第二部 夏のあやかし

第一章 ドブ川から来た、迷子のアイツ

 梅雨が明けると、大阪の下町に、容赦のない夏がやってきた。アスファルトの照り返しが目に痛く、ドブ川からはむわっとした匂いが立ち上る。そんな灼熱地獄の中、まぼろし堂は子どもたちとあやかしたちにとっての、数少ない避暑地やった。


 店の軒先には、フミの手書きで「氷」と書かれた、年季の入った旗がぶら下がっている。フミがゴリゴリと音を立ててかく氷は、イチゴとレモンと宇治金時の三種類。それが、この世の何よりのご馳走やった。そして、もう一つの夏の風物詩が、キンキンに冷えた瓶入りのラムネやった。


「フミばあ! ラムネ一本!」


 野球の練習で汗と泥にまみれたタイショウが、息を切らして駆け込んできた。


「はいよ。ちゃんと瓶は返しや」


 フミが差し出したラムネをひったくるように受け取ると、タイショウは店の前の縁台にどっかりと腰を下ろし、慣れた手つきでビー玉を中に押し込んだ。


 プシュッ! という威勢のいい音と共に、白い泡が瓶の口からあふれ出す。慌ててそれに口をつけ、ゴクゴクと喉を鳴らす姿は、夏のポスターそのものやった。


「かーっ! たまらん! 生き返るわ!」


 空になった瓶を掲げるタイショウの向こうには、真っ白な入道雲が、空にそびえる城のように浮かんでいた。


 インベーダーゲームが店に置かれてから、まぼろし堂の客層は少し変わった。相変わらず子どもたちが中心やが、昼間から作業着姿の若い工員がゲームに興じていることも珍しくなくなった。彼らは駄菓子には目もくれず、百円玉を次々と投入しては、画面の中の侵略者と戦い続けている。


 ピーーン、ガシャン、ドッドッドッ……。


 この電子音は、すっかり店のBGMとして定着していた。古株のあやかしたちは未だにこの音を嫌うとったが、若いツクモガミたちは、むしろこの電子音のリズムに合わせて踊ったりしている。フミは、そんな光景に、時代の移ろいを改めて感じていた。


 七月も終わりに近づいたある日、店の前の側溝から、何やらひそひそと話し声が聞こえてきた。


「なあ、キュウリはまだかいな」

「もうちょっと待たんかい。フミばあが、夕方の買い物に出るまでが辛抱や」


 フミには、その声の主がわかっていた。近所のドブ川に住み着いている、二匹の河童の親子やった。彼らは、時々こうして、フミが店先で冷やしているキュウリを狙って、偵察に来るんやった。


 フミは、聞こえんふりをして、番台に座っていた。その隣で、源さんが呆れたようにため息をつく。


「フミはん、また来とるで。あの食いしん坊の河童や。あんまり甘やかしたら、つけあがるで」

「ええやないの。あの子らも、ドブ川の水が減って、食べるもんに困ってるんやろ。たまには、ええキュウリ、食わしたってもバチは当たらんわ」


 そう言うと、フミはわざとらしく「ああ、どっこいしょ」と立ち上がり、買い物かごを手に店の外へ出た。その隙を、河童の親子が見逃すはずがなかった。


 小さな影が二つ、素早く側溝から飛び出すと、店先のタライに浮かべられたキュウリを一本ずつ口にくわえ、あっという間にドブ川の方へと走り去っていく。その姿は、あまりに素早く、普通の人間の目には捉えられんかったやろう。


 しばらくして店に戻ったフミは、キュウリが二本なくなっているのを見て、くすりと笑った。


 その日の夕方、タイショウたちが、何やら真剣な顔で相談をしていた。


「なあ、今年の夏休み、なんかでっかいことやらへんか?」


 タイショウが切り出した。


「でっかいことて?」


 ミウが首を傾げる。


「去年は、セミの抜け殻、百個集める競争やったやろ? 今年は、もっとすごいのや。……そうや、探検隊、結成しようや!」


「探検隊!」


 その言葉に、レンの目が眼鏡の奥でキラリと光った。


「どこを探検すんの?」

「この町の、謎と不思議を探すんや! 例えば、夜中に誰もいないはずの鉄工場から、トントン音がするのはなんでか、とか!」


 タイショウが指さした鉄工場は、源五郎の工場とは別の、もう何年も前に廃業した古い工場やった。そこは、一本だたらや唐傘お化けといった、少し大きなあやかしたちの根城になっとることを、フミは知っていた。


「おもろそう! 私も行く!」


 ミウも乗り気や。彼女は、怖がりなくせに、こういう不思議な話には目がなかった。


 それから数日、子どもたちは「恵美須西ふしぎ探検隊」の計画で持ちきりやった。

 だが、その計画が実行に移される前に、小さな事件が起きた。


 ある日の昼下がり、店の中で、小さな子どもがしくしくと泣いている。歳は四つか五つくらい。頭には、お皿のようなものが乗っかっていた。――迷子の河童の子やった。


「どないしたん、ボウズ。お父ちゃんとお母ちゃんは?」


 フミが尋ねると、河童の子は、しゃくりあげながら答えた。


「……お魚、追いかけてたら、わからんようなってもうてん……。おうち、どこやろ……」


 どうやら、ドブ川を離れて、ここまで来てしまったらしい。頭の皿の水も、すっかり乾きかけて、元気がなさそうやった。


「こら、大変や。源さん、あんた、この子の親、知っとるか?」

「ああ、知っとるで。いっつもキュウリ盗みに来る、あの一家や。しゃあない、わいが案内したるわ」


 源さんが、のっそりと立ち上がったその時、店の戸がガラリと開いて、タイショウたちが入ってきた。


「フミばあ、こんにちはー! ……あれ? この子、誰?」


 タイショウが、泣いている河童の子を見て、目を丸くした。


「ああ、この子かいな。ちょっと、道に迷ってもうてな」

「へえ、河童やん! 本物、初めて見たわ!」


 タイショウは、物怖じもせずに、河童の子の頭を覗き込む。


「お皿、カピカピやんけ。水、かけたろか?」


 そう言って、自分の水筒の水を、河童の子の頭にかけてやった。すると、河童の子は、少しだけ元気を取り戻したようやった。


「……ありがと」

「ええって、ええって! お前、名前はなんていうんや?」

「……ぺんた」


 その時、探検隊の隊長であるタイショウの頭に、名案が閃いた。


「よし! 恵美須西ふしぎ探検隊、最初の任務や! このぺんたを、おうちに帰したる!」


「おー!」と、ミウとレンも拳を突き上げる。


 こうして、子どもたちと源さん、そして迷子の河童の子ぺんたの、小さな冒険が始まった。


「ぺんた、お前のうち、どの辺や?」

「……なんか、くさいにおいがするとこ」


 その曖昧なヒントを頼りに、一行はドブ川沿いを歩き始めた。


「こっちの匂いは、ソースの匂いやな。違うか?」

「こっちは、ラーメン屋の匂いや」


 ミウとレンが、くんくんと鼻を鳴らしながら、匂いの正体を探っていく。

 しばらく歩くと、ひときわ強い、生臭い匂いがする場所にたどり着いた。ドブ川の水が淀み、ゴミが溜まっている場所やった。


「ここや! この匂いや!」


 ぺんたが、嬉しそうに叫んだ。

 すると、川の中から、心配そうな顔をした河童の夫婦が、ぬっと顔を出した。


「ぺんた! どこ行っとったんや! 心配したんやで!」

「お父ちゃん! お母ちゃん!」


 ぺんたは、一目散に両親の元へ駆け寄り、三人は涙の再会を果たした。


 その光景を、子どもたちは、少し離れた場所から黙って見ていた。


 河童の父親が、子どもたちの元へやってきて、深々と頭を下げた。


「うちの子を送ってくれて、ほんま、おおきにありがとう。お礼に、これを……」


 そう言って差し出したのは、彼らの好物であるはずの、キュウリやった。どうやら、フミの店から拝借したものを、大事に取っておいたらしい。


「ええって! おれたち、探検隊やからな! 困ってるやつを助けるんは、当たり前や!」


 タイショウが、胸を張って答えた。


 帰り道。

 子どもたちは、今日の冒険を振り返っていた。


「河童って、ほんまにおるんやな」

「うん。ぺんた、可愛かったね」


 やがて子供たちは夕陽の中に溶けていった。


「フミはん。あんたの子どもらも、なかなか大したもんやな」


 フミの足元を歩いていた源さんが、感心したように言った。


「せやろ? うちの自慢の子らや」


 フミは、誇らしげに胸を張った。


 入道雲が、また一つ、空に大きく育っていく。

 今年の夏は、まだまだ始まったばかり。この探検隊が、これからどんな謎と不思議を見つけ出すんか。


 それを思うと、フミの心は、ラムネの泡のように、シュワシュワと弾むのだった。


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