13.
ランチには少し遅い時間になった。
レストランデッキにあるカフェ〈エブタイド〉は客の入り三割といったところ。おかげで、わたしもすんなり窓際の四人がけテーブル席に着くことができた。
店は南国ふうの内装で、明るく開放的だ。大ぶりな木目模様に丸みのあるデザインのテーブルがかわいらしい。
涼しげな服装のウェイターに野菜カレープレートを注文すると、すっかり見慣れてしまった紺碧の海原を視界の端に、持参した文庫本を開いて読み始める。なんだか久しぶりに人心地つけた気がする。
ストラップ捜しを解決して嶺奈ちゃんと別れ、会議室に戻ったときには、チーフパーサーの加茂による琴村たちへの事情聴取は終わり、一同は解散したあとだった。加茂にせよ琴村たちのグループにせよ、居場所を探し出してその後の展開を聞き出すのは、やってできないことではない。だが、いまのわたしにはそこまでする必然性も、特段感じられなかった。
榊竜一の海への転落の疑惑は、すでに船のスタッフ側の知るところとなった。わたしが嶺奈ちゃんと一緒にいる間に、彼を呼び出す船内放送も済んでいる。
転落事件の真相は個人的に気になりはするものの、わたしひとりが動いたところで、公的な調査に先んじてなにかをつかめるとも思えない。ここはおとなしく素人探偵から一乗客に戻り、豪華クルーズを楽しむ一択だった。
「――あっ、藤沢さーん!」
天真爛漫な呼び声に文庫本から顔を上げて振り返ると、嶺奈ちゃんがテーブルに駆け寄ってくるところだった。
「さっきは本当にありがとうございました! 藤沢さんもいまからお昼ごはんなんですか? せっかくだから、一緒に食べましょう」
ぺこりと丁寧にお辞儀するや、一転してマイペースにわたしの向かいの椅子へ腰を下ろす。
店の入口のほうを見やれば、スーツ姿の髪の短い女性が立っており、これまた丁寧な所作でお辞儀をしている。嶺奈ちゃんがにこにこしながら、彼女のほうへ手を振る。察するに、あの洗練されたたたずまいの女性が、お嬢さまの世話係の舞塚さんなのだろう。
「藤沢さん、なに読んでるんですか?」
ウェイターにロコモコ丼を注文した嶺奈ちゃんは、目をきらきらさせて尋ねてきた。
「理瑚でいいよ。嶺奈ちゃんも見てみる?」
わたしは布製のブックカバーを外し、テーブル越しに文庫本を手渡した。嶺奈ちゃんはそれを両手で持つと、まるで本そのものを初めて見るような顔で表紙に視線を落とす。
「えーと、八十日間、世界一周?」
「ジュール・ヴェルヌっていう、フランスの小説家が書いた本なんだ。冒険小説の歴史的傑作なんだよ」
「へぇー、どんな話なんですか?」
嶺奈ちゃんは中のページをぱらぱらと見やって、わずかに顔をしかめた。どうやら、あまり活字慣れしていないようだ。
「タイトルどおり、八十日間で世界一周する話。フォッグ氏という英国紳士が、仲間たちと賭けをするんだ。八十日間で世界一周することは、果たして可能なのか、ってね。それで可能だということを証明するために、フォッグ氏は実際に旅に出るわけ」
「……それ、賭けになるんですか? 世界一周するのに、そんなに時間かからないでしょ」
「まあ、十九世紀の小説だからね。そのころはまだ飛行機もなかったわけだし」
わたしは嶺奈ちゃんに文庫本を返してもらうと、再びブックカバーを巻きつけた。
「この〈ゴッデス・アルテミス〉号は太平洋をぐるっと回って横浜港に戻るだけだけど、船上でこれを読めば、気分だけでも世界一周できそうでしょ?」
「ふーん……藤――理瑚さんは小説をよく読むんですか?」
「わたしの生き甲斐だね。水を飲むように本を読むってやつよ。せっかくだから、嶺奈ちゃんにもなにかオススメしてあげようか?」
「……いや、遠慮しときます」
残念至極だが、強引な布教もよくない。
カバーをつけ終えて文庫本を片づけたわたしは、再びの来店客の気配に振り返り、「おっ」と声を上げる。
琴村友実と榊竜二が店に入ってくる。そばには見憶えのない女性が、もうひとりいる。
わたしは席を立つと、三人のもとに小走りで近寄った。
「琴村さん、榊さん、先ほどはどうも」
琴村はわたしの顔に気づくと、「あら」という形に口を動かし、隣の女性に話しかけた。
「結衣さん。この方が、竜一さんのボタンを見つけてくれたの。それから、船の人との間でも話を進めてくれて」
紹介してくれるのはいいが、どうやらわたしの名前は憶えていないようだ。
一方のわたしは、にこやかに「結衣さん」へと笑いかける。
「初めまして、横江田結衣さんですね。琴村さんたちからうかがってます。なんでもフラワーデザイナーをされてるとか」
「うん、そうだよ。正確には、プリザーブドフラワー」
のんびりとした口調で答え、横江田結衣はふわふわ微笑を浮かべる。
ボブカットの黒髪、小柄な体型に、薄いピンクのガーリーなワンピースが似合っている。
「無事に合流されたんですね。横江田さんはどちらにいらしたんですか?」
「魚をね、見てたの」
「魚?」
「エンタテインメントデッキの大劇場の裏手に、熱帯魚の水槽があるの。朝ごはんのあと船内を探検してて見つけて、じっと眺めてるうちにお昼になっちゃった」
「……はあ。なるほど?」
やや首を傾げ気味のわたしに、横江田は純真な目で「うん」とうなずく。これはどうやら、わたし以上の変わり者のようである。
「そ、それで、榊竜一さんはやっぱり見つかりませんか」
「ええ、だけど……」
琴村の口調は冴えない、というか歯切れが悪かった。ただ単に恋人の身を案じているだけというわけではなさそうだ。
「なにか、あったんですか」
琴村は榊と難しい顔を見合わせると、意を決したように尋ねてくる。
「あなたがその、竜一さんらしい声を聞いたのって、昨夜の零時ごろなのよね?」
「……はい、まあ。わたしもうつらうつらしてたんで、はっきりした時刻は分かりませんけど、そんなに変わらないと思いますよ」
わたしの答えに、琴村は困惑しきった表情を浮かべる。
彼女に目顔で促されて、横江田が存外にきっぱりした声音で言った。
「あなたが聞いたその声、榊先輩が海に落ちたときのものじゃないと思うよ。だってわたし、今朝、榊先輩を見てるもん」
「……えっ?」
彼女の言葉の意味がとっさに理解できず、わたしは間抜けな声を上げる。
「わたし今朝、早く起きすぎちゃってさ。ちょっと散歩にと思って、部屋を出たの。六時過ぎかなあ。甲板で十分くらい過ごしてから、部屋のあるフロアに戻ったとき、廊下の先に榊先輩がいるのを見かけたんだ。すぐ別の階段のほうに行っちゃったから、声はかけなかったけど、あれは間違いなく榊先輩だった」
「そ、そんな……」
ようやく理解が追いつき、わたしは呆然とした呟きを漏らす。
昨夜の悲鳴と水音。あれがすべての出発点だった。
屋上デッキで見つかったボタンに、榊竜一の船内からの失踪。状況はすべて、彼が昨夜のうちに海に転落したことを示している。
では、どういうことになる?
一度海に転落した榊竜一が、なんらかの経緯で船内に戻ってきた――ありえない。
もしそうなら、いまだ彼が姿を見せないことが変だし、そもそもあの高さから海に落ちれば、まず命は助からないだろう。
――まさか。
そこまで考えてふと浮かび上がってきた突飛な発想に、しかしわたしは背筋が冷たくなるのを抑えられなかった。
それは、榊竜一が生きて船に戻ってきたという以上に、ありえない可能性。
自然科学の否定の最たるものであり、理性によって排斥されるべき戯言。
だがその一方で、これまでにも多くの人間が、恐怖や希望といった多様な感情を伴って夢想してきた、ある意味で最もありふれた物語。
やがてわたしは胸の内に、その結論のひとしずくを落とす。
――横江田結衣が見たのは、榊竜一の幽霊だった……?
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