彼女は彼を愛しさえしなければ

重原 水鳥

第1話

 ガシャンという音が荘厳な宮殿の廊下に響き渡る。騎士が突きだした剣の向こう側にいた少女は、震えて蹲っている。


「お、おかぁさ」


 ぶるぶると震える少女は、その身に纏っている服からして高い身分の人間であると分かる。

 父によく似たはねた毛は、普段ははねが目立たぬように括られているのだが、今は髪の毛を纏める紐を失くし、無造作に背中に広がっていた。


「離しなさいよ!!!」


 怒号を響かせたのは少女の前方、騎士によって取り押さえられている女だった。

 目を見開き唾を飛ばしながら己を押し倒している騎士とその周囲で剣を自分に向ける騎士たちを罵倒する姿は美しさから程遠いが、身に纏う服の質は少女にそう劣らない。本来ならば騎士たちが取り押さえるなんて力に任せた方法で触れて良い相手ではないのだが……そんな事をいくら女が主張しても、近衛騎士たちは涼しい顔で女を取り押さえている。


 慌ただしい足音が廊下に響く。女を押さえていた騎士がちらりと視線を上げれば、同僚が一人の女性を連れて走ってきている姿が見えた。明らかに上等な服に身を包んだ女性は髪を乱していたけれど、騎士が押さえる女のように取り乱してはいなかった。


「マーガレット!」


 弾かれたように恐怖で震えていた少女が振り返る。そしてこちらに駆け寄ってくる女性を見ると、茶色の瞳からぶわりと涙をこぼしながらそちらに走り出した。


「おかあさま!!」

「ああ、ああ、マーガレット! 良かった、良かった無事で……」


 マーガレットは女性の胸に飛び込む。女性は少女を抱き留めると、自身も緑色の瞳を少し潤め、何処にも行ってしまわぬようにと言わんばかりに両腕でその小さな体を抱きしめた。わんわんと泣くマーガレットと「良かった、良かった」とこぼす女性。どこからどう見ても、互いに愛し合った親子の感動の再会という風の光景。それを見た騎士に押し倒されていた女は、茶色の瞳をカッ開き、髪を振り乱しながら叫んだ。


「返しなさいよ!!! その子は私の子よ!!!!」


 マーガレットはびくりと体を震わせる。


「お母様ですって!? あんたの母親は私よ!! その女じゃないわ!!! いいからこっちに来なさい! 来なさいよ!!」


 女が叫ぶ。震えるマーガレットを女から隠すように、マーガレットを抱きしめている女性は体の向きを変えた。

 女は叫び続けた。己の主張を通そうと。

 しかし誰も、女を庇おうともしなかった。




 ――事の一部始終を聞いた皇太子妃アイリーンマリーは溜息を吐いた。


「だから言ったのです。貴女には、皇太子のつまは、荷が重い、と」




◼️◼️◼️




『帝国は、人柱の国と言われる国である。』




◼️◼️◼️




 皇太子とは、帝国の未来を担う男性を指す。


 ただ、普通の国とは違い、この帝国において、皇太子は必ずしも皇帝の子供からは選ばれない。皇族の中で最も相応しい者が選ばれるのだ。この方式はある時期より厳格に守られるようになり、それが無視される事はただの一度もない。

 勿論、現皇帝と現皇太子の関係は、伯父と甥にあたり、皇帝の実子は他に沢山いたにもかかわらず、皇太子の地位にはつけなかった。


 ……数いる皇族の中から最も相応しいとして皇帝陛下の甥であるオーウェンが立太子したのは、彼が十五歳の時。

 そしてその日、同い年の公爵令嬢アイリーンマリーは彼の婚約者となった。


 二人の間に熱烈な感情は無かったが、お互いに婚約者として尊重しあっていた。

 婚約の際にアイリーンマリーひいては公爵家はとても分厚い契約書にサインしている。アイリーンマリーはその契約書を守った。それに反する事をしなければ、皇太子が何をしても構わなかった。そう、何をしても。


 例えば、精通して以降の皇太子オーウェンが、日々違う女性を閨に招いていたとしても、契約書に反していないので、アイリーンマリーは気にもとめなかった。

 アイリーンマリーは婚前交渉は絶対お断りで、オーウェンはそれを無理強いしてくる事はなかったので契約に反しなかったのだ。


 まさに貴族の結婚そのものと、二人の婚約関係は評された。事前に定められた約束に従い、二人は極めて穏やかに、性の匂いが少しもしない関係を築いていた。お互いに対する情が異性の情になる事もないまま、月日が過ぎ、そしてオーウェンとアイリーンマリーは十六歳となった。


 この年、社交界に一人の少女が現れる。

 この少女により二人の周りはにわかに騒がしくなる事となった。


 少女の名前はミーナ。

 とある男爵の姪であり、親の死後唯一の親族である男爵に引き取られた少女だった。男爵の姉が平民の男と駆け落ちして作った子供であったが、とはいえ自分たちが助けなければ大変な生活を送るだろうミーナに同情した男爵夫妻が彼女を引き取る事を決めた。養子縁組もし、正式に貴族の仲間入りを果たしたのだ。

 その後彼女は貴族としてのマナーを学び、それが合格点に達したとして男爵らに連れられて帝国の社交界に顔を出したのだが、彼女はとんだ問題児であった。


 社交界に出たのは結婚相手を探すためだったらしい。

 それ自体は責められる事ではないが、しかし方法がまずかった。

 第一条件は金がある事。次に顔がいい事。このどちらかの条件を満たし、もう片方の条件をある程度満たした男性という男性に、片っ端から手を出した。それは独身男性だけに留まらず、妻がいる者や婚約者がいる者もいた。とはいえ大半は年が近い、まだ若い者をターゲットにしていたようだ。

 最初の数人は独身であり多少噂が立つ程度であったが、ある時若くとも結婚していた男と良い感じになり恋人のように夜会で振る舞った事から、妻が怒り男爵家に文句が届いた。男爵たちは、マナーの成績が素晴らしいと言われた事から問題ないと思い、自分の息子の一人に連れをさせて後は半ば放っていたのだ。この息子もミーナに篭絡されていたがために報告が遅れていた。

 男爵は怒り、息子とミーナを引き離した。それからミーナが一人で夜会に参加できないようにお小遣いを殆どなくしてしまった。社交の場に行くのは準備から含めて、金がかかる。お金さえ渡さなければ、出掛けるにしても平民たちが行ける所ですむだろうと考えていた。完全に目を離していた訳ではない。使用人たちには目を離さぬように言いつけていたし、息子が平民出身の姪に骨抜きになった事に怒った妻もミーナの行動に目を光らせていた。だから大丈夫だろうと男爵は思い、この問題児をどこか遠くにやらなければと行動を始めた。


 残念な事に社交界に出てからその日までの短い間に、ミーナは既に幾人もの男を自分の崇拝者として作っていた。そして彼らから援助を得る事で金の問題を解決し、家の中は男性使用人たちを味方につけ、例の男爵の息子を利用した。こうしてミーナは度々屋敷から抜け出して夜会に参加していたが、男爵夫妻は中々気が付けないという哀れな事になった。


 そうして夜会に出掛けている間に、ミーナとオーウェンは出会った。


 通常であればオーウェンの周りには護衛が沢山控えている。ただその日、その夜会においてはオーウェンの護衛は普段よりも少なかった。皇帝一族との仲がなんとも微妙な貴族主催の夜会であり、あまりに厳重にしすぎると「皇太子はどうやら我が家が危険な存在だとみているらしい」とへそを曲げる可能性があったからだ。だからこそ、表面上は「我々は貴殿らを信じているのだ」とアピールするために、オーウェンの護衛は少なかった。


 人々との対応を粗方終えたオーウェンが、会場の中央から外れ、いくつものパーテーションで仕切られている休憩スペースに一人腰かけていると、きょろきょろと注意散漫な様子で歩いていたミーナが横を通りがかった。ミーナはオーウェンを視認したコンマ数秒後に、この見るからに身なりの良い若者を次のターゲットにすると決めた。


「きゃあ!」


 オーウェンの座るソファのすぐ近くを通った時、小声で悲鳴を上げて倒れこむ。流石に目の前でそんな事があればオーウェンも彼女を放置できない。自分の行動でどのように悪評が立てられるか分からないからだ。


「大丈夫かい、お嬢さん」

「あ、ご、ごめんなさい、ヒールが、新しいヒールが合わなかったみたいで……」


 差し出された手をすぐには掴まず、恥ずかしさで焦ったようにスカートの布地をかき寄せる。その際、本来なら見せてはいけないヒールと足首をほんの少しだけオーウェンに見せた。靴ズレが起きていたのは事実の事で、彼女のかかとは赤みを帯びていた。とはいえそれはほんの一瞬の事、すぐに何重にもなっているドレスの裾に足は隠れてしまう。


 何度も謝罪を重ねてから、ミーナは顔を上げた。そして自分に手を差し伸べているオーウェンを見て、茶色い目を丸くさせる。


「まぁ、王子様……?」

「ぷっ、ははは。確かにね、私は確かにそういう立場だよ。お姫様、立ち上がれそうかな?」

「あ、は、はい、大丈夫です!」


 ミーナは差し出されたオーウェンの手を取って立ち上がった。


 ――護衛が戻ってきた時には、休憩スペースでオーウェンとミーナが楽し気に会話をしていて、オーウェンはすっかりミーナを気に入っていた。

 多少マナーに荒い所はあれど、貴族女性の多くとは違う平民風味を持ったミーナが物珍しく見えたのもあるのだろう。


 主人がミーナを気に入った事を察した護衛は、すぐさま彼女の背景を調べる。そして次の夜会でもミーナを探していた様子のオーウェンのために、オーウェンの参加する夜会にミーナも参加するようにと男爵家に通達された。


 なんとか田舎の方に嫁がせる算段がついて屋敷に帰っていた男爵も、彼女はちっとも外出してないと思っていた夫人も、とんでもない話に仰天してしまった。


「まさかミーナが皇太子殿下に見初められるとは……」

「どうしてあの子が見初められるような事になっているの!? 部屋で大人しくしているのではなかったの!」


 こうして息子と使用人たちの裏切りを知り、男爵夫妻たちは酷く落ち込んだ。

 だがしかし、帝国貴族として、皇太子殿下が望んだのならば断わる事は出来ない。


「どうするのですか貴方、あの娘が何か問題を起こしたりしたならば……」

「確かにそれは問題だが……だが知っているだろう、あの子の母親は役目を果たさずに逃げている。あの子が役目を果たすというのなら、我が家の名誉もある程度回復が出来るはずだ。しかも皇太子殿下だぞ、相手は」

「それは……そうですけれど……」


 夫妻は話し合い、最終的にミーナを自由にする事にした。

 とはいえ彼女の行動に対する苛立ちは簡単には抑えられない。その苛立ちを解消するために、二度も親を裏切った息子と、当主の命令を無視した使用人たちを罰したが……それは別の話。


 こうして、ミーナはオーウェンの傍によくいるようになった。

 多くの貴族令嬢はミーナを誰かは知らなかったが、既に夫や婚約者、兄弟に手を出されていた令嬢たちにより、彼女の素性はすぐ噂になった。まっとうな貴族たちはオーウェンという帝国の未来を担う者の近くに、尻軽のような女が侍る事をよくは思わない。だが直接オーウェンにその事を言えないために、婚約者たるアイリーンマリーの元に言いに来る令嬢が増えた。


「アイリーンマリー様。またオーウェン様の傍に、あのミーナという女が侍っていたのです! しかも腕を絡ませて、胸を押しあてて! 見ていられない状態でございましたわ」


 アイリーンマリーは広げた扇の下で溜息をつく。

 オーウェンがミーナを連れ回すようになってからこのような訴えは、それはもう多かった。

 オーウェンに物申せる者は少ない――事もない。特に内容が政治的であったりする事等であれば、口出し可能な人はそれなりにいた。

 ただし、彼の私的な時間に口出し出来る人は限られている。よほど近しい側近や護衛が多少物申すか、或いは皇帝陛下と皇后陛下、そして婚約者であるアイリーンマリーだ。

 その中で令嬢たちが最も声をかけやすいのは――勿論、アイリーンマリーだった。

 アイリーンマリーは普段から、様々な令嬢の悩み相談を受けていた。将来の皇太子妃、皇后としていつか部下になるかもしれない令嬢たちに気を配るのは彼女からすれば当然の事だったが、オーウェンとミーナの行為についての不平不満が集まってくるのは予想外であった。

 これまでオーウェンの傍に行き、恋人のように過ごす令嬢や未亡人などはそれなりにいた。その時も多少の文句は出たが、それでもアイリーンマリーが一言「気にしておりませんわ」と言えば誰もが黙認した。しかしミーナを傍に置くようになってから、アイリーンマリーの一言では収まり切らない人が随分と増えた。恐らく普段からミーナが貴族としては恥ずかしい侍り方をし、オーウェンのいないところでは彼の恋人として立場を主張しているせいだろう。

「母親が貴族令嬢、父親が平民……とはいえ、養子入りの前に検査はされて、貴族としての要件は満たしている。であれば、私に皇太子殿下のお気持ちを止める事は出来ませぬ」


 アイリーンマリーは今回の訴えた者にもそう説明した。


 これだけ話が届きつつも、アイリーンマリーは未だにミーナに会っていない。

 だが彼女の事は、オーウェンがミーナを気に入ったとして側近護衛たちが彼女について調べた時に、そのままその調査結果を受け取っている。


 ミーナ・アップルビー。

 アップルビー男爵たちに、約一年前に引き取られる。

 それまでの十五年間は平民の少女として両親と暮らしていた。親の経歴は以下の通りだ。


 ミーナの母親のキャロリン・アップルビーは、アップルビー男爵家の唯一の女児として幼い頃から貴族の使命を果たすべく育てられてきた。しかし時折下町に出掛けており、その下町で出会ったダンと恋に落ちる。

 先代男爵は最終的にはキャロリンに政略結婚をさせるつもりであった。なので何の政略にもならない平民と娘が結婚する事に難色を示したが、母とキャロリンの弟である現男爵が姉の恋路を応援したために、貴族の責務を果たした後であればダンと結婚する事を許すと伝えた。

 ところが信じられない事にキャロリンはその貴族の責務を拒否したのだ。そしてダンと駆け落ちした。男爵は怒り狂って娘を探したが、遠くに逃げたらしく見つける事が出来なかった。せっかく背中を押したのに裏切られた母と現男爵も、キャロリンのこの行動には呆れてしまったという。


 それから時を経て、父男爵が亡くなった事が理由か、キャロリンとダンは娘のミーナもつれて帝都に帰ってきていたらしい。ダンは土木作業、キャロリンはパン屋で働いていたという。ミーナも飲食店でホールスタッフとして働いていた。それでも金が少し足りなかったらしく、時折男爵家に金の無心があったが、現アップルビー男爵は金は渡さなかった。

 彼らに金が無かった事の主な原因は、ダンとキャロリンが仕事終わりに飲む酒のせいだった。多少の量ならともかく、毎日かなりの量を二人で飲んでいたという。ミーナはまだ子供だといわれて酒を飲む事は許されていなかった。この酒代に、お金が消えて行っていたのだ。

 夫婦の最期は唐突に、あっけなかった。二人そろって同じ夜に、突如倒れたのだ。夫婦にとっては不運な事にその日ミーナは働いていた店で問題が起こり、家に帰れなかった。他の従業員らと店の片づけをし、そのまま夜を店で越した。

 ミーナが帰ったのは、両親が酒を飲みながら倒れた、次の日の夕方だったのだ。

 家に帰った彼女は狭い部屋の中、倒れたままピクリとも動かない両親を見つけた。悲鳴を上げた事で周辺の人間が集まり、一気に騒ぎは大きくなる。

 その後調べられた結果、事件性はなく酒を飲み過ぎたせいで倒れたのだろうと判断され、ミーナは突然一人になった。


 その事を聞いた男爵は、親の罪は子にある訳でもないとして妻と話し合い、最終的に彼女の検査を行い、問題が無かった事から男爵家の令嬢として受け入れた……。


 ミーナ・アップルビーの生い立ちはこういうものだ。急ぎ調べられたために足りない所はあるが、最も重要な点がクリアされているために放置されたのだろう。


「それにしても、こうも女の恨みを買う女を、部下として入れるのは骨が折れるわね……」


 アイリーンマリーはそう愚痴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る