扉の向こうの世界
『おいチビ』
「…………、はい?」
この4年ほどいくら心待ちにしていてもただのひとことも届かなかった風の声が突然聞こえた。
ずっとずっと待っていたのに憎らしい声!
大好きなあに様を当たり前に独占して、当たり前に愛されて、当たり前に抱き締めている憎らしくて悔しいのに、世界で一番尊敬する男の声だ。
これは多分、一方的に声を送る
「師匠…?どうしたんですの、お出かけになってまだ幾日も経ちませんのに…まさか、あに様に何かあったんですか」
『俺がいるのにあるわけないだろう。それよりちょっと人目につかない場所に移動しろ。影はまぁ仕方ねぇが、使用人達からは離れて少し待て』
まぁ、それはそうか。彼がそばにいる限り神様だってあに様に傷一つつけられるわけがない。憎らしいけれど、誰よりも信頼している。
「むー、じゃあ何かしら。一人になればいいんですのね。敷地内でもいいのかしら」
言われるがまま鍛錬場から少し離れ休憩用のガゼボへと移動して、少し昼寝をしたいと人払いをするとぼんやり待った。
まぁ敷地内で居場所さえ把握させておけば一人にくらいはさせてくれる。逆に逃げ回る方が監視がきついのだ。
皇宮に入ってから学んだ自分だけの常識だった。
もうあまり記憶にないけれど、昔は市井で平民として産まれたはずなのに、まるで初めから皇宮で産まれたかのように育てられた。
きっと幸福な事なのだろう。「自由」以外は何もかもが自由なのだから。
「変なの…」
自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「羨ましい」のだが、羨ましいと言う感情がよくわからない。
キラキラと旅立つあの二人が大好きだった。
今度ここへ遊びに立ち寄る時の為にまた新しいお話を見つけに行くのだ。次は何処へ行くのかしら、何を見て、誰と出会うのかしら。笑って怒るのかしら。
そこへわたくしが行くことはなく、それを望んではいけない事だけはわかっているのだけれど…、時々見たことも無い場所で笑う美しい人の夢を見るのだ。
「あの人は、大陸の何処かにいるのかなぁ…」
ぼんやりと待っていたら不意に聞いたこともない音がした。
何処からかしら、何の音かしら。
「…ぇ、え あに様!?」
「へぇ、面白いですねぇこんな事出来たのか」
「ご招待だとよ、よかったなチビ」
「よー、君がベルちゃん?よろしくなー、ようこそ俺んち!」
「何事ですかー!」
突然目の前に大好きな大好きな二人と、明るく笑う少年が現れたのだ。
そっと差し出される手を取って景色の変わったあちら側へと足を踏み入れると変わる空気と風、そして広がる眼前の雲海に全てを奪われる。
凄い凄い凄い、なんですのなんですのなんですの!
何処までも真っ青に続く空に眼下に広がる雲海。見たことも無い景色に暫く呆然とした。
一体ここはなんですの!
聞いたことも見たことも無い、きっとわたくしが一生見ることなど無いと思っていた景色。
「す…………、凄い!凄ーい あに様、ひょっとして憧れの霊峰ですわー!」
澄み渡る空気がそう言っていた。
ずっと閉じ込められていたとは知らずに生きてきた。自分の世界はあの広い広い、小さな庭だけだったのだ。
凄い。果ての見えない何処までも続く空際にふらりと吸い込まれそうになる。
「おっとっと、あぶねーじゃん。ここは一歩踏み外したらひとたまりもない霊峰だぜ、おじょーさん」
「貴方は…、どなたですの」
「霊峰の現仙人様ですよ」
「えー、そんな風に呼ばれてんの俺。んじゃ見習い仙人ってとこだなー」
「見習いさんなんですか」
「まだなーんにも知らねぇなりたてほやほやだもん」
「まぁ」
人好きのする笑みについつられてしまう。
正直いって自分はこう見えて警戒心がかなり強い。
そうは見えないと言われるが、笑いながらも殆どの人間とは一線を置く癖がついている。
大好きなはは様が時々辛そうな顔をしているのも知っていた。何があったのかまでは分からないが、昔からわたくしを守る為ならどんなに辛くても笑う方だったから。心配で心配で自分達を騙す大人に悲しくて悲しくて、実は何度も母を連れて逃げようと思った事もあった。
その度にラインヴァルトが悲しそうにするのだ。
心が冷える思いだった。
それだけで人が死ぬ。自分は笑っていなければならない。自分と同じ様に大好きな母を亡くす子供達が出るかもしれないからだ。
母は何があっても
自分が笑ってさえいればきっと
ずっとそうして生きてきた。
正直、先日自分の元に母が戻ってきてくれた時は心底泣きそうなほど嬉しかった。もう離さないと誓ったものだ。
「ねぇ!この吊り橋の先は何があるんですか、貴方はずっとここにいらっしゃるの?おひとり?あに様はどうやってここ迄きましたの、師匠なんか飛んでますわ!あれは捕まえられますの?あそこにあるのは…」
なんだか息が吸える!
凄い、凄い!
「ベルちゃんいっこずつ、いっこずつな」
「あ、そうですわ!貴方のお名前を教えてください!」
「あはははっやっとそこなのー?」
はしゃぎ回る少女に肩をすくめて、思いもよらない自体にこれはなかなかまずい事になったと眺める二人は顔を見合わせた。
「うん、あちらで大騒ぎになる前に便りを送っておいて、アッシュ」
「それしかないか…、帰りも同じ様に送れなかったら俺が連れて降りるしかないしな」
「あ、大丈夫だぜー。道繋いだからいつでも俺が送れるからさ、バレないように戻すから詳しくは言わなくてへーき」
一人だったんデショ、と片目をパチンとつむるのになかなか食えない少年だと思い直す。
「あ…、そうか。わたくしあまり長居をしたら皆が心配するのですね」
一転してしょんぼりするのにタキが「いつでも遊びに来たらいーよ」と頭を撫でてやる。
「精霊がついてるってだけで俺には最上級の信頼だ、扉をあげる。俺の友達になってよ」
「まぁ……、そんな…」
もはやベルにはプロポーズにも近い言葉だった。
「これは、ラインヴァルトがこんなに機嫌がいいところ初めて見ましたねぇ」
「ホントだな、こいついつもあんま表情変えないが、なんか今日は喜んでるのはわかるな」
「そういえば見たことのない
「そうじゃねーよ…」
「あははっ俺の相棒のロックハートだよ。この霊峰の主みたいなもんさ」
「なんの精霊かしら、タキは精霊使い…?いえ、まさか
「空の精霊だよ、よろしくな」
「まぁ!」
精霊に恋愛感情はないだろう。好ましいくらいの思いはあるだろうが。
何だかんだ抑圧されて生きている少女がこんなに開放感に喜んでいるのにつられたか。これは今年は大豊作かな、と思えば安全を確実に確保出来るのならばやはりこの子にはある程度の自由を与えた方がかえって民の為なのかもしれない。人間達には博打にも近いことなのだろうけど。
「あに様…、本当に夢の様です…」
「よかったですよ、貴女にだって夢を見る権利くらいあるのですから」
「正直そんなに喜んでもらえるとは思わなかったから吃驚したよ。思いつきだったからなー」
「先程の空間の裂け目はなんです?」
「あー、あれは…何だろな。俺は『
「
「そー、ハーティの力で空間と空間を繋いでるみたいなんだ。俺が望む場所、3ヵ所までかな 繋いでおけるぜ」
「そういえば、爺ィがたまに姿を消してたと思ったら麓に降りたりしてたな」
「あぁ、そー。自由にここに行き来出来るなんて逆にあぶねーからさ、じー様はあんまり人には言わなかったみてぇ 1ヵ所にしか繋げらんなかったみたいだし。まぁあんたらには必要なくて言わなかったっぽいしね」
「それはそうかもしれませんね。繋ぎっぱなしにしてるんですか?」
「いんやー?今のは閉じたし、麓のも普段は閉じてる。俺の干渉なしで行き来はさせねぇようにしてるよ…、ただ」
ちら、と言葉をきってベルに視線をやるとにっこり笑って続けた。
「ベルちゃんには1ヵ所あげてもいいかな」
「へ、わ わたくしですか」
「うん。俺もまださぁ、この年でひとりになると思ってなくてさ。やっぱひとりって寂しーんだよね。麓のかーさんは此処では暮らせねぇし、彼処は此処とは近すぎて扉のことなんか話せない。鍵で他の誰かが使う事もできなくもできるし、友達 なってくれるデショ」
じんわりと何かが胸に染みて温かくする。いいのかしら、わたくしがここへ遊びに来ても。内緒、内緒よね?此処へ、わたくしの自由に遊びに来れるの。そんな事、許されるの。
「魔物は近づかないが見たとおり、一歩間違うだけで普通の人なら死ぬ場所なんだ。でも精霊がいるなら話は別。そんな友達他にいねーもん」
「よ、よろしくお願いします わ」
「やったー」
「おや、これは思わぬ縁結びでしたね」
タキはベルの手を取ると吊り橋の向こうへと誘って走り出す。あちらには代々の仙人達の住処があっただろうか。アッシュは当たり前のようにシエルを抱き上げるとあとに続いた。
「あとで案内もするけど、まず扉の説明と鍵を付けよう!お茶でも飲みながらー」
「……まったく、此処が雲の上だと忘れそうになりますねぇ」
「爺ィとは随分タイプが違うが、不思議と似ているな」
「ふふ、同感ですね。ガンジー様が彼を跡継ぎに選んだのはなんとなくわかるかな」
「空の
「そういう事です」
ここは雲の上で、地上のような当たり前にある天気という概念もない。
瘴気の溜まる隙もなく、静謐な場所であるかわりに人も長くは居られない神に近い聖域だ。
ただこの代々空の
勿論ロックハートの聖域を一歩でたら過酷な環境であり、人間達が登ってこられるような場所でもない。当たり前だが自分達以外でこの場所に人が来ているなど見たことも無かった。
「何だか、不思議な光景ですね。大陸で一番自由のない少女が、大陸で一番誰にも干渉されない自由な少年と笑っているなんて」
「そうか?」
「違いました?」
「大陸で、一番自由なのはお前だろう」
自分を雁字搦めに束縛している男が無自覚に何かを言っていた。
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