第2話 波紋の先にあるもの
クラブ「silent」。
皮肉な名前だと、かつては誰かが思ったかもしれない。
でも今は、それが最も正確な表現となっている。
少女——川井真理子、21歳——は、階段を降りていく。
いつもなら無意識に、場の流れに従って。
けれど今夜は違う。
胸の奥の、小さな振動が消えない。
午後の交差点で感じた、あの微かな震え。
赤い影が残していった、名前のない何か。
地下のフロア。
暗闇の中、ストロボライトが規則的に明滅している。
人々が動いている。音楽はない。リズムもない。
ただ、光に同期して、機械的に身体を揺らしている。
真理子も、いつもならその流れに溶け込むはずだった。
しかし——
「これは、何?」
生まれて初めて湧き上がった疑問が、彼女を立ち止まらせる。
今まで当たり前だったものが、突然異質に見え始める。
規則的な光。
予測可能な動き。
表情のない顔々。
そして気づく。
自分もまた、その一部だったことに。
フロアの奥。
VIPルームと呼ばれる空間への扉が、かすかに開いている。
そこから漏れ出る、何か。
光とは違う、別の何か。
それは......振動?
真理子は引き寄せられるように、そちらへ向かった。
周囲の人々は、彼女の異質な動きに気づかない。
いや、気づいても反応しない。個別の認識を持たないから。
扉の向こう。
薄暗い部屋の中央に、古い機械が置かれていた。
ターンテーブル。レコードプレーヤー。
音楽が生きていた時代の遺物。
その前に、一人の男が座っている。
藤原大。27歳。クラブのオーナー。
彼の指が、静止したレコードの上を這う。
音は出ない。針は降ろされていない。
それでも、彼の身体は微かに揺れている。
まるで、聴こえない音楽に合わせるように。
「君も......感じるのか」
男が振り返る。その瞳に、真理子と同じ「震え」を見た。
「な、なに、を?」
言葉が、ぎこちなく唇を離れる。
声ではない。空気の震えでもない。
でも、確かに伝わる何か。
「振動。波。かつて音楽と呼ばれていたもの」
大の手が、自分の胸を指す。
「ここに、まだ残ってる。消えてない」
彼は立ち上がり、真理子に近づく。
そして、彼女の手を取り、自分の胸に当てた。
鼓動。
いや、それ以上の何か。
複雑なリズム。不規則な波動。
まるで、幾つもの音が重なり合っているような——
「今日、君は出会ったんだろう?」
大が言う。
「赤い、影に」
真理子の中で、何かが繋がった。
交差点での出来事。あの存在。そして今、この場所。
「あの人は......」
「ノイズ」
大が答える。
「少なくとも、僕らはそう呼んでいる」
僕ら?
真理子の疑問に応えるように、部屋の隅から人影が現れる。
老人。白髪。深い皺の刻まれた顔。
「私は、覚えている」
老人が言う。
「音があった時代を。音楽があった時代を」
浅井老人。82歳。
この街で最後まで音楽を奏でていた男。
「あの日、すべてが消えた。でも——」
老人の手が、空中で何かを掴むような動きをする。
「波は、消えない。形を変えても、必ずどこかに」
真理子は、二人の間で理解し始めていた。
この場所が、なぜ存在するのか。
なぜ彼らが、ここにいるのか。
「でも、どうして私が......」
その時、扉が開いた。
赤いジャケットの人影が、逆光の中に立っている。
ノイズ。
彼女は真理子を見て、微笑んだ。
そして、ゆっくりとターンテーブルに近づく。
指先が、レコードに触れる。
針は降ろさない。
でも——
部屋全体が、震え始めた。
いや、部屋ではない。
そこにいる全員の、内側が。
真理子の胸の振動が、強くなっていく。
大の鼓動と共鳴し始める。
老人の記憶が、波となって広がっていく。
そして、ノイズが踊り始めた。
音はない。
でも、その動きが空間に描く軌跡が、
失われた音楽の形を浮かび上がらせていく。
真理子の身体が、無意識に動き始める。
場の流れとは違う、自分だけのリズムで。
初めて知った。
これが、「自分」なのだと。
地下クラブの小さな部屋で、
四つの意識が共鳴し始めていた。
そしてその波紋は、
静かに、しかし確実に、
街全体へと広がろうとしていた。
(第二話・了)
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