三章 あやかし探し

三章 あやかし探し(1)

『てふてふ沼に』


 あの日のことは今でも鮮明に思い出すことができる。


『てふてふ沼に翅ちゃんとおかあさんが――』 


 *


「はるちゃあん、すごいすごい、富士山! おっきい!」


 新幹線の窓に張り付いた翅が、目を丸くして子どものように歓声を上げる。晴は中学のとき、修学旅行で京都と奈良に行っていたから新幹線は二度目だったけれど、翅は乗ったことがないらしい。新横浜を出た直後の道のりでもいちいちビルだの塔だので騒いでいたが、外に茶畑や工場群が広がり出すと、窓にくっついて離れなくなった。


「富士山なんて、うちからでも見えるだろ」

「でも大きさがちがうもん。おーっきいねえ」


 窓から少し離れ、感嘆の息をついた翅が「あっ」と呟く。急に立ち上がった翅と入れ違いで、よその車両から移ってきたサラリーマン風の男が晴の横で立ち止まった。


「すいません、隣あいてますか?」

「え、ああ……。あいて、ます」


 京都行のために晴が取ったのは自由席だ。翅が席を去ってしまった以上、そう答えるしかなかったけれど、内心は複雑だ。翅は極端といっていいほど、晴たち以外の人間を嫌う。近くにいるだけで、そわそわと落ち着かなくなって、しまいには蒼白な顔で俯いてしまう。そういう翅を知っているから、晴も無理に引き止めることができない。


「翅、外見てるね」


曖昧に微笑むと、翅は車両の連結部分のほうへサンダルを返した。大声で呼び止めるわけでにもいかず、晴は自動ドアをすり抜ける翅の背中を目で追う。頬杖をついて、再びのどかな茶畑に戻った車窓に目を移したあと、晴は息をついた。


 ホルダーに置いていたペットボトルを取ると、足元のデイバックを肩にかけて立ち上がる。自動ドアから出ると、車両連結部分に設けられた窓の前に、ぽつんと翅は立っていた。伏せがちの睫毛の翳りには、自分の知らない種類の静寂が宿っていて、無性に晴を不安な気分にさせる。昏い。昏い表情を翅はときどき、影が忍びこむかのように見せるときがある。


「あれ、はるちゃん」


 声をかけるのをへんにためらっているうちに、翅のほうが顔を上げた。


「どうしたの? 荷物……もしかして席立っちゃったの?」

「あー、うん」


 ひとの気配に敏感な翅は、晴を見つけるのも早い。いつも翅のほうが先に気付いて、はるちゃん、と呼ぶ。なので、その前に翅がどんな顔をしているかだとか、晴がいないときに翅がどうしているかは、晴にはなかなかわからないことだった。なんとなく気まずい気分になってデイバックを足元に下ろした晴に、ふへへへっと翅は口に両手をあてて笑った。


「はるちゃん、さみしがりやさんだねえ。翅がいないと嫌? お手て繋ぐ?」

「別に俺が立ってたかっただけ!」

「ふーん?」


 いつもの調子を取り戻して言い返すと、翅は小さく微笑んで勝手に手を繋いだ。たくさん煙突があるねえ、と呟く翅の横で、晴は腕時計に目を落とした。すでに二時を回っている。東京都に属するはずなのに、晴が住む常野は致命的に交通の便が悪いのだ。


 京都で起こっている「連続神隠し事件」の調査。神御寮からの依頼を受けて、晴は補修を済ませると、翅とともに常野の地を発った。目的は事件の背後にあやかしの干渉がないかを見極めること。そこまでは翅にも話していたが、常野守の査定もかねていることは照にしか言っていない。


『磐くんの心配性が出たなあ』


 晴から話を聞いた照は、ビールを飲みながら、ううんと唸った。常野の家は晴の死んだ母親のほうの家系で、磐は別の土地の守役の三男坊だったのが母を見染めて婿入りしたのだという。なので、照と磐に血のつながりはない。


『相談なしに、おまえに守役を継がせたのは俺だからな。こりゃあ怒ってんなあ』

『じいちゃんのせいじゃない。悪いのはあいつだろ。五年も家に帰ってこないで、じいちゃんに家のことぜんぶ押し付けて……。こんなことなければ、じいちゃんも』

『はーる』


 じいちゃんも倒れることなんかなかったのに。呟きかけた晴を柔らかく照が制した。


『磐くんには磐くんの事情があるのさ。わかってやれとは言わんが……、おまえじいちゃんが大好きだからなあ』

『う、うるさいな。どうせじいちゃんっ子だよ』


 晴の母親は空を産んだあと、すぐに亡くなっている。五年前の事件が起きる前から、御寮官の仕事で家を空けがちにしていた磐に代わり、空と晴を育ててくれたのは祖父の照だ。


『二週間でなるべく帰るようにするから。おかずは冷凍庫にもあるからな。張り切って作ってこけるなよ』


 くしゃくしゃと頭をかき回してきた照の手を押しのけ、晴は作り置いたおかずの場所やごはんの炊き方などを記したメモを渡す。


『こっちのことは心配するな』


 晴の心中を読み取ったかのように、照は口端を上げた。


『とっとと査定クリアしてこい。俺は孫だからって、おまえに鏡を譲ったんじゃない。常野守として女神に諮った結果なのだから』


(俺も信じてる)


 見えないし、聞こえない守役だけども。


(俺にもできることがあるって、信じてるよ)


 名古屋を通過して京都駅にたどりつく頃には日が傾き始めていた。それでも東京と変わらない蒸し暑さが押し寄せ、晴は辟易とした顔をする。


「ここからはどこへ行くの?」

「ええと、みどりちゃんの話だと確か迎えが……」


 もらったメモを見ながら、指定された改札を出る。


「おまえが常野守?」


 すかさず声をかけられる。横からデイバックをつかんだのは、小学年くらいの子どもだった。グレーのTシャツに七分丈のパンツ。全体的にひょろ長い印象を受けたけれど、眼光の鋭さだけがふつうの小学生とちがう。


「常野晴は俺だけど」

「おやじからおまえの迎えを頼まれた。西宮にしみやよる。この地区を守る守役――西宮家の跡取りや。わかったら、はようついてこい」


 夜とは初対面だけども、小学生とは思えない物言いだ。さっそく内弁慶ぶりを発揮して、翅は借りてきた猫のように晴の背中にくっついている。はぐれてしまわないように翅の右手をつかみ、晴は人ごみを早足で進む少年を追った。烏丸線と書かれた電車に乗り換えて烏丸御池駅へ。


「とりまる……」

「からすまおいけや」


 すかさず律儀な訂正が入った。からすまおいけ、と口内で繰り返し、夜に置いていかれないうちに改札を出る。階段をのぼると、夏の強い日差しが射し込んできた。昔ながらの街並みというよりは、整然とした交差点やビルが広がっている。


「京都って都会なんだ……」

「おまえ、京都市の人口なんやと思っとる? 百五十万や」


 憮然と夜が言った。それでも、小さな通りを曲がってしばらく歩くと、閑静な住宅街に様相が変わる。家と家の間にこじんまりと「西宮神社」が現れた。正面の扉はすでに締め切られていたが、夜は裏口のほうの閂を外して中に入る。

 比較的小づくりの拝殿のそばにたたずむのは、沙羅の大樹だ。奥に明かりが滲んだ擦り硝子が見えて、「ばあちゃん」と夜が縁側から声をかけた。


「夜ちゃん、おかえり」


 半分開いた網戸から顔を出したのは、日に焼けた顔をしわくちゃにしたばあちゃんだ。昔ながらの割烹着をかけたばあちゃんは、こちらに気付くと、麦茶を抱えたまま会釈をした。


「こんにちは。息子から話は聞いとるよ。今日は遠路はるばるご苦労さん」

「常野晴です。お世話になります」

「そん歳でひとりでえらいねえ。まあ、中へ入りなさい。荷物重いやろ」


 急に押し掛けたにもかかわらず、ばあちゃんは快く玄関のほうを示す。夜は靴を脱いでいて、はやく入れと言わんばかりだ。


「俺とばあちゃん、守役の仕事はよう知らんけど、おやじが面倒みてくれ言うから、宿と飯くらいは提供させてもらうわ」

「おまえのおやじって……、西宮守の?」

「そう。交通事故にあってもうてな。今入院中。まだうまく歩けなくて、こんなときにすまんって詫びておったわ。あ、こっちが部屋。風呂は順番で使うてな。タオルは?」

「持ってきてる」

「洗濯物とか一緒に洗うから、そこの籠に出しておいて」


 てきぱきと指示を出し、夜は襖を開いた。普段は使われていない部屋らしく、机がひとつ置いてある以外はがらんとしている。風を通すためにか、網戸を開けると、夜は所在なく廊下のあたりに立っている翅を振り返った。


「おまえは……ええとなんや、名前」

「……翅」

「翅。こいつと別の部屋がいいなら、隣を使え。あいとるから」

「翅にも、部屋を貸してくれるの?」

「当たり前だろ。飯は食いたいなら勝手に来い。それと」


 そこでわずかに表情を変えて、夜は晴を睨んだ。


「俺とちがってばあちゃんは『見えないひと』だから。そこだけ気ぃつけてな」


 指を突きつけて命じると、夜はきびすを返した。ふわあ、と夜の姿を見送った翅が小さく息をつく。


「夜ちゃん、しっかりさんだねえ」


 どうやら感心しているらしい。とりあえず初対面の人間は片端から警戒する翅にはめずらしいことだ。デイバックを下ろした晴に、「だって、翅にもお部屋を貸してくれたし」と電気をつけた部屋を見回す。


「翅の名前を聞いてくれたしね」

「まあな」


 ちょっと上から目線なところもあるけれど、いい奴なんだろうなということはこの短い間にわかった。ばあちゃんもやさしそうだ。ホテルを取ると馬鹿高くなるから、西宮守の申し出をありがたく受けてしまったけれど、内心は少し緊張をしていたのでほっとする。スマホを充電器につけると、晴は翅を振り返った。


「とりあえず俺、ごはんもらってくるや」

「うん。翅は……ここにいるね」


 翅はなんだか疲れた様子で目をこすった。長い髪房が翅の細い肩を滑り落ちる。俯きがちになったかぶりに右手を伸ばしかけ、晴は別のことに気付いて手を止めた。まぎらわせるように襖を引いていると、「はるちゃん」と翅が顔を上げる。


「神隠し、がんばって調査しようね」


 こぶしを伸ばした幼馴染に少し眦を緩めて、ん、と左のこぶしを合わせる。翅の手はつめたくて、夏であるのに雪のようだった。

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