sideroad✦狂い続けろ

ぷちりと噛み砕いた果実の滴が喉を伝う。


「ははは、その身体はどうせ創り変える。腕一本くらいはいいぞ、サーベラス。おれに逆らえない様に躾る。自ら至上の果実を食わしてやろう さぁこっちへ来い、心も身体も冥府のものだ、おれのものだ」


力が入らない、おかしかった。ざわざわと身体の端から何かに喰われているような感覚だった。魔力も生気も吸い取られ、痛みで意識が沈みそうになる。

こんな汚れた姿を、貴方に晒すのか。

生臭い獣の息がかかり ごきり、と肩口から腕の骨が噛み砕かれるのがわかった。寝所を立ち、ゆっくりと歩み寄って鼻先をネウスが軽く撫でてやると獣が少しだけ顔を下げてキースを差し出す。


「すみま…、せん…」

「安心しろ、その後で柔らかい女の身体に創ったら美しく飾って俺の傍に置いてやろう。傷一つつけないようちゃんと毎日隅々まで愛してやる、何が不満だ こちらを見ろ」


頬に手をやりこちらを向かせようと覗き込むが、ふいと目を逸らされるのに苛立ちよりも愉悦が勝った。

この天使はどうにも嗜虐心を煽ってくる。愛しさとともに酷く屈服させて従わせたくなるのだ。


「あまり怒らせるな、優しくしてやれなくなるぞ。まだ状況に戸惑っているのだろう、冥府の王の妻だ。何でも与えてやる」


まずは機嫌をとってみる。嫌われたままそばに置くのは本意ではない。出来れば可愛らしく甘えてほしいのだ。顎を捉え嫌がる身体を引き寄せようと腰に手をやると恥じらいからか瞼を伏せるのににんまりと笑った。


「すぐに俺のものにしてやる、すぐに馴染む、安心して身を任せろ」


捉えた顎を無理やり上げさせゆっくりと息を奪おうと近づく貌に嫌悪と嘔気を感じ力の入らない唇を噛んだ。


「…………ステラ…さ…ま」

「…な、…に…?」


と同時に部屋に圧倒的な圧力と風が巻き、闇が圧縮されて一瞬で散る。

長い前髪が風にあおられて乱れるのを煩わしそうに払いながら、黒い男がそこに立っていた。


「……ッな、な……おまえ…、おま…」


「……ッ、チ…ゴミが……、やってくれた」


 ぶらりと獣の牙に腕を噛み砕かれてぶら下がる自分の唯一を目にしてオパールに光る瞳が獣を射抜く。引き裂かれたシャツと腕から滴る紅い鮮血に一瞬で頭が沸騰した。

同じ痛みがステラの肩に走る。

この痛みを、今自分の唯一が味わっているのだ。


「……き、き き、貴様……まさかステラ……ッ」

「キース…、なんで呼ばない あまり俺を…怒らせるな」


次の瞬間には既にステラの腕の中にいた。とん、と倒れ込むようにステラの胸へと沈む。不思議と、怒りというものは振り切れてしまうとかえって頭の中が静かになるものなのだと初めて知った。キースを咥えていた獣は突然現れたステラの気配だけで部屋の隅へと逃げ出し威嚇の仕草を見せるがチラリと視線をやると震えてすぐに降伏して伏せる、獣の方が分かりやすくていい。


「……痛むか」

「…、……ステラ…様…貴方が、汚れる…」


取り戻した身体にあれだけ幾重にも刷り込んだ自分の神気に紛れて魍魎の匂いがした。くん、と首筋の匂いを嗅ぐと面白くないと言う顔で白い肌に手のひらを這わす。耳元に頬にくちびるを寄せながら優しく指に髪を絡ませくすぐるように撫でている。


「……ッな、貴様それは我が妻だ…!突然現れて何を…ッ」

「………………は…?」


びくりとその低い声に体がこわばる。静かに現れたこの黒いおとこが初めて腹の底から怒っていることに気付いた。

一瞬だけ自分に向けた視線はすぐに興味を失ったように腕の中の天使へと戻る。あれは、あれは俺のものなのに、いきなりやってきて横取りする気なのか。


「…お前から俺以外の匂いがするのがこんなにも不快だとはな…、どうしたらこの腹はおさまる」

「……全部消して…ください、私ごとでもいい…貴方以外のすべて…、消して…嫌だ…、いや…」

「……ッ、まさ か……、は?…その身体を仕上げた男は…まさか…貴様、なのか」

「……貴方だけにして…」


流れ伝い落ちる紅い血を無言で見下ろして、あの光の城での自分の凶行を思い出す。あの時はクロードにこの体を取り上げられて咄嗟にクロードを殺しそうになったな…、とざわりと全身が総毛立った。


「何年ぶりでしょうね、ネウス。息災で何よりです」

「……ッ、その天使を連れ戻しに来たのか…」

わたくしの伴侶がお邪魔しましたようで…、随分なもてなしも頂きありがとうございます。ですがわたくしに断りもなしでは困りますね」

「…な、……伴侶、だと…」


このおとこはまずい。

一瞬で背中に冷たいものが走る。知らず最悪なおとこの番に手を出してしまった。

まだ光と闇の欠片共の方がマシだった。数十年前に焦がれてやまぬ愛しい女神にそっくりな人間を見つけて手を出そうと仔犬に身を変え近づいた時に二人がかりで散々な目に遭わされたが、それでもこのおとこよりはマシだったのだ。


「何処に触れられた、キース」

「…わかりません…、でも…身体中…、ぅ……吐き気がします…」

「ネウス」

「……ッ あ…、ぁ」

「これはわたくしが触れるのもためらうほどに慈しむ伴侶でしてね」

「ふふ、嘘ばっかり」

「お前は…、少し黙っていろ」

「ン…、んぅ…」


目の前で自分が妻にと攫ってきた天使に深く、優しく大切そうに口づける黒い男をみてこれは誰だと考える。少なくとも数十年前に見たこの男は何ものにも興味など持たない深淵のような目をした男だった。ちゅ、と濡れた音と共にあんなにも嫌悪に染まっていた顔を一瞬でとろりと溶かせて解放するとまじまじと今度は腕の中の白い身体を確認する。


「……これの身体のあちらこちらに、貴方の不快な匂いがしますね………  何をした」

「……お前の番とは、知らなかった …つ…、妻にしようと攫ったが…、まだ何もしていない、本当だ。少し触れはした、が」

「…それは、何もしていない。と言うのか」

「ち、ちょっと触れただけだ!サーベラスが少し悪さをしたのは謝ろう、すまん…ッ あまりの天使の味と香に少し夢中になったが、そ それだけだ!」

ペットが悪さをか、なるほど…?そうなのか」


部屋の隅にいた三つ首の獣が視線をあげた途端に大きな図体を伏せてそのまま媚びるように這ってきた。伏せてもなお見上げるような図体で足元を子犬のように舐めるのをぽん、と頭に手をやれば即座にネウスに向かって唸り始める。


「違うらしいが…?」

「サーベラス!」

「ははは、獣はわかりやすくていい。いい子だ」

「ただの、人間の乙女だと思って…、その香りに抗えなくて……」

「なる程……?腕一本くらいは…構わん、か…面白いことを言う」


獣に向かって何かを語りかけているステラの腕の中でキースが小さくふるりと震えた。ステラの気配が変わったからだ。

先程から冷静なふりをして静かに言葉を紡いでいるが、腹も、頭も、ドロドロに怒りで溶けて渦巻いて今にもこのゴミムシをぐちゃぐちゃに潰して砕いて消滅させてしまいたい。


「違う!いや…、違わないが…いや、ちが…、ガァァァアあ、ぁ……ッ」

「…どっちだゴミクズ…、面倒クセェな…身体全部暗黒洞ブラックホールに喰わせてやろうか。…まぁいいどっちでも構わん。どのみち貴様は俺の視界から永劫消える」


一瞬で吹き飛んで消えた左腕を抑えて蹲りながら顔だけを上げて歯を食いしばる。再生できない、何をした!


「………ッな」

「……クク…、そうだな。喜べ 貴様の最も懸想するあの方の光を見せてやるぞ」


つい、と何気なく片腕を払うとネウスの斜め頭上の窓の上の壁から天井から空へ向かって吹き飛んだ。


「……この世で唯一この俺が敬愛する女神、愛しき姉神よ…、貴女の輝きを俺に貸せ」

「何を、する気だ……、セリス様だ、と…まさ、か…まさか……ッ」


畏れと期待に満ちた顔で震えるネウスの視線の先、一条の光も差さない筈の冥府の奥に、白い優しい光が降りてくる。ふわりと白い衣が翻り、次の瞬間には透き通るような女神がそこにいた。


「あ…、ぁ、あ………セリス…さ、ま…」


透けた肌、白金の絹糸のような長い髪が一房も絡むことなく背中で揺れて、ゆっくりと起こしたまぶたの下の翡翠の瞳は見たこともないような美しさ…。白い裸足のつま先が地につく直前で止まり、優しく伸ばした手のひらでキースの頬を包むとゆっくりと唇を寄せて額に口づけた。夢を見ているような一瞬 そして…、ついでのようにステラの頬を撫で、目元に口づけると それはそれはこの世の愛と美の全てをかき集めたような微笑みを浮かべて次の一瞬…、悪魔のような無慈悲さで幻のように掻き消える。


「………ッは、な、セリス様…、そんな…ッセリス様!何処へ…、何処へ行かれたのか…ッセリスさま!!ぅああ…ッうぁぁあああ…ッセリス、さ…、ま……ッ!何処だ、何処へ…ッま、待って……ッ」


おそるおそる伸ばした手に触れる前に消えたその幻に、先程まで獣のようにキースの身体を弄んでいた不遜な男は気狂いのように慟哭を繰り返す。


「…あぁ、…傷が……肌の不快さも汚れも…不浄なものがすべて消えて…これは…、あの方…は」

「俺が唯一この世で膝を折る女神、俺の姉だ…」


アインが産んだ、セリスおれ、共にいたことはないがあの憐れな姉にはすべての刻でこうべを垂れる。美しく、清廉で、すべての神も、人も、動物も、草木達でさえ愛してやまない、…この世で最も憐れな女神あねだった。

それ故にシエルにすらステラは敬意を欠かさない。


「…ただの影だというのに…、美しいだろう…?」

「はい…、見たこともないような…あんな、言葉にあらわせない程の美しいひとがいるのですね」


まだ夢を見るような瞳のキースに、少しだけ憂いを浮かべた微笑みで教えてやる。


「あれを目にした、知能を持つすべての生き物があぁなる」


狂い叫ぶ冥府の王に視線をやると、興味もないといった顔で鼻を鳴らした。叫び、壊し、暴れて哭く。繰り返し繰り返し、狂ったように幻を探して慟哭する神を見てひくりと肩が揺れた。


「え、…でも私は…」

「お前は…俺の加護で幾重にも囲っているからな、俺以外には心など動かんだろう」

「…そんな、……でも、はい…、そうかもしれません」

「ふん、あれだけ鮮明に姉上を目にすればひとたまりもなかろう、あのクズには過ぎた罰だが…一番効く。永劫手の届かぬ幻を追って踊り狂い続けろ」


「セリス様ァァァァァアッ!」


一筋の傷も許せないこの腕の中の伴侶に気が狂いそうになる程の無体を働いてくれたのだ。消滅させるだけでは気など収まるわけがない。

ぱちん、と指を鳴らすと目に見えない何かが狂った神の周りを包んだのがわかった。


「何をなさったのです」

「…この俺の唯一に悪さをした罪は重い。永劫許さん。…絶対に、許すわけがない。あの美しい幻が永遠に褪せて消えぬように奴の周りに反響させた、アレが元に戻ることはない」


ついと手を挙げるとのそりと三つ首の獣がステラの傍を護るように立つ。


「あれを見張れ。狂い続ける間は見張るだけでいい、何かが悪さをせぬようにしろ」


喉元をひと撫でしてやると嬉しそうに鳴らして くるりと周りを一廻りすると彷徨い歩く元の主を追って高台の上へと駆け上がる。のっそりと居場所を構えて新しい主の命令に従うように横たわった。


「……不安は…、なかったのです。貴方は来てくださる…」

「うん…?」


ぎゅ、と背中に回した腕に力をこめる。胸に顔をうずめて鼓動を聞くと人としての命の音が安心させた。


「でも…、嫌悪でどうにかなりそうでした」

「許せ、幾重にも護ってはいたが油断した…俺が悪い。もう二度と他の何ものにも触れさせん」

「……早く…連れて帰って、貴方だけにして…此処は嫌です」

「あぁ…もっと望みを言え、甘えろ。それがこんなにも俺を悦ばせるとは知らなかった」


黒いコートに包み込むと、白い身体を大切に大切に抱き込んで闇に巻かれて消えた。

後には憐れな畜生に堕ちた何かが叫び彷徨い、慟哭する声だけが響き渡っていた。




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