『青に費やす暇なんて』

 日常と奇跡の境界を包み隠す蜃気楼の中に立つ。


 息を吸って、吐いて。五里霧中をぼんやりと眺める。

 待てど暮らせど、白いもやが晴れる気配は無い。


 2年待ってみた。変わらなかった。

 それなら、ここははなから何も見えないような場所なのだろうか。

 みんなが見ている境界は、私の目には映らない透明な何かだ。


 どうすれば楽になれるのかな、と。

 私の心の底で湧いた疑問が視界を覆った。

 フィルター越しに見えたのは、何でもない世界。


 すべてが、鮮烈な光を放つ奇跡に見えた。




  ★★★




 再生不良性貧血。及び、いくつかの合併症。

 通院と入院を繰り返し、果ての保健室登校。

 彼女の闘病生活には終わりの兆しが見えている。


 相ヶ瀬先生が事情を説明してくれたのは、藍園が倒れた1週間後だった。


 入学して半月で重症化し、高2の冬まで闘病。

 春期講習が終わった頃には、校門から保健室まで歩けるほど体調が良くなっていた。

 俺と出会ったあの時も、自分の足で自販機まで歩いたようだ。


「佐々木先生の居眠り中に抜け出したらしい」

「職務怠慢......」

「責めないでやってくれ。

 藍園の身を案じて神経をすり減らしていたんだろう。

 コーヒーを飲んで無茶をしていた分があの日に押し寄せた」


 再生不良性貧血は、その名の通り貧血症状を招く。

 不意に倒れてしまうことも今回が初めてではない。

 ちょっとしたきっかけで気を失う。花のように繊細だ。


「俺は......何か、良くないことをしたんでしょうか」

「一之瀬に非は無い。藍園が言っていた。

 寧ろ、『同級生とお話ができて嬉しかったです』と」

「くだらない話でしたが」


 その"お話"で興奮して倒れたのであれば、俺にも責任はある。

 責任はあっても過失はない。と、信じているが。


「くだらない話は今の藍園にとって大切なものだ。

 そういうことを"くだらない"と感じられるようになるぐらい、色んな話をしてやって欲しい」

「それが、今日呼び出した理由ですか」

「いくつかある内、それが1つ目だ」


 個室に呼び出すなんて珍しいと思ったら、要件は複数あるのか。


「おしゃべりの相手なら、適任は俺じゃない」

「例えば、他に誰がいる?」

「やかましい篠崎とか、横山とか。

 大人しい奴がいいなら、外囿とか五十嵐とか。

 話題に挙げた時に笑っていたし、伊集院でも」


 相ヶ瀬先生は顎に手を添え、考えるそぶりをする。

 決めあぐねたのか、単純な解を示した。


「全員だ。全員と友達になろう。

 まず最初の1人は一之瀬、お前だ」


 簡単なことだと思っているのだろうか。

 クセの強いメンバーだと分かり切っているというのに。

 この自堕落美術教員はいつも面倒事を押し付けてくる。


 不満を態度で示し、渋々承諾する。


「はいはい。分かりましたよ」

「頼んだ」


 相ヶ瀬先生は軽くそう言い、脇に置いてあったパンフレットを手に取る。

 大学案内を手渡され、俺は表紙を見た。


「2つ目の要件だ」


 日本一の藝術を誇る大学。

 相ヶ瀬渡が次席で卒業した美の学び舎だ。


「興味は無いか」

「......」


 この男はこういうことをしてくる奴だ。

 時たま投げられるさりげない質問が人生を問う。

 気軽な返答は行く末を狂わせかねない。


「考えさせて下さい」

「......分かった」


 俺が意志を以て望めば、彼は俺を意地でも合格させる。

 その資格は、才覚は、熱意は、足りていない。

 気概は合理すら打ち砕く原動力になり得る。俺には無い。


 言葉に窮したのではない。

 言葉に窮したフリをして、誤魔化した。


「3つ目は......これだ」


 相ヶ瀬先生は何事も無かったかのように続けた。

 封筒を取り出し、俺に手渡しながら問う。


「一之瀬、GWゴールデンウィークって暇か?」

「受験生です」

「まあ固いこと言うな」

「副担任が何を言ってるんですか」


 遊んでいる暇は無いのだが。

 1日10時間は絵を描けと言ってきた男とは思えない。


「マックス・クリンガーとアルブレヒト・デューラーの絵が上野で見られる。

 これを見せれば、その場にいる人数分のチケットが貰えるだろう」


 封筒を裏返し、中身を見ようとする。

 古臭い封蝋がされており、開けられない。


「ただし、渡す相手を間違えないように。

 石見という男に、俺の名を添えてそれを渡せ」


 面倒なお使いを一方的に押し付けられ、相ヶ瀬先生が立ち上がる。

 そそくさと荷物をまとめ、個室の戸に手を掛けた。


「新しい何かに出くわす機会かもしれない。

 目を閉じるなよ。一瞬たりとも」


 その言葉を残し、俺は置いて行かれた。

 大学案内と封筒を見下ろし、ため息を吐く。


「......はあ。

 羽を伸ばすなんて言葉すら知らなさそうだ」


 立ち上がり、職員室前の廊下を歩く。

 思案がぐるぐると脳を駆け巡っていた。


 儚い淡雪のような藍園の友達作り。

 仲介なんて俺の柄じゃない。そも、俺は一回しか喋っていない。

 顔が広い訳でも無いし、どうしたものか。


 俺以外の知り合いは......もしいれば、相ヶセンセーが言ってるか。

 まずは地盤を固めるために1人目。誰だ?

 俺の第一感が正しければ......あいつだ。


 どうやって切り出せばいい? 素直に言うか。

 だが、計略上の友好関係なんて聞けば嫌がるだろう。

 面倒ごとを引き起こすことなく、端的に......


「あっ、一之瀬くん!

 教室にいないと思ったら、どこほっつき回ってたのよ!?」


 無駄を省き、ストレートに。

 そう思っていた最中、現れた1人目。

 篠崎咲良の言葉を耳に入れず、俺は言った。


「篠崎。GW、空いてるか?」


 しまった、と。口にしてすぐに気づいた。

 何人かの目線がこちらを向く。

 篠崎はわなわなと震える口から声を張り上げた。


「突然何言ってるのよ!!!」


 紅潮しながら叫ぶ篠崎に、廊下の生徒たちが思わずギョッとする。

 文脈の重要性を痛感し、俺は頭を抱えた。



  ===



 斯々然々かくかくしかじか、難病の話から上野の話まで、事細かに説明をした。

 空気の読めない篠崎と言えど、流石に態度を改めた様子だった。


「高校に入って2年間の闘病......長いね。

 美術館に行くとして、体調は大丈夫なの?」

「もしもの時の為に、篠崎には目付役を頼みたい」

「分かった。私も昔ちょっと貧血気味だったから、多分大丈夫だと思う。

 それで......3人で行くの?」

「太一、外囿、五十嵐、伊集院。

 相ヶセンセーの指示では、俺たち含めて7人だな」

「かなりの大所帯ね」


 現状7名。中々の数だ。

 無理に多数を連れて行けば藍園が不安を抱くかもしれない。

 やはり、人員削減を試みるべきだろうか。


 いや、寧ろ逆の発想が必要か?

 "数打ちゃ当たる"の精神で臨もうか。

 相性を考慮できるほど藍園のことを知っている訳でも無いし。


「俺は用事があって藍園の面倒をずっと見ていることはできない。

 全体の手綱引きは篠崎と外囿に任せたいと思っている」

「......一之瀬くん、もしかして楽しようとしてない?」

「滅相モ無イデスヨ、篠崎サン」


 篠崎の睨む顔から目を離し、スマホの画面を見下ろす。


「あのねえ。人にものを頼む時の礼儀ってのがあるでしょ!」

「報酬は展覧会の無料観覧。

 それ以上を望むなら、相ヶセンセーにねだってくれ」

「私は、その態度について話してるんだけど!」


 連絡アプリでグループチャットを作成し、その画面を見せる。

 篠崎は握った拳を振り下ろそうと力む。

 目の前に掲げられたスマホの画面を見つめ、篠崎が固まった。


「何よりもまず、ここに藍園を追加する必要がある。

 礼儀たっぷりのコミュニケーションを頼むぜ、元学級委員」


 『相ヶセンセー被害者の会(1)』というチャット名を見て、篠崎の拳が振り抜かれた。


「非礼極まりないっ!!」


 頬に一撃を食らい、視界が暗転した。



  ===



 目が覚めると、そこには知らない天井があった。

 どうやら強烈なパンチで気絶していたようだ。

 ......というのは流石に冗談である。


 篠崎のクソザコパンチで失神するような人間は霊長類として相応しくないだろう。

 祖父母への肩叩きかと誤認するほどの衝撃に、俺は首を傾げた。

 ぺちり、という擬音が最も似合っている拳だった。


 事前の打ち合わせを終え、俺たちは保健室に来ている。

 藍園を交えて3人で静かに相談を。

 そう思っていたというのに、やかましいのが1人いた。


「お! さくらっちと......ユーマくんだ! 久しぶりだね~!

 元気にしてた? あっ、これは5限の体育でやっちゃったヤツでさ。

 ホント、球技ってどれもこれも難しーよね!」


 宇佐美ひなた。篠崎と同じ2組(文系特進)の女子。

 明朗闊達でハキハキと喋る彼女は、テーピング済みの指を振りながら笑顔を見せた。

 高1の頃のクラスメイトとの思わぬ再会に驚いた。


 一見すると水と油だが、確か五十嵐と仲が良い。

 内気な人間を巻き込めるほどの圧倒的な陽キャと言える。


「陸上に支障は無いのか?」

「んー、まあ大丈夫っしょ!

 武ちゃん私には厳しーわけじゃないし、大会までには治ると思うし!

 メンドーなのは、ペン持つときにぷるぷる震えちゃうことかなー」

「ペンを握る印象が無いな」

「ええ!? ユーマくん、私のことなんだと思ってるの!?

 そりゃ、さくらっちほどガリガリやるわけじゃないけど、私だってちゃんと......

 たまには.........ね?」


 宇佐美は陸上部のエース。

 顧問の武田先生が「赤点取ったら大会出場禁止」というルールを敷いているおかげで、いつも赤点ギリギリの点をかすめ取っている。

 特進の定期試験でいつも最下位付近をうろついていた印象だ。


 宇佐美の視線が宙を泳ぎ始めたのを見計らい、俺は本旨に触れる。


「藍園は?」

「奥のベッドで休んでいるわよ。

 だから宇佐美ちゃん、静かにしてね」

「っ、忘れてた! ごめんなさい!」


 デスクで作業をしていた佐々木先生がこちらを振り返り、唇に指を当てる。

 今日も傍にコーヒーのマグカップを置いている。

 保健室に居てはいけない生徒ランキング1位だろ、宇佐美ひなた。


「寝てるのかな?」

「どうだか。まあ、宇佐美の声で起きたかもな」


 遠慮気味な篠崎が恐る恐る奥のベッドに近寄り、カーテンの前で立ち止まる。

 前髪を整え、胸のリボンを気にかけ、咳払いをした。


「藍園さん、入ってもいい?」

「どうぞ」


 少し心地よさそうな声音が耳を撫で、カーテンが開かれる。


「こんにちは。

 お久しぶりですね、一之瀬くん」


 柔和な笑みを浮かべる藍園がベッドに腰掛けていた。

 教室にあった机が窓際に置かれており、そこで勉強していたようだ。

 驚いていない様子からして、声で察していたみたいだな。


「邪魔して悪い。まあ、宇佐美の方が邪魔だろうけどな」

「ふふ。宇佐美さんは元気な方ですね。

 私まで元気になれるような声で、落ち着きます」

「快調なようで安心したよ」


 血色が良い。1週間前に倒れたとは思えない。

 優しい笑みも鈴の転がるような音の笑いも相変わらずだ。

 この調子なら上野への外出も現実味を帯びてくる。


「はい。先日はご心配をおかけしました。

 『あと少しで教室の授業を受けられるようになる』と佐々木先生がおっしゃっていましたので、ご安心を。

 ......あの、すみません。そちらの方は?」


 藍園の視線は篠崎に向いていた。


「初めまして、私は2組の篠崎咲良。

 一之瀬くんに藍園さんの話を聞いてきたの」

「なるほど、そうでしたか。

 嬉しいです。よろしくお願いします」


 藍園も篠崎も友達が少ない。互いに好都合な出会いだろう。

 初々しい会話の切れ目を見計らい、俺は話を持ちかける。


「手っ取り早く本題に移りたい。

 相ヶセンセーから美術館のチケットを貰ったから、みんなで一緒に行こうと思っている。

 興味があれば藍園もと思っているんだが、どうだ?」


 事情が事情だ。断られる可能性も考慮していた。

 だが藍園の目は、俺のそんな考えを吹き飛ばすほど輝いていた。


「行きたいです! どこの美術館ですか?」

「上野にある、ル・コルビュジエの......」

「国立西洋美術館! ずっと行きたいと思っていたんです!」


 驚いた。まさか藍園がこんなにも熱意を見せてくれるとは。

 興奮した様子を恥じたのか、コホンと咳払いを挟み、藍園が続ける。


「日程は決まっていますか?」

「まだ確定してないけど、GWに」

「分かりました。それなら、この本を読み終えなくては......あっ」


 藍園は戸棚に置いてあった本に手を伸ばし、体勢を崩した。

 転んでしまうというところで篠崎が体を支える。

 見覚えのあるような流れに少し肝が冷えた。


「大丈夫?」

「す、すみません。ありがとうございます」

「気を付けてくれ」


 藍園の手にある本は古書だった。

 『芥川龍之介作品集 3』というタイトルと吊り橋の写真が刷られた表紙。

 奇しくも、見覚えのある本だ。


「それ......」

「ねえ! 今、美術館行くって話してた!?

 上野? GW? みんなで行く?

 私も行きたーーい!!!」


 宇佐美の大声音で我に返った。

 藍園の体調を鑑みるなら、もっと少人数で行くべきだと。


「......」


 そして同時に、藍園の目を見て理解した。

 期待に膨らんだその瞳は、後戻りできないと察するに十分なほど輝いている。

 ここまで来たら、突き進むしかない。



 4月はあっという間に過ぎ、GWがやって来る。

 上野駅にあるイチョウの木が青々と生えていた。


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