第2章「記憶のない写真」
ちゃぶ台の上に、一冊のアルバムが置かれていた。
古く、角がめくれ、表紙には何も書かれていない。埃は積もっていないのに、時間だけがたっぷり染み込んでいるようだった。
「見てもいいよ」と、あの子は言った。
私は躊躇いながら、アルバムを開く。
最初のページに貼られていたのは、見覚えのない風景だった。
山か、丘か──遠く霞んだ緑の斜面に、誰かの後ろ姿が立っている。
小さくて、はっきりとは見えない。でも、
その誰かは「わたし」かもしれなかった。
ページをめくるたびに、曖昧な記憶が胸の中でふるえた。
知っているような気がするのに、名前が出てこない。
行ったことがあるような気がするのに、地図に載っていない。
ときどき、そこに写っている人物の顔が――
ぼんやりと、霞がかかったように滲んでいる。
「これ、あなたが撮ったんじゃないの?」
女の子がそう言った。
私は彼女の顔を見た。彼女は、微笑んでいた。
「ちがう。私、こんなカメラ持ってない」
そう答えたはずなのに、自分の声が少し曖昧だった。
「ううん、持ってたよ。小さい、白いやつ。首から下げてたじゃん」
彼女の言葉が、心のどこかをノックした。
ほんのかすかに、白いものの映像が浮かびかける。けれど、形になる前に霧がかかる。
私はアルバムを閉じた。
「ねえ」
彼女が、ちゃぶ台に頬杖をついて、こちらを見つめる。
「どうして忘れちゃったの?」
私は答えられなかった。
訊かれたことの意味すら、まだつかめていなかった。
•
「思い出したくなかったのかな」
彼女はぽつりとつぶやいた。
その声に責めるような響きはなく、ただ、静かだった。
「忘れるって、楽になることだから。ぜんぶなかったことにして。見なかったことにして。そうすると、ちょっとだけ生きていける」
私はなにも言わなかった。
けれど、胸の奥がわずかに痛んだ。
息をしているのに、深く息が吸えない感じ。
「でも、ね」
彼女が、少しだけ前かがみになって言う。
「この部屋は、“思い出さなかったもの”が残る場所なんだよ」
私は、また何も言えなかった。
けれど、確かに聞こえた気がした。
誰かの笑い声。走る足音。名前を呼ぶ声。
──全部、忘れてしまったはずの音。
けれど今、たしかに耳の奥で響いている。
•
帰るとき、彼女は玄関までついてきた。
「また来るよね?」
その問いかけは、少しだけ揺れていた。
私が頷くと、彼女はほっとしたように笑った。
「また思い出してくれるの、待ってるから」
ドアを開けて、外に出る。
団地の廊下に、冷たい風が吹いていた。さっきまでの湿った空気が、すこし澄んでいる。
振り返ると、彼女はまだそこにいた。
でも、カーテンが揺れていて、灯りがにじんで──
気づけば、もう誰もいなかった。
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