11.

 女性は琴村ことむら友実、男性は榊竜二と名乗った。それぞれ都内の証券会社、電子部品メーカーに勤めているという。どちらの会社も、わたしでも名前を知っている一流企業だ。


 昨夜から行方をくらませているという榊竜一は、こちらも都内に店舗を構えるカフェの店主。竜二の二歳上の兄であると同時に、琴村の恋人でもあるそうだ。


「へぇー、皆さん、大学のサークルでスキーを。いいですね、わたし、スキーって少ししかしたことなくて」


 わたしたち三人は、小さな会議室のテーブルに並んで着いていた。


 あのあと、わたしはボタンを拾った場所を琴村と榊に教えたうえで、前夜、自室で聞いた叫び声と水音についても説明した。まだ状況証拠しかないが、話を聞いたふたりは、榊竜一の転落疑惑を真剣に捉えてくれた。


 三人連れ立って、ショッピングデッキの奥のレセプションに向かった。わたしたちの訴えに対応してくれるスタッフを呼ぶということで、レセプションのさらに奥にあるこの部屋で待つ流れとなった。


「けっこう部員数の多いサークルだったんだけどね、そのなかでもわたしたち四人は特に気が合って、卒業後もこうしてときどき集まってるわけ」


 隣の椅子に座る琴村友実はそう返事をして、薄く微笑んだ。わたしの手前か、気丈に振る舞っているのが察せられる。


「四人? もうひとり、お仲間がこの船に乗ってるんですか」

「ええ、まあ。横江田よこえだ結衣ゆいさんっていって、竜二くんの同学年。いまはデザイナーをしてるって言ってたわね。確かお花の、フラワー……なんだったかしら」

「その方には、知らせなくていいんですか」

「うん、早く知らせたいとは思ってるの。でも、どこにいるか分からないのよね、彼女。スマホも連絡つかないし」

「ちょっとそれ、大丈夫なんですか。まさかその横江田さんって方も、なにか事件に巻き込まれたんじゃ」


 どきりとするわたしに、彼女の向こう側で榊竜二が苦笑を浮かべてみせる。


「いやあ、あいつなら大丈夫だろ。兄貴と違って今朝、おれも会ってるし、もともとマイペースであちこちふらふらしてる奴なんだよ。それより友実さん、本当に兄貴がいなくなったのに心当たりないんすか?」

「ええ、さっきから昨夜のことを思い出そうとしてるんだけど……」

「おふたりが最後に竜一さんの姿を見たのはいつです?」


 と、わたしも質問を挟む。


「おれは昨夜のウェルカムパーティーのときだ。前半まで一緒に飲んでたんだけど、途中で別れて、それっきりだな」

「わたしはパーティーのあと、会場のすぐ外で少しだけ会ったわ。今日一日だいぶ疲れたから、先に部屋に戻って休んでるって。わたしたち全員、ひとり部屋をとっててね」


 従来、クルーズ客船のキャビンはふたり用が通例だったが、〈ゴッデス・アルテミス〉号はシングルの割合を大幅に増やしたのが画期的だった。しかし、それが彼らの場合は裏目に出て、想定していたグレードでふたり部屋が押さえられなかったらしい。


 そのとき、「あっ」となにかを思い出した様子で、琴村が短く声を発した。


「どうしたんすか、友実さん」

「……そう、ウェルカムパーティーのちょっと前よ。甲板であのひとを見かけたの。誰かと立ち話をしてたみたいで」

「誰かと……? それって、結衣ちゃんじゃなかったんですか」

「ううん、知らない男の人よ。物陰だったし、辺りもすでに薄暗くなってたから、顔はよく見えなかったけど、背丈や体格は竜一さんと同じくらいだったわね」


 榊竜一の容姿については、わたしも琴村のスマホに入っていた写真で確認している。顔立ちや肩幅などは弟の竜二によく似ているが、髪は鮮やかな金色に染められていた。


 バストショットのその写真では身長や全身の体型までは分からなかったものの、榊兄弟はそちらもよく似ているそうで、三段論法的に竜一と会っていたという男のシルエットにもイメージはついた。


「たまたま知人と会ったんでしょうかね。あるいは、単に船内で知り合っただけの相手か。琴村さん、その男の人について、ほかに気づいたことはありませんか?」

「そうねぇ……年はたぶん、三十過ぎくらい。あとは、そうだ」

「なんですか?」


 わたしが促すと、琴村はぞっとしたように表情を歪めた。


「一瞬だけ、あの男の人の横顔が明かりに見えたの。右の頬……大きな傷痕がついてたわ」

「傷痕……」

「ええ、細長い三日月みたいな形のが、縦に……いま思えば、ふたりが話してる様子もなんだか怖い感じだった。そのあとパーティーで会ったときは、あのひとも普通の態度だったから、それっきり気にならなかったんだけど」


 琴村が口をつぐんだので、わたしも無言で思考に入った。


 その男が榊竜一とどのような関係なのかはいまのところ不明だし、彼の失踪に関与しているかどうかも定かではない。ただ、右の頬に傷痕があるという大きな特徴のおかげで、船内からその人物を見つけ出すことは難しくなさそうだった。


「おまたせしました」


 会議室のドアが開き、ひとりの男性が入室してきた。


「チーフパーサーの加茂かもと申します」


 そう名乗った男性は、白い制服姿で年のころ四十前後。ぴんと伸ばした背筋、柔和な顔つきをしており、船員というより名家のお屋敷の執事といった印象だ。


 加茂はわたしたちの向かいに椅子を持ってくると、礼儀正しい所作で腰を下ろしてから、話を促してきた。わたしが中心となって行った説明に、彼は真摯に耳を傾けてくれる。


「――なるほど、事情は承知いたしました。失礼、少々席を外させていただきます。いまから船長と相談してまいりますので」


 チーフパーサーは会議室をあとにし、室内には再びわたしたち三人だけが残される。事態が本格的に公に進み始めたからか、場の空気が重々しく緊張したものになっているのを感じる。


 十五分ほどで加茂は戻ってきた。


「船長との相談がまとまりました。まず、船内放送で榊竜一さんをお呼び出しいたします。それから、海上保安庁にも連絡することに決まりました。現段階でどれほど動いてもらえるかは、分かりませんが……」

「いえ、十分です。ご対応いただき、ありがとうございます」


 わたしが立ち上がってお辞儀をすると、琴村と榊のふたりも慌てたように腰を上げて倣う。


「それでは、榊さんと琴村さんには、竜一さんについてもう少し詳しくうかがいたいと思います。お手数ですが、いまからここでわたくしと――」


 にわかに部屋の外が騒がしくなり、加茂は口をつぐんだ。


「あの、困ります、お嬢さま」


 半開きのドアを勢いよく押し開けて現れたのは、ひとりの女の子だった。


 背丈を見るに、わたしと同じ十六歳くらいだろうか。すらりとした肢体に真っ赤なオフショルダーのミニワンピースをまとい、ロングヘアは背中できれいに切りそろえられている。


「嶺奈お嬢さま……」

「たいへん加茂さん! わたしのこと助けてよ」


 戸口を振り返って目を丸くする加茂に、少女は感情表現も豊かに駆け寄る。


「すみません、チーフ。いまは取り込み中だってお嬢さまにはお伝えしたんですが」


 あとから部屋に入ってきた女性の乗員が、息を切らせながら頭を下げる。


 加茂は鷹揚な顔つきで向き直ると、


「構いませんよ。それでお嬢さま、なにかありましたか」


 少女と目線の高さを合わせるように、心持ち身を屈めた。


 それにしても、この男性が「お嬢さま」などと言うと、本当に執事にしか見えなくなる。


「あのね、加茂さん! わたしがスマホにつけてたストラップが、なくなっちゃったの」


 まるでこの世の終わりが訪れるかのような切実さで、「お嬢さま」は訴えた。


「ストラップ、ですか……?」

「そう、コマザラシくんのストラップ! 沖縄の美ら波水族館で買った限定品なの。大切な宝物だったのに、どうしよう……」

「落ち着いてください。お世話係の舞塚さんには知らせたのですか?」

「ふたりで捜してるけど一向に見つからないから、加茂さんにお願いしてるんじゃない。船内放送で呼びかけて、お客さんにも捜してもらってよ!」

「……さて、それはさすがに」


 加茂は背筋を伸ばし、困惑したように頭に手をやった。


 わたしはそれとなく、隣に座る琴村と榊を窺った。ふたりともすっかり白け切った顔をしている。少女には悪いが、彼らの気持ちはよく分かる。


「あの」


 わたしは声を張り上げた。室内の視線がいっせいにこちらに向けられる。


「よかったらそのストラップ捜し、わたしが手伝いますよ」


 このまま「お嬢さま」の意向に従っていたら、転落事件の調査に差し障りが出る。一方で、少女の態度からは本気で宝物の紛失を悲しんでいるのが感じられ、どうにも放っておけない。


 わたしは素早く席を立つとテーブルを回り込み、誰何の視線を向けてくる少女のもとに歩み寄った。


「はじめまして、わたしは藤沢理瑚。レイナちゃん、いや、お嬢さま? まあとにかく、あなたの大切なストラップはわたしが必ず見つけてあげるから、安心して」


 これも行きがけの駄賃というやつだろう。


 にわか探偵業、なかなかに忙しい。

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