第16話 涙月の髷、結うぞ!

「やったあ!」

「悲しいの無くなるよ!」

「嬉しいよ!」


 霧が晴れ、暮野杜火くれのもひたちの喜ぶ笑い声がこだまする中、采女うねめ涙月なるみの前に静かに膝をついた。


 采女は、首に掛けていた小さくなった鬢盥びんだらいにそっと触れた。

 すると、手のひらの中でそれは瞬時に膨らみ、元の大きさに戻った。木製の蓋が静かに開く。中には、磨き抜かれた櫛や、鬢水の入ったひょうたんが、整然と並んでいた。


 采女は、まず柘植の梳櫛すきぐしを取り出した。髪を梳く時に使う櫛だ。そして、手を伸ばして涙月の青い髪にそっとそれを通した。彼の髪は、まるで深い湖の底に沈む藻のように、雫のように細く、弱々しかった。触れるだけで今にも崩れ落ちてしまいそうな儚さだ。櫛の刃が髪に触れると、ひんやりとした冷たさが采女の指先に伝わってくる。


「きゃっ」


 いきなり髪の中から小さな沢蟹さわがにが、飛び出してくる。続いて、まだら模様のカエルが、彼の髪の奥から顔を出した。彼らは、驚いたようにせかせかと地面に落ちた。ぴょんぴょんと跳ねて淵の中へと消えていく。

 それでも采女は、手を止めなかった。

 彼女は、悲しみを洗い流すかのように、怯まず怯えず、何度も何度も丁寧に櫛を動かし、髪に付着した見えない「汚れ」を取り除いていった。


 櫛を通すごとに、涙月の体が微かに震えた。深い溜め息と共に、か細い声が漏れる。


「……気持ちいい……」


 その響きは、安堵を含んでいた。胸が締め付けられる。采女は、わざとニッと微笑みを浮かべた。

 髪は、丁寧に梳くことで汚れが落ち、本来の輝きを取り戻しつつあった。


「よし……」


 次に、采女は鬢水を鬢水入れに入れ、梳櫛をひたしてその櫛で彼の髪を優しく洗い始めた。清らかな水が髪を伝い、悲しみの重さで凝り固まっていた癖を、ゆっくりと解きほぐしていく。水が滴り落ちるたびに、彼の髪は僅かずつだが、しなやかさを取り戻していく。


 髪を洗い終え、水気を丁寧に拭き取ると、采女は残された髪をひとまとめに束ね、その長さと質感を確かめた。そして、少しの間、目を閉じて深く考える。


(彼の悲しみを包み込む髷……)


 どんな髷がいいだろうか。小銀杏?



「よし、決めた」


 采女は目を開き、力強く、しかし柔らかな声で告げた。


「涙月さんには……金魚本多きんぎょほんだを結うよ」


 金魚本多。それは、ゆったりとした曲線が特徴で、水の流れや優雅に泳ぐ金魚を思わせる、繊細で美しい髷だ。悲しみの神である彼に、金魚本多は、まさにうってつけだった。


 采女は、覚悟を決めたように携帯バリカンを手に取った。その刃が唸りを上げる。毛羽毛現に充電してもらっておいて良かった。

 涙月の繊細な髪が、躊躇なく刈り取られていく。三分刈りにされた頭部は、青白かった彼の肌を露わにする。その姿は、どこか幼く痛々しいほど繊細だ。

 采女は、残りの短い毛をシェーバーで丁寧に剃り上げていく。ショリショリと小気味よい音が響き、彼の頭は次第に滑らかな感触へと変わっていった。


 とうとう月代さかやきが出来上がる。

 髷頭まげがしらを少し剃り気味にしたそれは、彼の顔つきをすっきりとさせ、どこかほがらかな印象を与えた。それは、深い悲しみに覆われていた彼の、内なる美しさを引き出すかのような深い月代だった。


(いよいよ、髷を結おう)


 采女は、残された髪の根元を高く持ち上げ、慎重に、そして細く髷を形作っていった。

 彼女の指先が、まるで生き物のように髪の上を滑り、一本一本に魂を込めるかのように結い上げていく。悲しみに打ちひしがれていた髪は、采女の手によって、力強く、しかし優雅な曲線を描き始めた。


 白い元結もとゆいをしっかりと結び、髷を固定する。

 最後に髷の先端を少し切って、先を散らす。


 そして、それはついに完成した。


 目の前には、水面にゆらめく金魚のように、優雅で美しい金魚本多を結った涙月がいた。

 彼の髷は、悲しみの青い髪とは思えないほど、清らかで艶やかだ。彼の顔はまだ悲しみを湛えていたが、その瞳の奥には、確かな光が宿っていた。


 暮野杜火たちが肉球のある手をいっせいに叩く。


「嬉しいよ!」

「髷だよ!」

「神様、正気に戻った!」


 バフバフとくぐもった拍手の音があたりに響く。涙月が微笑した。








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金魚本多髷の涙月の挿絵

https://kakuyomu.jp/users/agtagt/news/16818792436543947961


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