第一章 我輩と、鏡の中の見知らぬ乙女
…むう。どうやら我輩は、とんだところで道草を食ってしまったらしい。
呟いた言葉は、自分のものとは思えぬほど高く、か細く響いた。喉に奇妙な違和感がまとわりつく。一度咳払いをしてみるが、こびりついた違和感は取れない。まるで、調律の狂ったヴァイオリンを無理に鳴らしたかのような、甲高く、か細い音色。我が輩の、長年の喫煙で燻された、低く落ち着いた声とは似ても似つかぬ。
(何だ、この声は…? 風邪でも引いたか…いや、それにしても…)
状況を把握せねばなるまい。長年、胃弱と付き合ってきた経験から、焦燥が何一つ良い結果を生まぬことだけは熟知している。冷静になれ、我輩。まずは周囲の確認からだ。
そう思考し、ベッドから身を起こそうとして、第一の異変に気づいた。
軽い。身体が、羽のように軽いのだ。シーツを押し返す手のひらは小さく、骨ばった我輩のそれとはまるで違う。長年我輩を悩ませてきた腹部の鈍痛も、両肩に石のようにのしかかっていた慢性の疲労感も綺麗さっぱり消え失せている。その爽快感に一瞬安堵しかけたが、すぐに、まるで他人の衣服を借りたような心もとなさが全身を支配した。この身体は、我輩のものではない。その直感が、警鐘のように頭の奥で鳴り響く。
おそるおそる布団から脚を出す。日に焼けておらぬ、滑らかな陶器のような白い脚だ。無駄な肉が一切ついていない、華奢なふくらはぎ。我輩の、武骨で節くれだった短足とは似ても似つかぬ。病衣の裾から覗くその脚に、ひやりと病室の空気が触れる。その感覚すら、あまりに生々しく、そして異質だった。
ふらつく足取りで壁に手をつき、どうにか身体を支える。病室の隅に設えられた、真っ白な洗面台へと、一歩、また一歩と進んだ。床のタイルが、素足に冷たい。
そして、鏡を覗き込んだ我輩は、言葉を失った。
そこにいたのは、全く見知らぬ少女であった。
整えられた眉。長い睫毛に縁取られた、不安げに揺れる大きな双眸。血色の良い、柔らかな唇。肩まで伸びた艶やかな黒髪は、ところどころに寝癖がついてあちこちへ跳ねている。我輩の記憶にある、立派な口髭を蓄えた、神経質で厳格な己の顔とは、何一つ共通点が見いだせぬ。
(誰だ…? この小娘は…)
あまりのことに思考が停止する。これはかのイーハトーブの文士が描くような、奇妙な幻想小説の一節か。あるいは、ロンドンで体験した神経衰弱が見せる、新たな幻覚か。
「……誰だ、君は」
絞り出した声は、やはり甲高い少女のものだった。鏡の中の乙女もまた、同じように唇をか弱く動かした。これは、我輩だというのか。この、儚げで、今にも泣き出しそうな少女が。
信じられぬ。信じたくない。無意識に頬をつねっていた。想像していたよりもずっと細い指先が、驚くほど柔らかな皮膚を捉える。
「――痛い」
小さく、しかし確かな痛みが走った。夢ではない。この痛みは、紛れもない現実だ。
その事実が、脳天を槌で殴られたかのように我輩を打ちのめした。ぐらり、と視界が揺れる。後ずさり、壁に背中をもたせ、ずるずるとその場に座り込む。冷たい壁の感触が、かえって悪夢を際立たせる。
一体、何がどうなっている。胃の中に熱い鉛を流し込まれたような、あの不快な感覚がこみ上げてくる。そうだ、これは知っている。帝国大学の英文学講師の職を辞し、朝日新聞社へ入社した頃の、先の見えぬ不安。違う。もっと深い、根源的な恐怖。そうだ、これはロンドンで感じた、あの途方もない孤独と不安だ。東洋から来た、ちっぽけな我輩が、西洋という巨大な文明の前にただ一人打ち捨てられた、あの感覚。それが百年以上の時を超えて、再び我輩の精神を蝕もうとしていた。
その時だった。
がらり、と無遠慮に病室のドアが開き、息を切らせて一人の婦人が飛び込んできた。四十代ほどの、目元に疲労の色が濃いが、安堵に顔を輝かせている婦人だった。
「栞! よかった、目が覚めたのね! 本当に、よかった…!」
婦人はそう叫ぶなり、座り込んでいる我輩に駆け寄り、その細い身体を力強く抱きしめた。ふわりと、陽だまりのような、甘い石鹸の匂いがした。慣れぬ他人のぬくもりに、思わず身体がこわばる。
「な、何をするか、無礼であるぞ! 馴れ馴れしいにも程がある!」
反射的に突き放してしまった。婦人は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でこちらを見つめている。その大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいくのが見えた。しまった、と心の中で舌打ちするが、もう遅い。
「し、栞…? どうしたの、急に…お母さんのこと、わからない…?」
お母さん…? しおり…?
その言葉が、混乱した頭の中で不気味に反響した。なるほど。どうやらこの婦人は、この少女の身体の母親らしい。そして『栞』というのが、この器の名であるか。厄介なことになった。極めて厄介だ。我輩は、夏目金之助であるぞ。漱石と号す、しがない作家だ。栞などという、可憐な名ではない。
婦人は、我輩が事故の衝撃で記憶をなくしているのだと解釈したようだった。その方が都合が良い。
「ごめんなさい、怖がらせて。すぐに先生を呼んでくるからね。大丈夫、大丈夫よ…」
自分に言い聞かせるように呟き、婦人は慌ただしく病室を出ていった。
一人残された部屋で、我輩は再び立ち上がった。今度は、先ほどよりもしっかりとした足取りで、窓辺へ向かう。
窓の外に広がるのは、全く見知らぬ景色だった。我輩の知る、瓦屋根の連なる東京ではない。天を突くような、奇妙な形の硝子と鉄の建築物が林立し、その谷間を、馬の姿はなく、色とりどりの鉄の箱が恐るべき速さで道を埋め尽くしている。けたたましい広告の音楽と、喧騒。ここは、我輩の知る日本ではない。まるで、H・G・ウェルズの描いた未来世界のようだ。
やがて戻ってきた婦人――今日子と名乗った――は、心配そうに我輩の顔を覗き込みながら、枕元にあった「すまあとふぉん」なる手のひら大の光る板を操作し始めた。指先一つで、板の上に色鮮やかな映像が浮かび上がる。魔法の道具にしか見えぬ。
「今は、西暦何年だね」
我輩の問いに、今日子はきょとんとした顔で、その板から顔を上げた。
「何言ってるの、栞。今は2025年よ。令和七年」
にせんにじゅうごねん。れいわ。
頭の中で、その数字を反芻する。我輩が死んだのは、大正五年、西暦でいえば1916年のはずだ。つまり、百年と九年の時が流れている…?
「…はは」
乾いた笑いが漏れた。もはや、驚きを通り越して、滑稽ですらある。則天去私、則天去私と心で唱えてはみるものの、この現実をどう天に任せろというのか。我輩は死んだのだ。胃潰瘍で苦しみ抜いた末に。骨となり、雑司ヶ谷の土に還ったはず。ならば、今ここに在り、こうして思考しているこの意識は、一体何なのだ。成仏できずに彷徨う浮遊霊か、それとも、悪趣味な神の戯れか。
ふと、事故の瞬間の光景が、脳裏に閃光のように蘇る。
横断歩道。けたたましい警笛。そして、目の前を悠然と横切った、一匹の黒猫。全てを見透かすような、爛々と輝く金色の瞳。
(あの猫…)
あれは、ただの畜生ではあるまい。あの猫が、我輩をこの時代へ、この少女の身体へと引きずり込んだに違いない。そうとしか考えられぬ。
嘆いていても始まらぬ。憤っていても仕方がない。この身体が動く以上、腹も減るだろうし、眠りもするのだろう。ならば、まずは知らねばなるまい。この奇ッ怪な時代を。この『夏目 栞』という少女の人生を。そして、我輩がなぜ、今、ここにいるのかを。
「…母上」
我輩は、目の前の婦人に向き直り、できるだけ穏やかな、この少女の声に馴染むような声色を作って言った。
「どうやら我輩…いえ、わたくしは、記憶が少しばかり混乱しているようです。ご心配をおかけしました」
「まあ、栞! よかった…! 少しでも思い出してくれたのね!」
安堵の表情を浮かべる今日子を見て、我輩は内心、深くため息をついた。この婦人の純粋な愛情が、今はひどく重い。
かくして、我輩の、二度目の人生が始まった。
夏目漱石としての記憶と、この時代への途方もない違和感を胸に秘め、夏目栞という十六歳の少女の役を、ひとまず是が非でも演じきらねばならぬ、数奇な舞台の幕が上がったのである。
第二章へ続く
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