第8話 猛雄の髷、結うぞ!

 ポタポタと、前髪から水の雫が落ちる。その顔には、先ほどまでの破壊的な衝動の跡が、汗と煤となって残っていた。猛雄は、夢から醒めた後のような呆然とした表情で、腕の中の采女を見下ろした。


「ここは……お前は……?」

「たけおたまーっ!」


 毛羽毛現が、猛雄の周りに集まって来る。


「フモモ!なんと嬉しや!五十年ぶりの正気のたけおたまじゃ!お懐かしゅうございますじゃ……!」


 長老がけむくじゃらの顔を喜色満面にしてぴょんぴょんと鞠のように跳ねる。


「五十年……?はて……そんなに時が経ったか……まるで夢を見ていたようだ……毛羽毛現たちよ……面倒をかけたな……」


 猛雄は、すり寄る毛羽毛現たちの頭を撫でながら、彼らをねぎらった。それから、猛雄はゆっくりと采女にまた視線を戻した。


「お前は……」

「あの……あたし……!」


 至近距離で見つめられて、采女の頬が紅潮する。髪で隠れて見えなかったが、近くで見ると、この人すごくカッコイイ。

 血色の良い肌、彫が深く、顔立ちがはっきりしている。眉は濃く、目はぱっちりとした二重。まん丸な金色の瞳は、吸い込まれそうだ。鼻筋は通っていて、口はちょっと大きめで……さっき口づけた唇だと思うと、余計にドキドキしてしまう。

 猛雄が、そっと采女の頬を指先で撫でる。爪の分厚い、大きな手だ。

 撫でられて、采女は思わず薄目を閉じた。何とも言えない熱い感覚が、体を突き抜ける。

ける。


「お前……思い出した……草原で三々九度をした……そうか……」

「はい」


猛雄が、采女の背にそのがっしりとした両手を伸ばして、その体を掻き抱く。


「俺の、花嫁……!」


 そろそろと手を伸ばして、采女が微笑みながらポンポンとあやすように彼の背中を叩く。広い広い、大きな背中だった。毛羽毛現が何か黒いものを持って来た。よく見ると、それはバリカンだった。


「バリカンあるんだ……」


 采女が、呟く。毛羽毛現が、そっと采女に耳打ちした。


「うねめたま、時間がありません。たけおたまは口づけで一旦荒ぶる気が収まりましたが、このままではすぐ神気は切れ、再び狂える神に戻ってしまいます」

「分かった」


 采女は、猛雄の胸から身を離すと、彼を見上げて言った。


「猛雄さん、髷を結わせてください」

「髷を?采女、お前が?」

「はいっ!」


 采女は、猛雄の腕の中を飛び出して、ぎゅっと胸の小さな鬢盥びんだらいを握りしめた。シュンと言う小気味いい音がして、鬢盥びんだらいが大きくなる。

 采女は、それを滝つぼの岩の上へ置くと、猛雄の所へ戻って彼の手を取った。


「来てください!」

「あ、ああ……」


 猛雄のが立ち上がり、采女に従って岩の上へ腰かける。

 采女は、まず磨き抜かれた櫛を取り、猛雄の荒れた髪にそっと通した。


(硬い……)


 彼の髪は、長年の怒りによって固く絡みつき、櫛はなかなか進まない。それでも采女は諦めず、一本一本丁寧に、根元から毛先まで梳きほぐしていった。櫛を通すごとに、猛雄の髪から熱気が抜け、絡まっていた感情が解き放たれていくかのように、さらさらと音を立て始める。


「よし、次は月代さかやきだ」


 月代さかやき

 髷の一番ユニークであるだろう部分だ。

 本来、月代さかやきを剃らずとも、髷は作れる。総髪と言うやつだ。

 でも、毛羽毛現が持って来たのはバリカンだった。

 その意味は一つ。

 月代を采女のこの手で剃ると言うことだ。

 月代の作り方は、動画で見たことがある。そう言う動画があることを、采女は知っていたのだ。何度も何度も再生したから、手順はすっかり覚えてしまっていた。

 もちろん、采女は月代を剃るのは初めてだ。


(上手くやってみせる)


 意気込んで、采女は、猛雄の頭頂部の髪を丁寧に集め、しっかりと結び上げた。これは、後の月代さかやきを剃るための準備だった。分け目をつけて、周りの髪と分ける。


「バリカンちょうだい!」


 毛羽毛現がやって来て、パクリとバリカンのコンセントの先を加える。

 采女は、まばたきしてバリカンを受け取ると、試しに電源を入れてみた。

 その刃が唸りを上げる。


「わっ!すごい」

「我ら体に静電気を貯めますじゃ、お使い下され」

「ありがとう!よーし!」


 采女は、唇をぺろりと舐めて、猛雄の分けられた頭頂部の髪にバリカンを当てた。猛雄の逆立った髪が、ごっそりと刈り取られていく。熱気を帯びた赤い髪が、音を立てて岩に散らばる。采女は迷うことなく、彼の頭頂部から前頭部にかけてを、手際よく五分刈りまで剃り上げていった。剃られた部分からは、彼の肌が露わになる。


 バリカンで剃り終えると、毛羽毛現の一匹が、何やら筒とビニールに包まれたT字型のものを掲げながら持って来た。筒には、シェービングクリームと書かれていた。T字型のものはシェーバーだろう。采女は目を丸くしてそれを受け取った。


「シェーピングクリームまであるの!?シェーバーも!?」

「現世で買ってきましたじゃ」

「どうやって!?」

「みんなで肩車して……コートと帽子で体を隠して……」

「そんな……!みんな……!」


 采女はいたく感動して、シェービングクリームの筒を抱きしめた。


(大事に使おう……!)


 采女は頷いて、その筒をカシャカシャ振ると、蓋を取って中のクリームを手に乗せた。


「ちょっと、冷たいですよ」


 そう言って、采女は剃り上げたばかりの猛雄の頭部にクリームを丁寧に塗り広げた。

 ひんやりとしたクリームの感触に、猛雄の体が微かに震える。

 次に、シェーバーを手に取り、なめらかに滑らせていく。

 ジョリジョリと小気味よい音が響き、彼の頭は次第に青々とした月代の姿を現していった。


「心地いい……さっばりするのはいつぶりだろう……」


 猛雄が、うっとりと呟く。采女は、額の汗を拭った。

 采女が作り出した月代は、一般的なものよりも狭く、武骨で力強い「講武所風」の月代だった。


「できた!」


 しかし、これで終わりではない。

 采女は、鬢盥びんだらいからハサミを取り出して、猛雄のの長い髪の毛先に当てた。

 不揃いになった髪を梳き、切り揃える。ざんばらに伸びていた髪は、采女の手によって肩胛骨あたりまでの長さに調節された。切り落とされた毛先は、まるで魂の残滓のように岩に、猛雄の肩に舞い落ちていく。


「よしっ!ここからが本番!」


 最後に、采女は残された髪を丁寧に撫でつけると、鬢盥びんだらいの中へ手を入れて、そこから硝子の容器を取り出した。中には、髪を撫で付ける用の鬢水びんみずが入っている。

 采女は、それを櫛に付けて髪全体を撫で付けはじめた。

 本当はコテでやるのだが、この見事な赤毛を焦がしてしまわないために、今回は

 一本一本、彼の髪が采女の持つ櫛を滑り、清らかな形へと変わっていく。

 髷が完成に近づくにつれ、猛雄の暴走した力が、収まっていくのを采女は感じた。

 最後に、采女は鬢盥びんだらいからびんつけ油と呼ばれる、すき油を取り出すと、手で髪の両サイドから、後頭部の巡に塗りこんでいく。


『采女は本当に髷が好きだねえ』


 母の声が脳裏をかすめる。いつも芸子さんの髪を撫でていたお母さん。采女は仕事場についていっては、黙って飽きずにずっとそれを見つめていた。そして、その時間が、今の采女を助けてくれていた。


 何度か工程を繰り返し、髪を束ねる。元結と呼ばれる和紙で出来た紐を手に取って、采女はそれを髪の根本に巻き付けて、歯と手できつく締め上げた。途中でほどけてしまわないように、ゆるまないように。願いを込めて。

 汗が滝のように采女の額から流れ落ちていた。もう少し、あとちょっと。

 束ねた髪を、髷棒でくるりと折り曲げる。采女は、息をつめてそれを、月代にそっと乗せた。


「完成……!」


 采女が、ほっと詰めていた息を吐く。髪を高く結い上げ、采女は髷を完成させた。


 猛雄は、その間、身じろぎ一つせず、ただ采女の指先の動きに意識を集中させていた。

 毛羽毛現が、鏡を持って猛雄の前に立つ。


「これは……」


 猛雄は、感嘆の声を漏らした。そこにあったのは見事な髷姿の猛雄だった。

 彼の体に満ちていた負の気が浄化され、代わりに温かく澄んだ神気が満ちていく。

 雲が散り、パッと日の光が髷を照らす。どんよりとしていた空はすっきりと晴れていた。

 荒廃していた庭に、小さな草花が芽吹きはじめる。

 猛雄の瞳には、もはや怒りの炎はなく、静かで深い光が宿っていた。


「采女……!」


 猛雄が振り返る。采女は、したたる汗を腕で拭って、猛雄に向かって深く頷いた。


「ありがとう……」


 彼が、立ち上がる。すると、肩や着物についた髪が、発光して一瞬で燃えてなくなった。


「たけおたま、お召替えを!」


 毛羽毛現が、猛雄に着物を持って来る。

 紫色の縞の小袖と、真っ赤な龍と炎の描かれた黒い羽織を着て、真っ赤な腹切り帯をつけた猛雄は、背筋を伸ばして采女の前に立った。


「わあ……!」


 ほれぼれするほどの男ぶり。采女は、口をポカンと開けて、猛雄をじっと見上げていた。










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