16.

 延期になっていた月上の歓迎会は、二日後の木曜日の夜に開かれることとなった。


 世間では翌日以降にまた、四連休を控えている。学校の敷地裏手にある文芸部御用達のたこ焼き屋で卓を囲み、いましばしのささやかな別れを惜しむように、おれたちはことさらに和気藹々と盛り上がった。


 小さな、古民家の趣を持つ店である。


 店内には二台のテーブルのほかはカウンターがあるだけで、そちらのほうの席はすでに近所のおじさんたちですべて埋まっている。皆、ビールのジョッキを片手に、早くも気持ちのよさそうな顔である。カウンターの奥にいるのは、つるりとしたスキンヘッドの大柄なおじいさんで、たこ入道とでも呼ぶべき店主の風貌はやや出来すぎなほどだった。


「月上さんは、ゴールデンウィークはどっか行ったりするのか?」


 おれの隣でジンジャーエールを豪快にあおった勇晴が尋ねる。


「いえ。今年は特に、そういった予定は立ててないです。たぶん、ずっと家でのんびりしてると思いますね」


 テーブルの向かいから答える月上は打って変わり、細切れのたこ焼きを上品に箸で口もとへ運んでいる。


「それに、片霧先輩に勧めていただいたラノベを読まなくちゃいけないので。わたしまだ読書にあまり慣れてないし、けっこうボリュームのある本でしたから」

「おォ……月上さんってば、すっかり立派な文芸部員になりやがって。うるうる」

「月上、あのラノベは文中の改行や空行が多いから、そんなに気張らなくても意外と早いテンポで読めると思うぞ」

「なにィ、おいこら史也てめぇ、おれのバイブルを内容が薄いみたく言うんじゃねぇ」


 じゃれ合うおれと勇晴を、月上はくすくす笑いながら眺めている。その屈託のない様子は、例の怪文書のことなどすっかり吹っ切れているように見える。


「ねぇ、前から聞いてみたかったんだけど、嶺奈ちゃんってどこに住んでるの?」


 月上の隣に座る斧谷先輩が、だし巻き卵を箸で割りながらのんびりと尋ねた。


「あ、それ、おれも気になってたんだ。月上さん、お屋敷はどの辺にあるんだ?」


 勇晴の反対隣で、声を弾ませる物集女部長。はなからお屋敷と決めてかかっている。まあ、気持ちは分かるが。


「わたしの家があるのは旗山台きやまだいです、部長」

「おォ、高級住宅街の代名詞だな。それで、どんなすごいお屋敷なんだ?」


 目をきらきら輝かせ、部長は卓上に身を乗り出す。意外とミーハーっぽい人だ。


「そんなすごくないですよ。ただ、近所の人たちに『御殿』って呼ばれてるくらいで」


 謙遜を装いつつも、月上の口調はどこか得意げだ。それにしても、「御殿」とは。


「わたしの家、丘の上に建ってるんです。敷地もまあまあ広くて、建物もいくつかの棟に別れてるから、ふもとから見るとちょっとした昔の外国のお城みたいなんですよ」


 おれたち四人とも呆気にとられ、しばらく言葉がない。彼女の住環境感覚についていける者は、この場には皆無のようだ。


「……も、もしかして、敷地内にプールやテニスコートがあるとか?」


 声を上擦らせ気味に尋ねたのは、勇晴だ。目がやや現金な光を帯びている。


「いえ、さすがにそういうのはありません。代わりにというか、剣道場ならありますけど」

「剣道場?」

「わたしが小学校に上がって剣道を始めたとき、祖父が林の中に建てたんです。まあ、わたしが剣道をやめてからはまったく使われてないんですけどね」

「…………」


 それは、プールやテニスコートなどといったある意味ありふれたものより、すごいのでは? というか、さらりとほかにもとんでもないワードが出てきた気がするが。


「な、なあ、月上さんがよかったら、今年の夏休みはその剣道場で合宿するのとかどうだ?」

「こら、だめよ陶くん。そんなお願いしたら、嶺奈ちゃんが困るじゃない」


 たしなめる斧谷先輩の、彼氏に対する呼び方がプライベート用らしきものになっているのは、食事会のムードに気が緩んだからか、はたまた彼女自身も動揺していたからか。


 月上はからっと笑って、


「いえ、かまいませんよ。別館の部屋を使えば、ここにいるメンバーの分の寝泊まりスペースくらいは確保できますし」


 自分で言い出しておいて物集女部長はぽかんとなっていたが、やがて胸の底から喜びが湧き上がってきたように、思いきり表情をほころばせた。


「ありがとう、月上さん! おォい牧野、きみほんといい仕事してくれたな。素晴らしい後輩たちに恵まれて、部長は幸せだよ。うるうる」


 まったく、ウチの部は涙もろい野郎ばかりで、暑苦しいことこのうえない。


 その後も歓迎会は大いに盛り上がり、閉会の時刻は当初の想定より一時間以上遅い、九時前になってしまった。


 店頭で解散の運びとなったあと、おれは月上とふたりで路地を歩いていた。


 迎えの車が乗りつける表の通りまで彼女を送る必要があったのだが、細い道を自転車を押しながら全員でぞろぞろというのはさすがにと、当人がほかのメンバーの同行を断ったのだ。


「今日はどうだった、月上。楽しめたか?」


 自転車を押しつつ、左隣の月上に尋ねるおれの口調は、緊張でやや上擦っていた。


 なんだか久々に、彼女とふたりきりだった。いやでも思い出すのはやはり、一昨日に部室で部長や勇晴と交わした会話である。


 落ち着いて考えてみれば、別に強いて仲の進展を保証されたわけではない。しかしこういうのは、視点を獲得させられることの影響がでかいのだ。


「はい、とても楽しかったです。高校でも素敵な居場所が得られたみたいで、嬉しいです」


 暗がりに、彼女の明るい笑顔が花開く。


 確かに初対面時に比べれば、その顔つきはずっと柔らかいものになっているようだ。


「そいつはよかった。おれも勧誘した甲斐がある」


 どうにも照れてしまい、ややぶっきらぼうに返事をして前を向く。そんなおれの横顔を彼女はじっと見つめているようだったが、ふいに、


「やっぱ似てる、かなあ?」

「……いや、いきなりかなあ? って聞かれても。おれがなにに似てると思うんだ?」

「わたしの恩人に、です」


 存外にきっぱりとした答えが返ってきて、おれは再び彼女を見やる。


「恩人?」

「はい。わたしはそのひとに、とても助けられたんです。いまのわたしがあるのは、そのひとのおかげ……あ、でも、そと見には全然違うんですよ。そのひとのほうが牧野先輩よりずっと、オシャレで知的で美人でした」

「さいで」


 散々な比べられようだが、彼女の言う「そのひと」がおれの思い浮かべているのと同じ人物なら、確かに反論の余地はないように思える。


「……でも、どうしてでしょう。牧野先輩を見てると、なんだか無性にそのひとのことを思い出すんです。牧野先輩ならきっと、そのひとみたいにどんな状況でもわたしを――って、なに言ってるんでしょうね、わたし。ワケ分かんない。いまのナシナシ」


 珍しく恥ずかしそうに両手をぱたぱた振る月上に苦笑しつつも、おれのなかでひとつの決心が頭をもたげてくる。


 打ち明けるならたぶん、いましかない。


「なあ、月上。そのひとって、もしかして」


 言いかけたとき、おれたちの頭上でかすかな音が聞こえた。


 ぎぎ、という不気味な金属のきしみ。


「――月上、離れろ!」


 ほとんど直感による行動だった。


 自転車のハンドルから離した両手を月上の肩にかけると、おれは彼女もろとも勢いよく背後の路上に身を投げ出した。


 がしゃんという自転車の倒れる派手な音に混じって、重い衝撃音が空気を震わせる。


 なにかが、空から降ってきた。


「大丈夫か、月上」


 おれは上体を起こし、前方の路面に目をやる。


 先ほどおれたちが踏み出そうとしていた地点に、真っ二つに割れたコンクリートのブロックが転がっていた。


 とっさに頭がかっと熱を帯び、おれは頭上を仰いだ。


「おい誰だ! なんてことしやがる!」


 反応はない。


 狭い路地を挟むビルはどちらも上階のほうが闇に消え、何階建てなのかも、屋上付近に誰かいるのかも、まったく分からなかった。


「あ、あ……」


 弱々しい声に視線を下ろすと、月上はまるで双眸を縫いつけられたかのように、無残に割れたコンクリートブロックを見つめていた。


「月上……」


 できるだけ穏やかに呼びかけるが、彼女は返事しようともしない。


 ぐずぐずとその場に留まってはいられなかった。


「月上、立てるか」


 おれが腕をつかんで引っ張ると、月上はなおも虚ろな顔つきながら、おとなしく腰を上げた。


 彼女の腕を持ったまま、もう片方の手で自転車を起こし、おれは足早に路地を歩き始める。


 実際のところ、表通りはすぐそこというところまで、おれたちは来ていた。


 しかし、自転車のライトを頼りにふたりきりで暗闇を進みながら、おれはまるで深い森の奥をさまよっているような心地だった。

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