白き花嫁は夢を見ず
千明 詩空
第1話 異能なき令嬢
初夏の朝、屋敷の庭には薄紅色の芍薬が咲いていた。葉擦れの音に混じって、風鈴が小さく揺れ、清らかな音色を立てる。空は高く晴れわたり、絹のような雲が東へ流れていた。
綾小路すみれは、台所に立っていた。白い割烹着を身につけ、手早く胡瓜の浅漬けを仕込みながら、火加減を見るために鍋の蓋を少しだけずらす。中では大根と人参、干し椎茸が淡い琥珀色の出汁で静かに煮え立っている。ほんのりと甘い香りが立ち上り、冷えた空気の中にやさしく広がった。
炊事場は広く、煤で黒ずんだ梁がむき出しになっているが、柱も棚も清潔に拭き込まれていた。床板には少し古びた艶があり、幾年もここで繰り返された朝の営みを物語っていた。
「……塩加減、よし」
すみれは匙で一口味を見て、微かに頷く。味覚には自信があった。子どもの頃から家事を任され、毎日欠かさず作ってきた味噌汁や煮物は、屋敷に仕える女中たちからも「おふくろの味みたい」と評判だった。
だが、彼女は本来なら「作る側」ではなかったはずだ。
綾小路すみれ——この屋敷の当主、綾小路尚親の妹。れっきとした本家の血筋でありながら、「予知夢」の能力が一切ないという理由で、幼いころから静かに“座敷の隅”へと追いやられてきた。
予知夢の一族——それはこの綾小路家の誇りであり、呪いでもあった。
先祖代々、「夢の中に未来を見る力」を持ち、代々その能力によって政や経済に影響を与えてきた名門。その力は、たとえ時代が科学に傾いてもなお衰えることなく、神秘として尊ばれ、時には恐れられてきた。
しかしすみれには、その“夢”が一度も訪れなかった。十歳を過ぎても、十三になっても、何も見えなかった。ある日、兄・尚親が静かに言ったことを、今でも覚えている。
「すみれ……お前は、外の世界のことを、少しずつ学んでおきなさい」
異能なき者がこの家で生きていくには、何か“別の力”が要る。兄のその一言を、すみれは呪いのようには受け取らなかった。ただ、やさしく突き放されたのだと感じた。
以来、すみれは台所に立ち、庭を掃き、女中として屋敷の裏方を支えるようになった。
けれど彼女は、涙をこぼしたことはなかった。
異能がなければ生きられないのなら、異能などなくても生きていけるようにすればいい。炊事、洗濯、帳簿の読み書きに加えて、世の中の流れも勉強した。新聞を欠かさず読み、時事問題を記した古い帳面を何冊も作った。兄嫁・静子の妊娠に備えて、医術や薬草の知識も独学で学んでいた。
——自分にできることを、最大限にする。
それが、すみれの誇りだった。
「すみれ様、お味噌汁、もうできますか?」
台所の戸口から声がかかった。顔を覗かせたのは志乃、十七の若い女中で、すみれが唯一、妹のように思っている存在だった。
「ええ、もう少しよ。今日は豆腐とわかめにしたの」
「やったぁ……すみれ様の味噌汁、大好きなんです」
志乃は瞳をきらきらと輝かせ、笑顔を浮かべた。その無邪気さに、すみれもふっと口元を緩める。
「お茶碗の準備、お願いできるかしら?」
「はいっ!」
志乃は小さく返事をして、軽い足取りで去っていった。すみれはもう一度味を見てから、味噌をすくい入れ、火を止める。ぐつぐつという煮立ちが静まり、出汁と味噌の香りが湯気に乗って、部屋中を包んでいった。
この静けさが、すみれは好きだった。
朝の屋敷は、凛とした空気に包まれている。台所から聞こえる湯の音、庭の掃除をする箒の擦れる音、廊下をすべる足音——そういった日々の響きが、すみれにとって何よりの安心だった。
「……本当ですの?赤子が……?」
すみれは、仏間で兄嫁・綾小路静子の前に正座していた。静子の頬は、うっすら紅潮している。
「ええ。お医者様が確かに、と仰っていたわ」
その瞳に宿る光を見て、すみれも自然と笑みが溢れた。
「おめでとうございます、静子姉さま。本当に、嬉しい……!」
「ふふ、ありがとう、すみれちゃん。私たちも長らく願っていたことだったから……」
赤子。つまり、正当な血筋を継ぐ、未来の当主候補。
屋敷の空気が、ぱあっと明るくなった。祝言のように料理が振る舞われ、使用人たちにも祝儀が配られた。すみれもまた、喜びの中にいた。
この日常がずっと続けばいい。心から、そう思っていた。
けれど、それは突然に破られる。
昼を過ぎ、日が少し傾いた頃だった。兄・尚親と兄嫁・静子が、外出から戻らない。
最初は、道が混んでいるのだろうと誰もが思った。だが夕刻になっても姿を見せず、夜の帳が落ちるころには、屋敷中が不安に包まれていた。
そして深夜、知らせが届く。
「当主様と奥様が……谷底で……」
使いに出された若者の声が、がたがたと震えていた。
「……遺体で……発見されました……」
その言葉は、屋敷の空気を凍らせた。
誰かが悲鳴をあげ、誰かが地に膝をついた。静子が宿していた子も、まだ命としてこの世に姿を見せる前に、母とともに失われたのだった。
すみれは声を出さなかった。涙も流れなかった。ただ、強く拳を握りしめた。まるでそれが、唯一の感情の支えでもあるかのように。
廊下には、香の匂いが漂いはじめた。仏間には白い布が敷かれ、兄の遺影が飾られた。喪服に身を包んだ親族が集い始め、屋敷の空気は完全に“死”の色に染まっていった。
そんな中で、ある噂が静かに流れ始める。
「……異能なき者が、家にいるから……災いを招いたのでは……?」
耳を澄まさなくとも聞こえてくる、ささやき声。
すみれは、俯いたまま何も言わなかった。
だが、それが始まりだった。
“異能なき令嬢”を本家から追い出す動きが、ひそやかに、しかし着実に始まろうとしていた——。
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