絶望 した。
『何処だ…?』
見慣れぬ何処かの宮殿らしい通路へと飛ばされた。
何となくだが今迄通された場所とは雰囲気も、匂いから違う。
いぶかしく周りを探るように見回せば通路の先に気配を見つけてそちらへと意識をやる。女が1人身を震わせて立っていた。
「…まさか、アッシュ様……?何故このような場所に…」
手で覆った陰で薄く笑った顔。わざとらしく慌てた仕草で善人の顔を張り付けて駆け寄ってくる。元凶はこいつか、と分かるが場所と意図がまだ分からない。静かに近づくのを黙ってみていると何処か芝居がかった声で、だがひそめて驚いてみせる。
「誰かに見つかりでもしては大変でございます!アッシュ様、どうぞこちらに」
「…誰だおまえは」
一瞬傷ついた顔を見せたがすぐに居直り腕を引く。
「宰相が娘、アリッサですわ…ここは後宮でございます。例え
「アリッサ…?」
誰だ?と考えるも記憶にはない。側室共でも皇女でもないオンナ、この国である程度の権力と皇室の人間とも交流がありそうなオンナ、宰相の娘なら
そしてここは皇帝の女達だけの宮。使用人も犬猫すら女しか立ち入れない花園だ。そんな場所に
例え全てに優先される
「あぁ…」なるほど、と気づく。弱みを作り何かを企んでいる。大方、
「見つかれば俺でも国へ強制送還される、そうされたくなければ…、といったところか。何だ、言ってみろ」
「…ッ」
ほぼ言い当てられたのか一瞬戸惑いを見せたがそのまま近くの部屋へと引きずりこまれた。
ご丁寧に来賓室のようなものではなく客室のたぐいだろう、ベットまで綺麗に整えてあった。
全く
「貴方ほどの方が子供の護衛などというお役目に縛られ、あんな人妻だった下賤の女と過ごさねばならないなんて…」
バタンと扉を閉めたそのままに扉へと押し付けられ、抱きつかれる豊満な胸とコルセットに絞り上げられた細い体。何やら嫌な匂いも纏っている。
「あぁ、アッシュ様…お慕いしております…、わたくしがあんな汚い女からも我が儘な子供からも、自由にして差し上げますわ!どうかわたくしを全て貴方様のものにしてくださいませ」
「そんな事か」
「ッ…あぁ!そんな当たり前の、簡単な事でございます!どうぞ今ここでわたくしを奪って、さらってもいい…ッ」
「そんなくだらない妄想か、と言っている」
口付けたくて首に絡みつき引き寄せようと必死な女を凪いだ目で見下ろしていると静かに扉の外、まだ遠いが人の気配が集まるのを感じた。人払いはほんのひと時だけで、その後は脅しにも使おうと解放の手筈だったのだろう。目撃者がいる、という状況も重要なのだろうから。
軽く腕を払えば小さな声を上げて女は床へと投げ出される。スタスタとバルコニーが見える窓へと近づくと鍵を開けようとするのを女は慌てて止めてきた。
「アッシュ様!今ここでわたくしが大声を上げればすぐに人がやってまいりますわ、もうそれで終わりなんです。国へ戻され、自由もなくなりますわ。それならばこの国で、わたくしと…」
「…お前は
「え…」
「お前という枷がある自由がそれとどう違うと言うんだ」
カチャリと鍵を開けてバルコニーへ出ると真っ直ぐに手摺へ歩み寄り とん、と軽い音と共に足をかける。
「まさか、ここは5階の高さですわ。落ちたら!」
「彼奴ならこれだから人間は可愛らしい、とでも言うんだろうがな…」
そもそもの根底が間違っている。
「アッシュ様ッ」
人間達の些末な決まり事ごときで自分も、シエルも、縛れるはずもない。
「大声だろうが何だろうが誰もいないこの部屋で勝手にやれ、俺は帰る」
「だ…ッ誰、か……―――」
次の瞬間には風が巻いて、跡形もなくもうその場には何も残ってはいなかった。
❀❀❀
「おかえり」
ニッコリと微笑んで迎えた恋人に珍しく苦々しい顔で応える。
「チビは寝たのか」
「えぇ、先程ようやく。そんな顔しないでください、もう少し遅かったら様子を見に行こうかと思ってましたよ」
「気づいていただろう、まったく」
「あの時はベルがまだ寝てなかったんです」
ふわりと香る嫌な匂いに ふぅん、と傍へ寄ると軽く匂いを確かめる。
「媚薬まで纏っていたんですか、俗っぽいことなさいますね」
さら、と透明な水の膜をまとった指先を払うとアッシュの全身を包んで直ぐにその嫌な匂いと共に散った。
「さっぱりした」
匂いがつくのが嫌で抱き上げるのを我慢していたのかすぐに腕を伸ばすと小さな身体を抱きしめる。
抱き上げた身体をぎゅう、と珍しく確かめるように甘えてくるのに思わず苦笑した。
「なんです、余程嫌な目に遭いましたか」
「おまえがなんとも思ってないのが一番面白くない」
あははは、と声を上げてしまう。
「貴方も少し昼寝しましょう。暫くベルにかかりきりでしたからね、拗ねていたのはわかってますよ」
「……ふん」
❀❀❀
「…アッシュ様……ッ」
はぁはぁと小さな息切れとドレスが擦れる音。彼を手に入れるにはあの皇女モドキが皇室に馴染むまでの期間しか無い。終われば彼は何処かこの国ではない場所、自分の伺いしれぬ遠い場所へと行ってしまう。
初めて長い皇室の廊下ですれ違った時、その紅紫の瞳が静かに瞼の隙間から見えた瞬間心臓が止まったかと思った。息も、時すらも止まった。
とうとうわたくしの運命の人を見つけたのだ。
あぁ、美しい人、アッシュさま…。強さも逞しさも美しさも、すべてを持った運命の人。早く貴方もわたくしを見つけてくださいませ。
どうやったのか、彼も転移魔法が使えたと言う事なのか、魔法陣もなしでまさかあの場から消えるとは思わなかった。ここへ飛ばした魔法陣を組むのに金を掴ませた宮廷魔法師が5人、半日もかけて描いたというのに。誤算ではあるが、纏った媚薬香はかなり強力だ、抗おうとも今頃わたくしを求めて苦しんでいるはず。
あぁアッシュ様!今楽にして差し上げに参ります!
きっとわたくしを見たら我慢など出来ず、人前であろうが夢中で襲いかかられてしまうかも。
あぁ、いけません…、そんなご無体な……でも…。もちろんそんな姿を誰かに見られればもう逃げる事もできないでしょう、あの方はわたくしと婚姻する以外になくなりますわ。あの方が望むのなら
待っていてわたくしの運命の人…早くその逞しい腕にわたくしを閉じ込めて…ッ抱きしめて…、愛してくださいませ…!
あんな下賤の女やガキ共に自由を奪われ、心のままに生きられないなんて…、わたくしがお救いしますアッシュ様!
ガサガサと精霊宮の庭園を踏み荒らしながら想い人を探して歩いていた、…と不意に太陽に反射してキラキラと光る何かが空気中に散っているのに気づく。
何処からか何か美しい不思議な音色に混じって小さな歌声も聞こえてきた。人の声なのかもあやしむほどに美しい、不思議な声。
今この地には三人もの精霊がいる。まさかあれらが歌うのだろうかと静かに、そぅっと近づけば大きな樹の下に愛しいあの方がゆったりと寝そべりうとうとと微睡んでいるのを見つけた。
みつけた!わたくしのアッシュ様!
飛び出そうと身を乗り出した瞬間に、愛しい人の頬を撫でる白い手に気づいてギクリと身体が硬直する。優しげに髪を撫で、頬を伝い、首元を抱え込んだかと思えば
少しだけ横へ動けばそれが何者なのかが見える。一体誰だ、何処のオンナだと回り込めば目に飛び込んだ光景に今度こそ心臓も息も、時すらも止まった。
白金の美しい髪と翡翠の瞳の見たこともない人だった。それはまさにあってはならない美しさ。
その膝に頭を預け、穏やかに、見たこともない優しげな顔で、うとうとと微睡むわたくしの運命の愛しい人。静かに歌っているのはその人で、優しく穏やかに彼の眠りを守る姿。
それを見て 絶望 した。
その美しい光景はわたくしを完膚なきまでに叩きのめしたのだ。
それは完全な、そこにはそうあるべきな光景だった。別の何か異物が紛れ込んでいい場所ではなく、今の葉や香でまみれ、汚れた自分が割り入って許される光景ではなかった。
なんなのだろう、誰なのだろう。一体誰がこの場所へ引き入れたの…。
声は出ないし、動くこともできない。運命の人だったのに、わたくしのやっと巡り合えた運命だったのに。
今、それが完全なる幻でそう許されるのは目の前にいるあの麗人だけだと絶望と共に理解してしまった。
悔しさも嫉妬もなにも浮かばなかった。
ただただ真実を知り、理解させられたのだけがわかった。
「…そのまま立ち去って」
綺麗な不思議な音色を邪魔しないような優しげな声、でも抗えない強い圧を滲ませた…
「この子の
「……ッぁ…」愕然と立ち尽くし、幻想のような二人の姿に打ちのめされた。わたくしは何も言う事も叶わず、ただどうにもならない現実と共に静かに足を引きずるようにしてその場を立ち去る。
ほんのひと時、わたくしは現実からこぼれ落ちていたのかもしれない。
「そう言えば、彼女はなんて名でしたか…」
ふむ、と思い巡らすも一度も紹介も挨拶もされていないことに気づく。『多分』宰相のご令嬢のどちらかだろう。確か兄一人、下に二人の娘だったかと思う。
「知らん」
膝の上で微睡む彼がごろりと甘えるように腰に手を回して面倒くさそうに身体をよじる。ふわりと風に揺れる銀髪に気づいて少し笑ってしまった。
「何です?力も使ってないのに、可愛いですね」
「たまには
自分が珍しく本来の身体で甘やかしたからだろう、すぐに機嫌が良くなったのは感じていたが思いの外、だったらしい。
それを見て何故か溜飲が下がったのを感じ、自分でも
時々はこうして睦み合うのも悪くない。
いや、もしかしたら本来それでいいのでは?
アッシュがごそりと懐から探り出した封書を煩わしそうにその辺に投げ捨てた。
「こら、ゴミを投げ捨てるなん、…ん」
「今は俺を甘やかせ」
引き寄せられて言葉を奪われて、吐息のわかる距離で囁かれるのに苦笑する。これは本格的にご機嫌をとらなければならないようだ。
投げ捨てられた封書には『アリッサ・カロリーナ・ブラフォード』と書かれていた。
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