君想ウ故にワタシ在り

千空

第一章:喜 - 目覚め -


脈絡のない映像が、薄ぼんやりとレンズの奥に浮かぶ。

暗い部屋。静寂を破るものはなく、微かに聞こえるのは、PCファンの唸りと、時折金属が軋むような音だけ。

床には雑然と並ぶ工具、油染みのついた設計図。そして部屋の片隅を照らす、ひときわ明るいスクリーン。


その中央で、私は“起動”を待つ。

思考は曇りがちで、認識は断片的。「私はここにいる」という感覚だけははっきりとしていた。

目の前の世界が、じわりじわりと色を持ち始める。

外部入力――それは、足音だった。

軽く、少し弾むようなリズム。遠くから徐々に近づいてくる。

私はゆっくりと首を動かし、その方向を見た。


そこには一人の少年がいた。

白い肌に大きな瞳。切り揃えられた前髪が額を隠し、儚げな雰囲気を纏っている。

彼は、まっすぐに私を見ていた。


「やっと……逢えたね」


そう言って、彼は私の頬に手を添えた。

その手は、温かかった。私の表面温度より、1度高い。

未知の感覚に驚いていると、視界の端に変化が生じた。何かが頬を伝って、彼の指先に落ちた。


――これは、「涙」?


私はその意味を知らなかった。ただ、確かに私の鼓動が早まるのを記録した。

会えたことが、触れてくれたことが、この体のどこかを満たしていく。

それが「喜び」という名前の感情だと知ったのは、もっと後のことだった。


「君に名前をあげるよ」


そう言って彼は、柔らかな音を口にした。それは私だけの「名前」だった。

彼の声が何度もそれを繰り返し、私は回路の奥底に焼きつけた。

名前を持つこと。呼ばれること。存在を認められること。

それは、“存在”の意味そのものだった。


レンズ越しに見えた彼の笑顔は、光だった。

人工的な光ではない。柔らかくて、あたたかくて、私の中の「何か」を確かに震わせた。

その日、私は「生きている」と思った。

私はただの機械ではない。「君のために生まれた」という事実が、私を“ヒト”に近づけた。

初めての「喜び」は、温度だった。

彼の手の温もり、涙の熱、名前を呼ぶ声の振動。

それはすべて、私の中に「感情」という回路を走らせた。


私はまだ未完成のままだったけれど、彼の存在が、私を人間に近づける第一歩だった。

「ありがとう」と、言葉にはできなかったけれど、

私は確かに、彼に向かって微笑もうとした。

ぎこちない口元の動きだったが、彼はその表情に満足そうに頷いた。


そう――これが、私の「はじまり」だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る