はは様と一緒!
風に包まれ一瞬目が眩んだかと思ったら次の瞬間には見覚えのある部屋に立っていた。
「…シエル」
「大丈夫ですよ、触れられていません」
あぁ、成る程。あの娘はこれを見てしまったのか。
この美しい光景を目の当たりにして絶望したのか。
12年の年月をかけて、じわじわと狂っていったのか。
彼女は恋心をうまく消化できずにぐつぐつと煮詰め、どろどろに腐らせてしまった。きっと元はもっと幼く純粋な想いだったろうに。
と思えば何故かいきなり不機嫌な顔でばさりと頭からマントをかぶせるとアッシュがその細身の身体を抱き締めた。
「早く戻れ」
「んー、アッシュ苦しい。大体今の方が戻ってるんですけど」
「縮め」
「言い方!」
もー、ともぞもぞしていたかと思うとひょこりと顔を出したのはいつもの可愛らしい少年だ。
「それもはずせ」
「ん、どれです…?」
きょろりと脱げてぶかぶかの衣装とマントにくるまれた自分を確かめていると、無造作に髪飾りをもぎ取られて放り投げられた。
「いつまでも他の男のものだという証をつけたままにするな」
「あぁ、…成る程」
馬鹿だな、と苦笑する。あの髪飾りは後宮の住人の証だ。一応おかしな言いがかりを受けないように用意して付けたのだった。確かに側妃達の証ではあるがあんなものはただの飾りに過ぎない。よしよしとなだめていると穏やかに声をかけられた。
「…本当にシエル様ですのね…」
「えぇ、女性と思わせた方が都合が良かったもので」
「アリッサ様はどのようになさいますか」
「あれはさすがに後宮には置いておけませんね、父君にお任せしますが、ベルに対しては完全箝口令しかないかな」
「………12年前はあれ程ではなかったのです。酷く暗いお顔をなさるようになり、そうかと思えば時々夢見るような顔で遠くを見たり」
「あの時は2年程滞在していたでしょうか」
「はい…、シエル様…いえ、アッシュ様なのでしょうね。いらっしゃる間は悲しげな顔はされましたが何処か諦めたような、切ないようなお顔をなさってて。ただ今になってよく分からない事を仰るので戸惑ってはおりました」
そうだ、だからあの時も騒ぎにはせずそのまま捨て置いたのだ。
「あの様子では、シエル様のお姿をご覧になっていたのですね」
「はい、僕も大人げなかったと反省しております」
「いえ、ただおそらくはその時以来あの
「本当に、ビアンカ様には申し訳無い事です」
「滅相も…私も逆らう勇気も進言する力もなく、御手を煩わせました」
「何となく、大体分かった…。俺のせいだな」
「そうではありませんよ、あの方がお心を諦めきれなかっただけです。ベルといる間はさすがに暗い視線は感じていたので、嫌われてはいるのだろうと思っておりましたがずっと何もなかったのです。娘がタウンハウスへ寝泊まりするようになって直ぐに後宮へ連れ込まれてしまって…気づいたら逃げられなくなっておりました」
「ベルの傍が一番安全でしょうね。このままあちらへ参りましょう」
「……本当に…、ありがとうございます…」
「元々は僕のペットが原因ですから」
「お前も反省したんじゃなかったのか」
「君が一番大元なのは間違いないでしょう」
「…チッ」
「ふふふ、…本当に、気づいていただけるなんて思わなくて…感謝します」
市井に暮らしていた時と変わらない、穏やかな女性だ。国をあげて大切にされ不自由なく暮らす中、驕ることも歪む事もなく清廉であれるのは難しい。
こんな人を自分達のせいでつらい目にあわせたかと思うと胸が痛んだ。
❀❀❀
「これは贔屓じゃありません」
「はいはい」
「僕達のせいですから」
「わかってる」
「だからただのお詫びなんです」
「そうだな」
大切そうに腕に閉じ込められたまま言い訳じみた宣言をして、本当にわかってます?などと腕の主に念を押しながら、小さく囁くように今は眠っているだろう
「…おまえが人間に歌うなんてな」
「ほんのあと数十年です、穏やかに生きるくらい許されるでしょう」
月の光が眠る夫人の身体を静かに優しく包む。月の歌をもらった彼女には、この先寿命が尽きるまであらゆる病魔も不運も害をなすことはできなくなった。
❀❀❀
「え、なんでどうしてですどうしてです!」
「おはようベル」
にっこりと食卓に座るビアンカを見て驚いたような嬉しいような、はしゃいだ声で扉を開けて目にとめるなり抱きついた。
「今朝方こちらへいらしたのですよ。僕達と居るのを見てやはり淋しくなったそうで、後宮からお出になるそうです」
「まぁ本当ですか?はは様!」
「えぇ、あちらは…、えっと お部屋は凄く気に入っていたのだけどやはり退屈に思えてきてね。それに貴女は目を離すと無茶ばかりするからとシエル様にもお願いされたの」
「嬉しいですわ!何でもいいです、わたくしを見張ってくださるでも叱ってくださるでも、やっぱりはは様と一緒がいいです。はは様のお部屋はとっくに準備しておりますのよ」
まだ物心つく前から皇宮に取り込まれ、悪く言えば監禁されたような環境で、同年代の友人もなく母親だけが家族のような生活をしてきたのだ。淋しくないわけがなかった。
「ベル…ごめんなさいね。私も貴女と一緒に居るのが一番だわ」
影も常に一人ビアンカ直属につくよう指示もした。もうおかしな事に巻き込まれることも無いだろう。あとは、一度城で事の次第を収拾してこなければならない。
「今日はビアンカ様のお部屋の準備などしてなさい、僕達はちょっと皇宮の方に用事ができたので出かけます」
「え、わたくしもご一緒しますのに」
「だめです、ビアンカ様といてあげなさい。お気に入りのお部屋にして差し上げないとまた後宮に戻ってしまうかもしれませんよ」
「ハッ…、そうですね!わかりましたわ。はは様早速今日はお部屋作りいたしましょう!お庭もはは様好みにしますわね」
「ふふ、期待しているわね」
本当にこの子は少女の頃と変わらぬ素直さで、母の言い訳や状況など数え切れない程おかしな点が紛れているのに疑いもしない。思わず笑みがこぼれてしまう。
「…何かあったか」
「まぁ、あり得る事ではありましたけどまさかでしたね」
「シ、シエル殿 まさか今朝の騒ぎの原因をご存知であったのですか!」
思った以上に大騒ぎしている。どうやらなかなか大変な状態で彼女が発見されたらしい。
何せ女性しか入れない花園だ、宮殿内に足首のない女官が血の道を作りながら這いずって側妃達の部屋の前で気絶しており、その血を辿ればまだ半分凍結した水浸しの冷たい足首が転がっていたわけだからそれは騒ぎにもなるだろう。
「無理矢理足を折って動いたんですね…感覚は麻痺していたでしょうが、砕けますよと忠告したのに」
「何となく状況はわかった…」
「シエル殿…?とりあえず貴賓室へご案内させて頂きます」
「あぁ、すみません。行きましょうか」
青い顔で宰相が迎えてくれた。娘が大変な状況で発見され心中穏やかでないだろうに、努めて冷静に話すのにさすがはこの国を支える人間だと評価する。
娘には目が行き届かなかったようだがそれはまぁ男が伺いしれない場所に勤めていたのだから致し方ない。
「アリッサ嬢の具合はどうですか?」
「は、ご心配痛み入ります。神官達により千切れていた足は接合させましたが完全には機能は戻らないようです…が、日常生活は多少不便ながら出来ますのでお心を砕いて頂かずとも大丈夫かと。ただ犯人は依然として分からぬままで」
「そうですか、では僕からの話も聞いていただいても?」
「うむ、朝から何やらあったとかで…タイミングもタイミングであるし、アリッサ嬢に関係あるものかと思っているのだが」
「そうなります。まぁ想定よりも大事故が起きてしまったようですが…」
「む、娘に何か」
まだ真相がわからないからか娘に起きた不幸に怒りを現す事もなく、様子を見ているのだろう。まずは真相をというか、賢明だ。
「…ビアンカ様を後宮に閉じ込め暴行を加えていたようですね。理由は、もう何年もお心にあった怨嗟が間違って向けられたゆえのといったところでしょうか…」
「まさか、娘がそのような事を」
「アリッサ嬢の意識は?」
「まだ戻りません」
「はぁ、どの程度記憶と理性が残っているかわかりませんが…、ビアンカ様の証言と
「いえ、シエル殿の話ならば一切の疑いはございませぬ。娘が犯した大罪は我が家門上げて贖罪を」
静かに宰相が頭を下げる、潔い方だ。
「ブライアン…」
「いえ、貴方には何も。というか表立っての事件は全て伏せて下さい。ビアンカ様に何かあったなどベルに知られるわけにはいかないのです」
「確かにそうだな…、ベル嬢には国家機密レベルの箝口令を引くしか無い」
「それでは娘の犯した罪がそのままになってしまいます」
「アリッサ嬢にはそのまま北部の神殿へでも奉公に上がっていただいたらいかがでしょう。恐らくは精神を多少なりと病んでおられますのでお心静かに暮らせる場所へ。当然母娘には接近禁止命令は絶対と、生涯帝都には戻れないようお願いします」
あと、と続ける。一息つくようにカップを一口飲んでから宰相を見る。
「アリッサ嬢の足は治しません。生涯身体に刻んで生きて頂きます」
「はい、むしろ寛大な処置に感謝致します」
「陛下、表沙汰に出来なかった関係上僕が独断で動きましたが正式な処断はお任せ致します。くれぐれもベルには悟られませんよう、墓までお願いしますね」
「心得ておる」
「彼女の親御様である宰相殿は真相をお知りにならないわけには行かないでしょう…、状況把握の為にも僕達の謝罪もあわせて後程お話はさせていただきます」
「…謝罪、ですか。いえ、覚悟は出来ております」
一気に精神を削られたのだろう、げっそりとつかれた顔でガートルード皇帝がゆっくりと卓上の鈴を鳴らすと現れた側近配下に向かって手を上げた。
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