第22話 畏見の髷、結うぞ!

 ゆめはみたちによって影が消え去った後も、畏見の金切声は止んでいたものの、洞の中から出てくる様子はなかった。


畏見かしこみ


 猛雄たけおが、洞の闇の中に手を差し入れた。その腕は、先ほど影に絡みつかれた冷たさをものともせず、畏見の細い手を探り当てる。猛雄は、慎重に、しかし確かな力で、畏見の腕を掴んだ。


 ゆっくりと、洞の闇の中から、畏見の体が引きずり出されてくる。彼は、顔をくしゃくしゃにして泣いており、その瞳からは、恐怖と不安の涙がとめどなく溢れ落ちていた。全身の毛は逆立ち、見るからに怯え切っている。


 采女うねめは、そっと畏見かしこみに近づいた。その足取りは、まるで傷ついた小動物に接するように、慎重で優しい。


「怖くない、怖くないから……」


 采女は、囁くように語りかけながら、畏見の蓬髪に、そっと手を伸ばした。


 彼女の指先が、畏見の髪に触れた瞬間、凍えるような怖気おぞけが、采女の体中に電撃のように走り上がった。それは、まるで彼の心臓が、恐怖で今にも破裂しそうなほどの震えを、直接肌で感じているかのようだった。全身が粟立ち、思わず手を引きそうになる。しかし、采女は耐えた。


 彼の髪から、直接伝わってくるのは、ひたすら純粋な恐怖の感情だった。


『怖い、怖い……』


 その感情は、采女の脳裏に、具体的な言葉となって響いてくる。


『世界が壊れていくのが怖い!』


 胸が締め付けられた。

 猛雄と涙月が見せられたのは「采女を失う恐怖」。采女が見せられたのは「誰からも必要とされない孤独」。そして畏見は「世界が壊れる恐怖」を感じている。


 采女は、胸元に下げていた小さな鬢盥びんだらいに、もう一度意識を集中した。それは彼女の意思に応えるように、みるみるうちに元の大きさに戻る。采女は、その中から丁寧に手入れされた梳櫛すきぐしを取り出した。


「大丈夫だよ……大丈夫……」


 采女は出来る限りの優しい声音で、畏見に語りかけた。そして、彼の髪を梳き始めた。


(確かに、世界が壊れていくのは怖い。でも、それは髷を結うことで防げるんだよ……あなたが、私たちが、この世界を救うことができるんだ)


 彼女は、指先に力を込めた。絡まり、もつれた畏見の髪を、櫛を通す前に、まずは自身の指先で丁寧に解いていく。埃と油で固まった髪は、簡単には解れてくれない。それでも采女は、決して諦めず、一本一本、絡まりを優しくほぐし続けた。

 采女は、畏見の絡まった髪を、辛抱強く指先で解きほぐし続けた。彼の髪は、長年溜め込んだ恐怖と絶望を吸い込んだかのように、重く、淀んでいた。

 その指先からは、まだ微かに怖気が伝わってくるが、采女はそれに耐え、心を込めて髪を梳く。梳くたびに、髪の毛の奥に潜んでいた埃や、乾いた草木のようなものが、パラパラと落ちていく。

 髪が少しずつ滑らかになるにつれ、畏見の表情に、微かな変化が見られ始めた。ぎゅっと閉ざされていた口元がわずかに緩み、彼の目から溢れ落ちていた涙の量も、ゆっくりと減っていく。

 汚れを落としきって、采女は目を疑った。

 畏見は、金髪だ。

 汚れていてわからなかったが、畏見の髪の本当の色は美しい金色だった。


「すごい……」


 采女は、彼の髪全体を束ねると、その質と量を確認した。

 そして、畏見の顔立ちと、彼が司る「恐れ」という感情に似合う髷を思い描く。


(恐怖は、時に人を萎縮させるけど、同時に危険を察知して身を守るための重要な感情だ……)


 それを、表現できる髷。


「よし、決めたよ」


 采女は、優しい声で告げた。


「畏見は、文金風ぶんきんふうにしよう」


 文金風。それは、もとどりの腰を高くし、前に長く突き出した形の髷だ。

 どこか享保あたりの……いわゆる大店の若旦那や通人の好んだ、雄々しさとは反対の清らかな印象を与える髷だ。

 采女は、丁寧に月代さかやきを剃り上げた。彼の顔色が、剃られた部分の肌の白さと対比して、少し明るくなったように見える。

 次に、びんの髪を顔の側から頭頂部へとかき上げ、割れ目をつくらないようになめらかにまとめた。

 髷の根元を高く、急な斜面を描くように結い上げていく。


 采女の指が髪の上を滑るたびに、畏見の表情から、わずかずつだが確実に恐怖の影が薄れていくのが見て取れた。彼の眉間の皺が和らぎ、口元には、安堵ともとれるかすかな息が漏れる。


 最後に、白い元結もとゆいを、巻き方を少なめにして、ふわりと髪に固定した。そして、鬢盥びんだらいから刷毛を取り出し、髷の先に竹串を入れて油をつけ、全体を丁寧に固めていく。采女の指先から、温かい神気が髪へと流れ込み、畏見の心に染み渡っていった。


「よしっ」


 全ての工程が終わり、美しい文金風の髷が、畏見の頭上で完成した。


 髷が出来上がった、その瞬間。


 頭上、影見の谷の暗闇を切り裂くように、一条の清らかな光が降り注いだ。

 その光は、まるで畏見の新しい髷を祝福するかのように、彼の頭上で煌めく。彼の顔に直接光が当たると、もうそこには、先ほどまでの怯えや絶望の色はなかった。彼の瞳は、澄んだ光を宿し、その表情は、どこまでも晴れやかだった。深い森の奥から、ようやく光を見つけたかのような、清々しい解放感が満ちている。


 光の中で、白いもこもことしたゆめはみたちが、喜びを表すかのように、ふわりふわりと体を揺らし、舞っていた。彼らの小さな体は、光を反射してきらめき、まるで谷に舞い降りた雲の精のようだ。彼らは、畏見から解放された恐怖の悪夢をすっかり平らげ、今やその役割を終え、穏やかな祝福の舞を捧げているかのようだった。


 采女は、自分の手で生み出した髷と、恐怖から解き放たれた畏見の晴れやかな顔を交互に見つめていた。


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