第13話 過去の悲しい思い出たち
その淵は、神域にある北の森の奥深くにあった。名も無き淵は、昼間も晴れない深い霧の中で冷たい水面をたゆたわせていた。
采女は、草を踏みしめながら森の中を歩いていた。猛雄が先に立って、鉈を振るいながら道を切り開いている。
霧が深いせいで、淵の水際までは飛んでいけなかった。
御殿から涙月のいる地帯まで飛んで行き、森の入り口からここまで歩いて進んだのだ。
霧の濃い森は、一寸先も見えない白い闇に閉ざされている。
重く、陰鬱な雰囲気の霧だ。周囲の景色は急速に霞み、視界は数メートル先すら見通せない。
「灯りがいるな」
猛雄が、片手を掲げる。炎がその手の中に燈り、腰に下げていた携帯がんどう……江戸時代に作られた、懐中電灯のような形をした夜道を行く時の明かりだ……に移される。
そのがんどうを片手に持つと、猛雄はもう片方の手で鉈を振るって前に進んだ。
「猛雄……涙月ってどんな神様なの?」
「あいつは……」
霧は、ひんやりと、そしてねっとりと絡みついてくる。猛雄が鉈を大きく振るって、霧を切るように手を動かした。
「あいつは悲しみの化身だ。失われたものに執着していて、特に俺たちにとって重要な髷が忘れ去られていくことを大層悲しんでいた」
「髷が……忘れ去られる……」
「そうだ」
「でも髷はもう……」
「ああ、失われて久しい。涙月は今、どんな悲しみのどん底にいるか……」
そう言いかけて、猛雄はハッと顔をあげた。がんどうを持って、鉈を構える。
「何……?猛雄……」
「しっ、誰か来る……」
霧の向こう、遠くから、子供達の歓声が聞こえてくる。采女はどきりとした。子供?
声は、明らかに人間の子供のそれだった。神域にも、人間の子供がいるのだろうか。歓声は、どんどんこちらに近づいて、足音と共に現れたのは、半透明の子供達だった。
「えっ!?」
采女はぎょっとして子供達を見た。驚いたのは、その顔に見覚えがあったからだ。
半透明の子供達は、采女の小学生のころの同級生たちだった。
同級生たちは、パタパタと足音を響かせながら采女の周りを取り囲む。
『やーい!
『またじゆうちょうに
『やーいやーい!』
「んな……っ!」
同級生たちは、采女を囃し立てる。その足元から、ワックスをかけた床がじわりと現れる。
教室の床だ。
「えっ!?えっ!?」
気が付くと采女と猛雄は小学校の教室の中にいた。同級生たちが席につく。教室では、半透明の生徒たちが原稿用紙に何か書きつけている。教壇には教師がいた。
その教室を見た瞬間、鮮やかな記憶が、采女の脳裏に蘇る。
あれは、まだ幼かった頃、「将来の夢」について卒業文集を書いた時だった。
「女……ここは……お前の記憶が再現されているのか……!?」
猛雄が、守るように采女に近づき、周囲を
『では、一人ずつ発表していきましょう』
教師が一人一人生徒を指名していく。クラスメイトたちは、医者になりたい、野球選手になりたい、アイドルになりたい、と目を輝かせて大きな夢を語った。
『次、
「わ、私は」
采女が、言いよどむ。教室の誰もが、采女を見つめていた。
「私は、髪結いさんになって、髷を結いたいです!」
一瞬、教室がしんと静まり返った。すぐに、くすくすと、小さな笑い声が聞こえ始める。
『なにそれ、まげって? ちょんまげのこと?』
『時代劇の真似?』
『そんな仕事、今はないよ』
先生も、困った顔で采女を見た。
『
「何で……こんな……」
采女は、ぐっと唇を噛んだ。何で今更、こんな風景が目の前に再現されているのだろう。
先生の声は優しかったが、采女にはそれが、自分の夢を否定されたように聞こえたのだ。
なぜ、こんなにも美しい髷が、誰にも理解されないのだろう。なぜ、こんなにも惹かれるこの技術が、時代遅れだと笑われるのだろう。
「だから……」
あの日から、采女は、自分の髷への愛を、誰にも見せないように心に深く閉じ込めるようになった。
友人との会話では、流行の髪型や芸能人の話に合わせ、決して自分の秘めた情熱を口にすることはなかった。大人になって「かつら部」に就職できてからも、「髷が好きです」と表向き言うだけで、本当の理由は……「いつか本物の人間の髪で、歴史に息づくような荘厳な髷を結い上げてみたい」という狂おしいほどの夢は、誰にも打ち明けることはなかったのだ。
また、笑われたら。
馬鹿にされたら。
采女が、ぎゅっと目をつむった。こめかみに汗が滲む。
『いやあ!ザンギリ頭っていうのは気持ちのいいモンだね!』
『まったくだ!髷は面倒臭かったからなあ……』
霧の向こうから、また声がして猛雄と采女が同時に振り返る。見ると、半透明な髪の短い洋装の男達が、歩き去って行く所だった。
「これは……」
猛雄が眉根を寄せる。采女は、突然見知らぬ人々が出て来たので、物珍しそうに首を伸ばして消えていく姿を見送った。
けたたましい「ジョキン、ジョキン」という機械的なハサミの音が、何十、何百と重なり合い、神域に似つかわしくない、無機質な響きだ。
歩き去って行く人々の後ろから、現代の街並みが立ち現われる。
人々は洋装に身を包み、彼が長年見守ってきたはずの髷を結っている者は、どこにもいない。
スクリーンに映し出された時代劇の俳優が、不自然なかつらを被って笑っている。若者たちは、「時代遅れ」「面倒」「ダサい」と、気軽に髷を嘲笑する。
そして、その幻影の中心に、まるで時間が止まったかのように静止した、かつての神の姿があった。それは、まだ神として完全な形を保っていた頃の、威厳に満ちた姿だった。
彼は、変わりゆく人々の姿を、ただ静かに見つめている。
彼の瞳からは、微塵の感情も読み取れない。だが、采女には分かった。その無表情の奥で、彼の魂が砕け散る寸前のガラスのように震え、そして少しずつ、亀裂が入っていくのを。
『我らは……見捨てられたのだ』
幻影の神が、初めて声を発した。その声は、今采女の隣にいる猛雄の唸り声とは異なり、張り詰めた糸が切れるかのような、絶望的な諦めに満ちていた。
彼の言葉と共に、幻影の髪が、見る見るうちに乱れ、一本一本、生命力を失っていく。そして、彼の肉体が、内側から激しく軋むような音を立て、眩い光を放ちながら、五つの存在へと分裂していく。
光が収まると、そこには、采女が御殿で初めて見た、蓬髪の五人の男たちが、虚ろな瞳で立ち尽くしていた。
「……俺達の悲しみの記憶の残滓が、反響している……」
「どういうこと?」
「……これは俺とお前の悲しい思い出だ。霧を通してこの場に化現したのだろう。そしてこの霧は……おそらく涙月の能力だ」
がんどうを拾って、猛雄が再び火をつける。
采女の心臓が、ドキドキと痛んだ。猛雄と采女は、また霧の中を歩き始めた。
『髷なんて変だよ』
半透明の女の子が、急に現れて言い残し消える。入れ替わり立ち代わり、采女のつらい記憶たちが、道々に出現しては消えた。采女は、自分の衿元をぎゅっと掴んで俯きながら歩き続けた。
『髷が好きなんだって?変な奴!』
(痛い……)
『卒業文集の話聞いた?采女って超変わってるよねー』
女子高校生の一団が、そう言い残しそっぽをむいて歩き去る。
(痛い……っ)
気持ちが、痛かった。
かつら部に勤め始めて忘れていたが、具体的に形になって現れると、思い出は物凄く痛かった。
足取りが遅くなり、体が重くなっていく。
「女」
猛雄が、鉈を腰の鞘に入れて采女を振り返る。腕が伸ばされて、彼の手が、采女の手をそっと握りしめた。
「涙月の気配がする……もう少しだ」
励まされて、采女は顔を上げた。猛雄はうなずいて、前を向いた。彼の美しいうなじが見える。
「猛雄……!」
采女は、目を見開いた。
そうだ。
そうだ。猛雄だ。
(だから、毛羽毛現から「髷を愛する心を持つあなたにしか、神の髪には触れられない」と告げられた時嬉しかった)
自分の存在が、自分の愛するものが、初めて心から必要とされた。
(髷が結えることって、私には光だった)
それは、長年抱えてきた采女の苦しみを、一瞬にして吹き飛ばすほどの、強烈な光だった。
「猛雄、ありがとう……」
采女は、猛雄を見上げた。
(私、もうあの頃の私じゃない)
そこには、強く、そして温かい光が宿っていた。
「……頑張れ!」
猛雄が采女に声をかける。采女は、足を引きずりながら、それでも何とか前を向いて歩いていた。やがて、霧の中に、ぽつんと丸い淵が見え始める。
「あそこだ!」
猛雄が、がんどうでその淵の中心を指し示す。
そこには、長い蓬髪とした髪の、悲しみの神が腰まで水に浸かって佇んでいた。
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