夜明け知らずの黒狼ー幼き将と終齢の子ー
紺
序章
1.黒狼、ちいさき器に堕つ
カルディア王国中央治安軍、第三師団団長、黒狼将アベル・ノクス。西方戦線制圧完遂より凱旋。
二十三歳で異例の将への出世を果たしたこの男、年の頃は間もなく三十に届く頃。
この世界では珍しい黒髪金眼の容姿に、黒狼の二つ名に恥じぬ漆黒の鎧、その相貌は精悍でかつ己にも厳しい気性が滲む。だが出迎える民へ向ける視線は慈愛に満ちていた。
彼の名と並び称されるもう一人の将がいるが、今この場にその姿はない。それもあってか、片翼の将の帰還を喜ぶ声は、いつもよりも大きかった。
城門へ続く石橋に、蹄と鎧の音が誇らしげに響く。
「元帥に報告後、そちらに向かう。武装を解除し、整えておけ」
配下へ簡単な指示を出し、アベルは歩を王城へと進めた。
凱旋の報せは既に届いており、正門から元帥の間までは、幾人もの文官や兵が恭しく道を空けている。
幾度目かの勝利報告であるが、アベルの歩みはいつもと変わらぬ重さを帯びている。
軍部最高位であるアルドリック元帥への報告は形式こそ定められているが、内容は簡潔に、そして確実に伝えなければならない。
張り詰めた元帥の間。年を重ね、髪に霜が降りてもなおその迫力は衰えない色黒の隻眼の男。アベルの直属の上官は、真っすぐな背筋のままこちらに視線を寄越した。外套を払いその場へと跪く。
「第三師団、黒狼将アベル・ノクス。西方戦線、制圧完了の報を申し上げます」
報告を済ませる。
「……ご苦労だった」
短くも、静かに返される労いにアベルは一礼し、退室の許可を得て、凛然と踵を返した。
向かうは、将官のみに許された将官私室。
血と泥に汚れた鎧を静かに脱ぎ、戦場の匂いを洗い流すための孤独な空間だ。アベルは大きく息を吸い、吐き出す。目の前に鎮座した姿見には、少々疲れの見える顔が映る。
此処に辿り着くと、アベルはようやく張り詰めていた気を緩ませる事が出来る。
腰の剣帯を外し、脇机にそっと置く。ゴトリと重い音が返ってくる。この音を皮切りに、アベルの戦装束を解く手順が始まる。
胸当てのバックルに手を伸ばした時に、いつもとは違う違和感を覚えた。
自身の身体に合わせて誂えたはずの籠手に隙間が生じている。
「……ん……?」
違和を覚えた瞬間から早かった。襲い来る目眩、額に手を当ててどうにか耐えた。ふと上げた視線の先にある姿見に、俄には信じられない物が映り込んでいた。
――背が、低くなっている?
隙間が増えた鎧を見たアベルの動揺を余所に変化は続く。呼吸が乱れ、鼓動が早まる。体中が音を上げそうなほど軋む。精悍な顔つきは丸みを帯び、大人とは呼べぬ顔つきへと変貌していく。
――何だ、何だこれは。何が起きている。
みるみる変わっていく姿に、思わず外へ向かって声を上げた。
「だ、誰、か……!」
思わず発した声は、最後まで紡ぐことが出来なかった。聞き慣れた自身の低い声とは全く異なる、声変わりをする前の高い声。それをかき消したのは、自身の身体を覆っていた鎧が崩れ、床に落ちる音だった。
縮小する身体が鎧を支え切れず、金具を外すまでも無く身体から落ちては、そのたびに激しい音が鳴り響く。重さに耐えきれず、その場に膝をついて、崩れ落ちた。
床についた手は、剣を振り続け、筋張った手では無い。柔らかく滑らかで傷ひとつない、子供の手。
「な……!」
息が震えているのは、身体の変化のせいか、自身の動揺のせいか。アベルには分からなかった。
細くなった右肩から、鎧の下に着ていた内着がずり落ちて、変化は止まった。
鍛え抜かれた将の姿は、そこにはもう無い。愕然とこちらを見つめる五歳程の子供が鏡の中に居るのみだった。
元の自分の上半身を覆っていた胸当てにすっぽりと収まってしまっている。
「一体……これ、は……」
急激な身体の変化、目の前が揺らぐ。
意識が遠ざかっていくと同時に遠く、自分の名を呼ぶ配下の声が聞こえた気がした。
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