと宣言するかのように。

「……人間は何もしてないじゃないか」

 悠が思わず口にした。

 その声は天井に吸い込まれるように、小さく消えていった。

 佳乃は振り返らず、静かに答えた。

「そうね。でも、それが人間の進化なのかもしれないわ」

 その答えは即答だった。

 まるで、彼の反応さえ想定の範囲内であるかのように。

 悠は思わず視線を下げた。

(……進化、ね)

 それが“進化”だというなら、人間はやがて「選ばなくていい生き物」になるのだろうか。

 全てが最適化され、誤りが排除され、感情さえも効率の邪魔者として整理される未来。

 それを「進化」と呼ぶには、あまりに冷たすぎる。

 佳乃は、受付端末の前に立ち、手をかざした。

 瞬時に指紋と網膜がスキャンされ、機械の無機質な声が響く。

「私は佳乃・M・藤堂。研究員枠でプロジェクト参加を申請してるわ」

「確認しました。ようこそ、藤堂様」

 その瞬間、ゲートが音もなく左右に開いた。

 白い光が、まるで彼女を歓迎するかのように足元を照らす。

 悠はその場に残されるような形で立ち尽くしていた。

 目の前に開かれた空間は、“入り口”というより“境界線”のように感じられた。

 そこを越えれば、元には戻れない。

 何かを、確実に“失う”。

 だが、佳乃は振り返って彼を見た。

 表情は穏やかで、だが瞳には迷いがなかった。

「あなたの身分は私のアシスタントってことにしてあるから」

「……好き勝手決めたな」

 思わず口をついて出た言葉に、佳乃は少しだけ笑った。

 それは開き直るような、あるいは茶目っ気のある笑みだった。

「だって、そうしないと入れないもの」

 その一言に、悠は小さく舌打ちした。

(……そういうとこ、ほんと強引だよな)

 だが、止める気は起きなかった。

 むしろ、自分が“止めてほしい”と思っていないことに気づき、少しだけ戸惑った。

 悠はゆっくりと足を踏み出す。

 光のラインに導かれるように、白の世界へと入り込んでいく。

 その瞬間、何かが背後で“切れた”ような感覚があった。

 外の世界と、自分との繋がり。

 自由な観察者としての立場。

 それらが、一歩の代償として消えていく。

(もう引き返せない、か)

 そう自嘲しながらも、心のどこかで静かな決意が芽生えていた。

 ふたりは無言のまま、エレベーターに乗り込んだ。

 内装はすべてホワイトメタル。手すりもない。ボタンもない。

「音声認証で操作するの?」

「ううん。脳波と網膜パターン。既にルートも登録されてるはず」

 佳乃がそう言うと、扉が静かに閉まり、エレベーターは音もなく下降を始めた。

(下降……?)

 普通なら上階に研究室があるはずだ。

 だがアストラ・ラボでは、最深部が“中心”なのだという。

 下へ、下へ。

 まるで地下深く沈んでいく潜水艇のように、ふたりを乗せたエレベーターは静かに進んでいった。

 沈黙の中で、悠の胸にはかすかな圧迫感があった。

 それは空気のせいではない。

 密閉空間に閉じ込められる感覚と、過去の記憶が呼び起こす“拒絶反応”だった。

 無機質な白い壁、感情の排除、意思決定の自動化。

 この空間のすべてが、彼の過去を再構築しようとしている。

 ——感情はいらない。関係性はいらない。判断も、意志もいらない。

 その場所で、彼は育てられた。

(戻ってきたのか……俺は)

 思わず握った拳に、微かな汗がにじんでいた。

 だが、その手を誰にも見せることはなかった。

 隣に立つ佳乃は、ただ前を見つめていた。

 余計な言葉は発しなかった。

 彼女は理解していた。悠が、今どんな心の底を歩いているのかを。

 その沈黙が、彼にとっての“救い”だった。

 やがて、エレベーターが静かに止まる。

「着いたわ。ここが、ONAプロジェクトの中枢——“第十三隔室”。」

 扉が開く。

 そこには、さらに研ぎ澄まされた白の世界が広がっていた。

 すべてが制御され、最適化され、洗練されている。

 まるで人間そのものが“不要物”として扱われているかのように。

 だが、そこに今、ふたりの“人間”が立った。

 過去と向き合うために。

 未来を選ぶために。

 ——そして、“ここにある真実”を見抜くために。

 物語は、ついに核心へと踏み込んでいく。

 ——続——

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