五章 神問い(4)

 翌朝、ホテルの朝食バイキングに行くと、蛇ノ井がみどりちゃんとさっぱりした顔でコーヒーを啜っていた。


「おそよう。君ったら、若人のくせに遅起きだねえ」


 時計盤を指して、嫌味たらしく声をかけてきた蛇ノ井を睨み、晴は納豆やスクランブルエッグを載せたトレイを置いた。「酔いはさめたんですか、御寮官」と少し刺々しい声で尋ねる。


「あれえ、きのうお酒なんて飲んでましたっけ、わたし」

「飲んでたじゃねーか、地酒を三合、ビールとワインもちゃんぽんで」


 蛇ノ井の携帯から呼び出しの電話が入ったのが今日の午前一時。指定された居酒屋に駆けつければ、すっかり出来上がった御寮官をこの土地の守役に引き渡されるという始末だ。そうだったっけ、と首を傾げる蛇ノ井は悪びれもしない。


「ま、その土地のものを腹に入れるのは、挨拶みたいなもんだからさ。君もわたしには遠慮せずに、ようく咀嚼して朝ごはんをいただきなさいな」


 七時前ということもあってラウンジにひとはまばらだったが、いかにも堅気でない蛇ノ井と普通の高校生然した晴の組み合わせは目立つ。ちらちらと向けられる好奇の目に首をすくめて、晴は味噌汁を啜った。


「今日はまずどこへ行くんだ?」

「うーん、手っ取り早いのは出雲大社かねえ。晴くん、朝食を終えたらタクシー呼んでおいて」

「わかった」


 フロントで頼んだタクシーは、きっかり十分後に玄関前のロータリーで止まった。ホテルから出雲大社までは十五分ほど。まだ店の開いていない参道を走って大社前で下ろしてもらう。秋空の下、そびえ立つ大鳥居は壮観だ。


「これから七日間、この土地には国中の神さまが集まって『神議り』が催されます。はい、翅ちゃん。神議りで話し合われていることはなーんだ?」

「はーい、ラブとかラブとかラブです!」


 胸を張って翅が答える。そのとおり、と蛇ノ井がうなずいた。


「男女の縁結びは昔から皆の関心事だからねえ。ほかにも、人生の諸事全般、農業の収穫についても話し合われてきたというよ。今はさながら、この国の行く末かねえ。集まった神々が宿泊する十九社では、連日饗応のための祭りが催されるけれど、一般人が参列することはできない。実際の神議りが行われる上の宮はもちろんだあね」


 話しながら、蛇ノ井は石段をのぼろうとした晴のフードを引っ張った。晴たちが用があるのは有名な出雲大社ではなく、神議りの行われている上の宮のほうなのだという。


「でも、参拝はできないんだろ?」

「一般人はね。御寮官とあらば、もちろんちがいますよ」


 稲佐浜の方角にしばらく歩くと、住宅街のただなかに「上の宮」と書かれた小さな敷地が現れる。大社に比べると、一戸建ての住宅がひとつふたつやっと立つくらいの広さだ。木造の社殿があり、拝殿前のテントには神職らしき男性が座っている。


「どうもー。神御寮の蛇ノ井です」


 蛇ノ井の軽薄な呼びかけに一瞬不審そうな目を向けるものの、相手はすぐにはっとした様子で立ち上がった。


「これは蛇ノ井御寮官。本日はどうされました?」

「今日からこの地で神議りが行われているだろう。ちぃとわたしらも混ぜてもらえないかと思ってね」


 脱いだインバネスをみどりちゃんに渡して、蛇ノ井が本殿の前に立つ。一見すれば、簡素な掘っ立て小屋というかんじだ。言い伝えによれば、今この宮のうちでは、やおろずの神が神議りの真っ最中であるはずだ。


「さて、〈さにわ〉の準備は万端かい? 翅ちゃん。みどりちゃんも」


 蛇ノ井はおもむろにこちらを振り返った。両開きの扉を示して、翅を手招きする。


「扉はわたしが開く。ただ通常の神問いは、長期間のお籠りや禊ぎなどの準備をした上で臨む大変手間と時間がかかる行為だ。今回はその手順をすっ飛ばして、無理やりわたしの身体に降ろす。暴発する可能性もあるから、万一のときは晴くん。君がわたしの頭を殴って追い出しなさい」

「殴るって、」

「じゃあ、扉を開けますよ。晴くんはちょっと離れてなさいな」

「おい、蛇ノ井!」


 そのときには蛇ノ井は本殿の扉を開いてしまっていた。突風が吹き抜ける。翅のミルクティ色のコートや長い黒髪がふわりと巻き上げられた。この風は「こちら」だけでなく、「あちら」側にも吹いているらしい。

 翅の手を離れないようにつかんで、晴は薄く目を開けた。そこに集っているはずの神々の姿が晴には見えない。彼らの姿は、あやかしよりもずっと混じりけのないもので、普通の守役にも姿を見たり、声を聞ける者はほとんどいないのだという。

 蛇ノ井は片耳にじゃらじゃらとつけたピアスを揺らしてサングラスを取った。


「かしこみかしこみて、みなをとう」


 とん・しゃん・たん

 とん! しゃん! たん!


「〈むつのわだつみのりゅうずのかみ〉」


 稲妻が目の前に落ちた。少なくとも、晴にはそう感じられた。

 轟音とまばゆい光で背後に吹っ飛ばされる。いつの間にか上宮の上空を暗雲が覆っていた。先ほどまでテントの下にいたはずの神職の姿が見えない。まるで異界に引きずり込まれたかのようだ。


 とん・しゃん・たん

 とん・しゃん・たん


 どこからか絶え間なく響く鈴鳴りに、翅はじっと耳を傾けている。

 色素の薄い双眸は、そこに立つはずの蛇ノ井に向けられていた。晴の目には蛇ノ井そのものがまばゆい光源のように見え、表情はおろか、輪郭すら定かではない。神降ろしは成功したのか。託宣は今発せられているのか。

 見つめ続けることができなくなって、晴は頭を振った。


「だめ、音が大きすぎて……とらえきれない」


 両耳を押さえてみどりちゃんが呟くのが聞こえた。


 とん・しゃん・たん

 とん! しゃん! たん!


 翅の耳から、つ、と血が伝った。両目からみるみる涙があふれだす。それでも、玻璃のような眸はじっと無感情に光源の向こう側を見ている。遠い目。晴なんてたぶん見えてない。声だってきっと届かない。そういう顔だ。


「はね」


 晴は翅を引き寄せて耳を覆った。何かを深く考えたわけではない。みどりちゃんが大きな音、と言っていたから、遮るものになればよいくらいの連想はしたのかもしれない。左手でしか満足にその役割は果たせなかったけれど、直後、ふわりと瞬いた翅の眸が焦点を結んだ。


「……ああ、」


 ぼんやり呟いた翅が表情を歪める。その瞬間の翅の表情はたぶん、晴しか見ていなかっただろう。虚ろな目を翅はした。


「おはなし、聞けました」


 あれ、と呟いた翅が鼻を押さえる。ぼたっとぎょっとする量の鼻血が伝い落ちた。


「翅!」


 かがんでしまった翅のかたわらに膝をついて、背に手をあてる。


「平気か」

「ん……。それより、蛇ノ井さんにもうおしまいって、言って、」


 光源を指差して翅が告げる。狂ったような鈴の音は鳴り続けている。こちらの声が聞こえていないのか、蛇ノ井から応答はない。


「おい、マーブル頭。マーブル頭ってば」


 蛇ノ井が正気を取り戻さない限り、この空間からは出られないのではないか。嫌な予感がよぎるが、目の前の光源は明るさを増すばかりだ。迷ってから、晴は肩にかけたリュックを引き寄せる。ええい、もう、知るか。


「殴れって言ったのおまえだからな!」


 光源に向かって晴はリュックを振り下ろした。とたんに風が止んで、本殿の扉が反対に閉まる。そのときには上宮を覆っていたはずの暗雲も稲妻も、すべて消え去っていた。晴の前には、リュックをぶつけられた蛇ノ井の姿。今さら異変に気付いたらしい神職が駆けつけて、「何をなさっておいでですか」と語気を荒げる。


「いえー、いえいえ。もうおしまいです。失礼しましたー」


 地面に落ちたサングラスを拾い上げ、蛇ノ井が手を振った。わずかによろめいたのをみどりちゃんが支える。


「ほら、晴くんも」

「はね……?」


 口元を押さえた翅が簡単に自分をすり抜けてしまって、晴は愕然とした。何よりもすり抜けられるのが嫌いな翅は、めったにこんな真似はしない。心配になってのぞきこむと、ふへへへ、と翅が気の抜けた顔で微笑んだ。


「はね、ちゃんと龍の神さまとおはなしできましたよ。すごいでしょお。はるちゃん、褒めて」

「……すごくなんかねえよ」


 鼻血と涙といろんなものでひどいことになっている翅の顔を晴は左手で拭う。目を細めただけで、翅はしばらく子どものようにおとなしくされるがままになっていた。


「ごめんね? はるちゃん」

「何が」

「お手てがよごれちゃったから……」


 ぼんやり呟いて、翅は目を伏せた。俯きがちの顔に黒髪が紗のようにかかる。どうしてだろう。そのときの翅がひどく果敢なく見えて、晴は息を詰まらせた。やがて自分の足で立ち上がった翅が口を開く。


「常野ですよ、蛇ノ井さん。次の満月の夜。〈てふてふ〉は常野に現れます」

「――よくやった」


 珍しく心のこもった称賛を口にして、蛇ノ井は翅の頭があるあたりの宙に手を置いた。晴が褒めなかったぶん、翅はうれしそうにかぶりに手を添える。


「そうと決まれば、Uターンだ。東京へ戻りますよ」


 待たせていたタクシーのドアをみどりちゃんが開く。きびすを返した蛇ノ井たちに続こうとして、晴は一度社殿を振り返った。格子から蝋燭が揺らめいているのが見えたけれど、やはり晴の目にはそれ以外の何のかたちも影も見いだせない。

 一度背を正すと深く礼をして、晴もタクシーの助手席のドアを開けた。

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