ターン5 母の鬼ブロック
いま俺の目の前に、天使がいる。
本当に背中に翼が生えているだとか、頭の上に輪っかがあるだとかいうわけじゃない。
翼が生えた種族は、この世界に実在している。
天翼族っていうね。
だけどそんな天使モドキよりも、俺の妹の
トコトコと歩く、花柄のベビー服に身を包んだ赤ん坊。
婆ちゃんゆずりの、健康的な褐色肌。
髪と瞳の色は紫。
地球じゃ馴染みのなかった色だけど、アメジストみたいでとても綺麗だ。
ヴィオレッタは今日もその可愛らしさで、クロウリィ家の全員に笑顔をもたらしていた。
可愛いだけじゃなく、とても賢い。
1歳半なのに、もう俺のことを「おにーたん、おにーたん」と呼んでくれる。
歩き始めたのは、1歳になるより前だった。
ものすごく早熟な、天才児なんじゃなかろうか?
俺はというと、生後3ケ月でハイハイを始め、半年で歩き始めた。
だけど転生者というチート野郎なので、自慢にならない。
絶対ヴィオレッタの
俺とオズワルド父さんは、ヴィオレッタの急激すぎる成長を素直に喜べないでいた。
このままあっという間に成長して、嫁に行ってしまうのではないか――と。
自宅のリビング中を、ヴィオレッタが歩き回る。
その様子を見守りながら、俺が何をやっているかというと勉学&トレーニングだ。
いかにもなトレーニングは、両親に見つかるとまた止められてしまう。
だから、こっそりとやっている。
我が家の数少ない
その上に座り、両足は微妙に床から浮かせているのさ。
バランスボールを使った、体幹トレーニングみたいなもんだ。
さらに同時進行で、読書もしている。
絵本、「ユグドラシルと火のマナ」。
けど、この絵本はダミー。
その内側に隠して読んでいるのは、「マリーノ国経済史」だ。
何でレーシングドライバーを目指すのに、経済の勉強をしているのかって?
そりゃレースに出資してくれるスポンサーさんと、そういう話をするためさ。
スポンサー企業の社長さんとかと、経済の話ができるようでないと。
出資する価値のないアホだと、見限られてしまう。
体幹トレーニングと、読書と、ヴィオレッタの見守り。
これら3つを同時にこなすことで、脳の平行処理能力も鍛えようという欲張りコースだ。
俺の擬態は完璧。
ボールに座って絵本を読んでいる、どこからどう見ても普通の子供だろう。
最近ちょっと、悩んでいる。
前世の記憶を持つ転生者であることを、そろそろ両親に告白するべきかどうかを。
いくら前例があるからって、転生者は異質な存在だ。
見た目は子供なのに、中身が大人なんて。
正直に告げてしまっては、気味悪く思われてしまわないだろうか?
そんな不安が邪魔をして、なかなか言い出せない。
転生者であることを、
だけどそいつは、もったいない。
俺みたいに前世でもレーシングドライバーだった転生者は、
――というわけで、どこかのタイミングで両親に
「俺は転生者だ」って。
レーシングドライバーを目指すことも、早めに宣言しておいた
読書しながら、そんなことを考えていた時だ。
突然、本の上に影が差した。
「ずいぶん難しい本を読んでいるのね、ランディ」
視線を上げると、シャーロット母さんの顔があった。
俺の背後から頭越しに、本を覗き込んでいる。
「あははは……。この本、難しくてよくわかんない。絵を見ているだけだよ」
上手い誤魔化し方を考えていなかった俺は、思わず適当にすっとぼけてしまった。
それを聞いた母さんは、ピクリと片方の眉を釣り上げる。
そして俺の手元から、本を取り上げた。
ダミーの絵本ではなく、経済史の
「ふーん。この本には挿絵も写真も、全然入っていないみたいだけど? それでもあなたは、『絵を見ている』って言うのね」
「嘘つくんじゃねえ!」と、言いたげな表情。
母さんは俺に、冷たい怒りのこもった視線を投げつける。
や――やだなぁ、母さん。
そんなに怒っては、せっかくの美人が台無しですよ?
「ランディ、大事なお話があります」
「はい……」
有無を言わせぬ母さんの迫力の前には、素直に従う以外の
俺は母さんに
俺の隣には父さん。
斜め向かいには、子供用の椅子でテーブルの高さまできているヴィオレッタ。
もう1人で、椅子に座れるようになるなんて――
やはり賢い!
そして正面には、母さんが座る。
俺の見え見えの嘘に対する怒りは収まったようで、冷静そうに見える。
――いや、違うな。
母さんはちょっと、戸惑っているようだ。
母さんは
父さんが静かに
母さんは、俺の目を見ながら話し始めた。
「あのね、ランディ。お父さんとお母さんね、最近あなたを見て思うのよ。ランディって……その……。私達が思っているよりも、ずっと大人なんじゃないかって……」
――来た。
俺がグズグズしているうちに、両親の方が先に気づいたんだ。
親って生き物は、俺が思っているよりずっと子供の様子に敏感なんだな。
落ち着け、俺。
いつかは、言わなければならなかったことだ。
俺は、息を大きく吸い込んだ。
静かに、自分の心を落ち着けるように、言葉を
「……うん。俺には、前世で大人だった時の記憶があるよ」
そして何か言おうと、口を開きかけた瞬間――
俺の隣でガタン! と、椅子の倒れる音がした。
振り向くと父さんが立ち上がり、肩をワナワナと震わせている。
「ランディ……。お前……お前……」
あっ。
この後のリアクションは、予想がつくぞ。
「スゲェエエエエーーーー!! あのアクセル・ルーレイロと、同じってことか!?」
うん。
父さんは、喜んでくれるんじゃないかと思っていた。
なんてったって転生レーサー、ルーレイロの大ファンだからね。
「ルーレイロと同じで、地球のレーシングドライバーだったんだよ。この世界でも、レーサーに俺はなる!」
追加情報と宣誓に、父さんの喜びはさらにシフトアップ。
「わはははっ! よく言ったぞ、ランディ! なんたってこの世界じゃ、レーシングドライバーはスーパーヒーローだからな。男の子なら、夢見て当然! 目指せ、アクセル・ルーレイロ! ラムダ・フェニックス! デイヴ・アグレス!」
著名な転生レーサー達の名前を挙げながら、父さんは俺を抱え上げた。
高い高いしながら、何回転もスピンを決める。
なんだ、緊張して損した。
こんなに喜んでくれるんなら、もっと早く打ち明ければ良かった。
「父さん。俺、早くレースを始めたい。まずは
バァン! と、激しい破裂音がした。
まるで、何かが爆発したんじゃないかと思うような。
それは母さんが、両手の平でテーブルを叩いた音だった。
スピンモードだった俺と父さんは、時間が止まったかのように回転をやめる。
しんと静まり返った室内に、母さんの怒声が響き渡った。
「ダメです! ウチには息子をレーサーにするような、経済的余裕はありません!」
ちょっとビックリ。
母さんはテレビでレースの中継が流れていても、ニコニコと笑顔で観ていたから。
確かにレースはお金がかかるし、ウチが貧乏なのは分かっていた。
だけどこんなに強く反対されるなんて、予想外だ。
俺の夢は、スタート直後からリタイヤの危機を迎えた。
「待て待て! シャーロット! まだ3歳の子供相手に、そんな夢も希望もないことを……」
「あなたは黙ってなさい! おこづかいを、減らされたいの!?」
そのひと言で震えあがり、190cmの巨体を縮みこませる父さん。
おいおいおいおい。
もうちょっと、援護射撃してくれよ。
くそっ、マズいな。
母さんの理解が得られないと、子供の内からモータースポーツにかかわるのが難しくなる。
理解してもらえないどころか、野望に向かって全開加速をしようとする俺に対してブロックをかます気だ。
そこで俺は、こんな説得を
「母さん、心配しないで。お金はあるところには、いっぱいあるんだよ? 自分が持っていなかったら、いっぱいもっている人に出資してもらえばいいんだ」
3歳児らしくない発言だとは思う。
だって、中身は大人だもの。
間違ったことは、言ってないだろ?
ランドール・クロウリィは、自分で営業のできるドライバーを目指します。
「ふーん。『出資してもらう』ね……。そんなにスポンサーが寄ってくるほど、あなたは地球で凄いドライバーだったの?」
――ギクリ!
こいつはまずい質問だ。
正直に答えようもんなら、スポンサー獲得なんて夢のまた夢と鼻で笑われてしまう。
ここは、ホラを吹いてしまえ。
どうせ地球にいた頃の情報なんて、母さんには知りようもない。
「ルーレイロと同じ、F1っていうレースのドライバーだったよ」
「嘘つくんじゃありません!」
0.1秒で看破されて、俺はウッ! とたじろいだ。
ああ。
転生して、すっかり忘れてた。
俺って嘘ついたりとか演技したりとかって、めちゃくちゃ下手くそだったっけ。
学芸会とかで劇をやる時は、木か岩の役が俺の指定ポジションさ。
「F1。ル・マン24時間。インディカーに
母さん、やけに地球のモータースポーツ
転生者が地球のレースはどんなもんか伝えるから、本とかラウネスネットには詳しく書いてあるんだけどさ。
「レーサーを目指したら、ダメなの?」
こうなったら、泣き落とし作戦だ。
俺は青い瞳を涙で
「嘘泣きしたって、ダメです! ……もっと安全な、他の夢を追いなさい。車が好きなら、自動車メーカーの社員とかを目指せばいいじゃない」
母さんの表情は、悲しそうだ。
本当は俺に、レースをさせてあげたいのかもしれない。
でも、ウチにはお金が無いから――
やめだ。
これ以上は、両親に悪い。
今日のところは、これで引き下がろう。
なんとかレース資金を得る方法を見つけられれば、母さんの考えは変わるかもしれない。
「わかったよ……」
そう告げた俺の頭を
「分かってくれたのなら、いいわ。レーシングドライバーはね、お金のある人だけが目指していい仕事なの。私達普通の人は、観て楽しめればいいじゃない」
その言葉は、自分自身に言い聞かせているように俺には感じられる。
母さんは笑顔を取り戻したけど、そのヘーゼル色の瞳はどこか寂しそうだった。
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