三柱目、恐れの神・畏見

第18話 髪切りの誘い

 御殿に戻った采女は、疲れと安堵からか、深い眠りに落ちた。

 ふと、どこからか呼ぶ声がして、采女は薄く目を開けた。

 目覚めると、部屋はまだ明け方の薄明かりに包まれている。


「おーい」


 采女は枕から頭を浮かせると、布団から這い出して、立ち上がる。


「おーい」


 それは、懐かしい、父の声だった。


「采女ー……」


 羽織を着て、導かれるように御殿の外へ出る。

 目の前には広大な草原が広がっていた。

 荒廃していたはずの神域は、じょじょに瑞々しい姿を取り戻しつつあった。草は一層青みを増し、枯れていたはずの小川は澄んだ水を湛え、かすかなせせらぎが聞こえる。

 朝露を宿した草葉がきらめき、遠くの森からは鳥のさえずりが聞こえてくる。空は淡い群青から藤色へと移ろい、清らかな朝の気配が満ちていた。

 その草原の向こうに、一人の男が立っていた。

 見慣れた、父の姿だ。


「お父さん!」


 采女は声を上げて父を呼んだ。そして、喜び勇んで駆け寄った。父は両腕を広げて采女を受け止める。その腕は、温かく、力強かった。


「心配したんだよ、采女。ずっと、ずっと心配で……」


 父の声が降ってくる。采女の頭を撫でるその手に、これまでの苦労と安堵が込められているのが伝わった。


「今まで良く頑張ったね。さあ、帰ろう」


 父はそう言って、采女の背中を優しく叩いた。

 采女は顔を上げ、父の指差す方を見た。すると、空間が紙のように音もなく裂け、その向こうに、見慣れた実家が現れた。軒先には、母が立っている。


(お母さん)


 心配そうな顔が、采女に気づく。ふわりと微笑んだ。そして、手招きをする。

 その光景を見た采女の胸に、どうしようもないほどの強い郷愁が押し寄せた。

 温かい家、優しい両親、全てが、あまりにも魅力的で、手を伸ばせば届きそうだった。


 その瞬間、ふと、毛羽毛現の長老の言葉が脳裏をよぎった。


「誰からも忘れ去られる存在となりますじゃ」


 契約の代償。神域に留まれば、現世の采女は、友人や家族の記憶から消え去るはずなのだ。


「……お父さん……が、なんでここに?」


 采女の口から、疑問が漏れた。

 父が、この神域にいるはずがない。ここに来てから、現世の家族のことは、夢にさえ見ていなかった。この懐かしさは、あまりにも都合が良すぎる。


 采女の言葉に、父の顔が、僅かに歪んだ。


「……勘のいい子は嫌いだな」


 その声は、父のものではなかった。

 低く、野蛮な響きを持っていた。父の姿が、ゆらりと揺らぎ、まるで薄い膜が剥がれ落ちるように、元の姿へと戻っていく。

 そこに立っていたのは、紫色の髪を逆立て、パンクファッションに身を包んだ、痩身の青年だった。その瞳は細く、嘲るように歪んでいる。


「俺は髪切り。君に逢いたくて来たんだ」


 髪切りは、そう言うと、抱きしめる腕の力を強めた。采女はぞっとし、身をよじって抵抗する。しかし、彼の腕は鉄のように強く、逃れられない。


「へへ、これが結びの手かあ……可愛いね。腕を切って飼ったら、もっと可愛くなるだろうね」


 髪切りは、采女の腕を掴み、その指先から肘にかけてを、ぞっとするような熱い舌でゆっくりと舐め上げた。その粘つく感触に、采女の全身に悪寒が走る。胃の奥からこみ上げる吐き気を必死に抑え、采女は再び身をよじった。

 その時、背後から彼女の名を叫ぶ声がした。


「采女っ!」


 采女が振りかえる。水の奔流が彼女の体を絡め取り、髪切りの腕から引き離す。

 直後、炎の弾丸が、髪切りの胸を目掛けて飛んでいく。髪切りが、それをハサミで跳ね返した。大きな、鋭いハサミだ。


「ちっ!」


 髪切りは、舌打ちを一つすると、ハサミを空中に突き出した。空間が音を立てて切り裂かれ、闇色の亀裂が走る。


「采女!」


 気がつくと、采女は涙月に抱きかかえられていた。その腕は、温かく、震えている。

 猛雄が息を切らして駆け寄ってきた。


「女!」


 髪切りが、空間を押し広げる。


「采女、また会おうね」


 そう言うと、不思議な笑みをたたえたまま、髪切りは空間の中に音もなく消えていった。


「……っ!大丈夫かっ!?」


 猛雄が勢いよく采女を振り替えった。二柱の神の顔に、心底からの心配が浮かんでいる。


「……」


 采女は、もう帰れないはずの現世の、温かい実家の幻影を思い出し、胸が詰まった。

 あの契約は、やはり現実だったのだ。こらえきれずに涙が流れる。采女は、すぐに手のひらで自身の頬をパンパンと叩いた。涙粒が散って、キラキラと輝きながら草の上に落ちて行く。


「だ、大丈夫……!」


 采女は、震える足で、それでもしっかりと大地に立ち直った。


「奴は何者だ? 見たこともない奴だったが……」


 猛雄が腕を組み、険しい顔で呟く。


「僕も、あんな邪悪な気配は初めて感じた」


 と、涙月が静かに同意した。

 切り裂かれた空間は、ゆっくりと、しかし確実に閉じていく。まるで何事もなかったかのように、元通りに塞がっていくその裂け目を、采女はただじっと見つめていた。

 その背筋を、冷たいものが駆け上がり、采女は身を震わせた。




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