第3章「母の声が遠くなる」

次の日の朝、目が覚めると、雨の音がしていた。

細かくて、乾いた布に沁み込むような雨だった。


いつもの団地の天井。いつもの白い壁。いつもの母の足音。

けれど、それらがどこか遠くに感じた。


台所から、包丁がまな板を叩く音。

ラジオのパーソナリティが、軽い声で天気のことを話している。

そのすべてが、膜ごしに聞こえてくるようだった。


「朝だよ、起きなさい」


母の声がした。いつもと同じ言葉。

けれど、その声が、昨日より少しだけ小さく聞こえた。


「……いま起きる」


自分の声も、少しだけ曇っていた。


学校へ行く準備をしながらも、頭の中では昨夜のことを反芻していた。

ちゃぶ台、アルバム、あの子の声。

部屋の空気の温度や、ふわっと揺れたカーテンの白さまで、やけに細かく思い出せた。


──夢だったのかな。


洗面所で顔を洗いながら、何度もそう思った。

でも、夢にしては質感がありすぎる。

あの子の目の色や、アルバムの紙の手触りまでもが、はっきり残っている。


そういえば、とふと思い出す。


あの子は言っていた。


「あなた、ここに来るの、二度目だよね?」


一度目の記憶は、なかった。

けれど、そう言われたとき、不思議と否定する気持ちが起きなかった。


学校の帰り、私はまた五号室の前で立ち止まっていた。


鍵はかかったまま。灯りは点いていない。カーテンも、今日は揺れていない。

まるで、あの部屋がすっかり“空き部屋”に戻ってしまったかのようだった。


それでも、ドアにそっと触れてみると──

やはり、わずかに温かい。


中に誰かがいるというより、

部屋そのものが「まだ覚えている」感じがした。


その夜、夕飯のあとに、母が何気なく言った。


「そういえば、昔この団地に、あなたと同じ年くらいの子がいたの。五号室。……そう、たしか五号室だったかな」


私は箸を止めた。

母は気づかず、お茶を飲んでいる。


「その子ね、ちょっと変わってて。ひとりでよく空を見てたって。……名前、思い出せないけど」


「……引っ越したの?」


私が訊くと、母は少しだけ間を置いてから言った。


「……そう、たしか。急にいなくなったの。理由もわからないまま」


それから、母の口数が減った。

何かを思い出しそうになって、やめたような顔。


テレビの音だけが部屋に流れていた。

でも私は、その音もだんだん聞こえなくなっていた。


布団に入ってからも、眠れなかった。

団地のどこかで風の音がした。遠くの誰かが話す声。

何もない夜のはずなのに、五号室の前を風が抜けていく気がした。


眠る直前、母の声が聞こえた気がした。

でもそれは、実際の声ではなく、記憶のなかのような響きだった。


──昔の母の声。もっと若くて、少し優しくて、少し不安げで。


「……ここに、来たことがあったの?」


誰に向けた問いかけかもわからぬまま、私は目を閉じた。


そして夢の中で、私はまた、あの部屋の前に立っていた。


ドアは、開いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る