第2話 家族会議

薄曇りの空に、一筋の風が通った。六月の山里は、しっとりとした緑に包まれていた。雨こそ降ってはいないが、木々は水をたっぷりと含み、葉の先から時折、透明なしずくをぽたりと落とす。


すみれは、小さな庭の端に咲く額紫陽花を見つめていた。まだ蕾のような花房が、淡く水色に色づきはじめている。誰に世話されるともなく、雨と土だけを頼りに静かに咲こうとしているその姿に、なぜか自分の姿を重ねてしまった。


兄・尚親と、その妻・静子の死から三日。屋敷の空気は未だ喪に沈んだままだった。だが、その静けさの裏では、すでに新たな火種がくすぶりはじめていた。


——次なる当主は、誰か。


綾小路家の本家は、異能の“血”を受け継ぐ者によって受け継がれる。その者は予知夢を見る力を持ち、なおかつ正統な血筋を有していなければならない。かつては明確に「男子に限る」とされていたが、現代では時代に即してある程度の柔軟性も見られるようになっていた。


だが、それでも“異能”だけは譲れない。


そして、すみれにはそれが——なかった。


「予知夢が見えない」


ただ、それだけの理由で、すみれは長らく「当主の妹」ではなく、「ただの女中」扱いを受けてきた。仕方のないことだと、ずっと思っていた。綾小路家では、夢を見ることが“家系に値する存在”の証だったから。


兄の死後、本家の血筋を継ぐ者は、すみれ一人になった。けれど、それが何になる?


「夢を見ぬ者に、家を託すわけにはいかぬ」


そんな声が、仏間の奥から聞こえてきたのは、その日の午後だった。


遺族の礼を終えた親族たちが、葬儀の余韻が冷めぬうちに集まり始めていた。応接の座敷には、分家筋の代表者たちが勢揃いし、綾小路家の後継について話し合いを始めていた。


障子越しに聞こえるその声は、誰かが声を張り上げるというよりも、むしろ抑制された怒気と利害が静かにぶつかりあう、冷えた政治の会議のようだった。


「すみれ様、よろしければお下がりくださいませ」


女中頭が背後からそっと声をかける。すみれは障子の手前で座ったまま、かすかに頷いた。


「……大丈夫です。ここにいたいの」


「……わかりました。でも……どうか、お身体だけはお気をつけください」


「ありがとう。お気遣い、感謝します」


女中頭が遠慮がちに去っていくと、再び廊下に静寂が戻った。だがその奥では、確実に家の未来が塗り替えられていこうとしていた。


「当主が亡くなった今、後継を立てる必要がある」


「しかし、候補は少ない。血筋の上では、神崎の家がやや遠いが、あの少年・桐矢は……」


「神崎桐矢、か。あの子は触れるだけで人の未来を読み取れるという噂もある」


神崎桐矢——その名は、すみれも知っていた。北の分家に属する若者で、わずか十七歳にしてすでに「一族随一の能力の持ち主」として噂されている人物だ。人の手に触れるだけで、その人の感情や、数日先の未来を読み取れるという。だが、血統的には本家筋からは遠く、正当性には欠けるとされてきた。


だが今、彼が「当主候補」として名乗りを上げているのだ。


「確かに能力の純度は高い。だが、あの家の祖は五代前で分家したはず……」


「今さら血筋にこだわっても始まらん。大事なのは、“力”だ。異能がない娘に家を託せない」


「そうだ、あんな能力のない娘なんぞが、この本宅にいるのはふさわしくない。早々に出ていってもらう」


ざわり、と空気が揺れるような気がした。


その時だった。


「……すみれ様。少し、お時間をいただけますか」


呼ばれて振り向くと、若い女中の志乃が気まずそうに立っていた。


「来客ですか?」


「……はい。あの……神崎桐矢様と名乗る方が……」


一瞬、時が止まったように感じた。


応接間ではなく、すみれに“直接”会いに来たというのか?


その意味を正しく理解する前に、すみれはゆっくりと身を起こし、座敷へと向かった。




そこにいた少年は、噂よりもずっと静かな存在だった。


背丈はまだすみれよりもわずかに低く、しなやかな体躯は細身だった。だが、どこか空気を裂くような気配がある。目元が涼やかで、形のよい眉が凛としている。濃い黒髪を後ろで一つに束ねており、その仕草や立ち居振る舞いは、年齢にそぐわぬ大人びたものだった。


「綾小路すみれ様ですね。初めまして。神崎桐矢と申します」


その声音は落ち着いていた。すみれは礼を返す。


「こちらこそ、お噂はかねがね。遠路、お疲れさまでした」


「早速ですが、話があります。できれば、少しお時間を」


その目は、まっすぐにすみれを見ていた。曇りのない瞳。嘘も打算も、表面には見えない。けれど、その静けさが逆に、何か深い場所を隠しているようにも思えた。


「……構いません。お話、伺います」


「ありがとうございます」


桐矢は一歩踏み出すと、静かに、けれどはっきりと言った。


「僕と、結婚をしてください」


すみれは思わず、息を飲んだ。


「……け、結婚……?」


「正式な夫婦関係を結びます。ただし、それはあくまで“形式”です。感情も、愛情も、不要です。必要なのは立場と、それによって得られる権利だけ」


その言葉の切れ味は鋭利だった。すみれは驚きつつも、思わず問い返す。


「……どうして、私に?私には異能がない。結婚したところで……」


「逆です。あなたは本家唯一の生き残りで、血筋においては正統性がある。あなたと婚姻関係を結べば、僕は“正当な後継者の夫”になれる。そして当主になった暁には、あなたは妻として変わらずこの家に住み続けられる。あなたをこの家から追い出す必要もなくなる」


「……取引、ということですね」


「そう思っていただいて構いません。今のままでは、新しい当主の邪魔になって追い出されることを、あなたが一番わかっているはずだ」


すみれは目を伏せ、そっと拳を握った。


冷たい話。情のかけらもない。けれど、彼の言うことは的確で、残酷なまでに正しかった。


「……ひとつ、条件を付けてもいいかしら」


「内容によります」


「婚姻の後も、私は今まで通り働きます。屋敷の人々と同じように、女中として」


「……あなたは、本家の娘だ。婚姻を機に、その立場は——」


「異能がない私にとって、立場は意味を成しません。だからこそ、私は“できること”で生きていたい。それが家事であっても、掃除であっても」


桐矢は数秒、何かを考えるように沈黙し、そして頷いた。


「いいでしょう。その条件、受け入れます」


「……ありがとう。では、契約しましょう。私とあなたは、形だけの夫婦になります」


その瞬間、部屋に吹いた風が、座敷の障子を揺らした。


けれど、その風はどこか違っていた。すみれがこれまで一度も感じたことのない、何かが始まる気配——運命の歯車が、静かに軋みを立てて回り始めた音が、確かにそこにあった。

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