傷心

@le_kamui

これも随分昔に書いた、なんでこんな話をかいたのか

「どうなってもいいのよ、わたしなんか」

 そういった彼女は17歳だった。いまなら年端もいかない小娘の気取りとしか思えない一言だ。事実、そういう部分はあったのかもしれない。しかし、いくらかは本気だったような気がする。嘘をつくときは、まずその嘘をつく本人が信じることだという。彼女は自分の嘘を信じた。

 あのとき彼も17歳だった。高校2年生のときに彼女は転校してきた。表情が暗かった。彼女は一人でいることを好み、友達を作ろうとしなかった。転校してきてしばらくすると、彼女に関する様々な噂が流れた。

 以前いた学校で問題を起こし転校してきた。彼女の両親は離婚している。彼女は不良連中とつきあいがある。子どもを堕胎したことがある。そういったことはすべて噂だった。彼女が本当は何者なのか、誰も知らなかった。彼がそれを知ったのは、ずっと後になってからだった。

 彼女は様々な噂をまとっていた。暗い噂は、ときに人を魅力的に見せるということを彼女は知っていたのだろう。そこには彼女の演出も、いくらかあったのかもしれない。いや、あったのだ。いまはわかる。

 彼女がどんなふうに自分を演出していたにしても手首の傷跡はたしかにあった。その傷は新しいものではなかった。17年分の過去しかない彼女の遠い過去。早くから彼女は人生に絶望していた。どうなってもいいといった彼女の言葉には、やはりいくらかの真実は含まれていたのだろう。

 それから15年後、ドアが開いて彼女が店に入ってきた。彼は不意打ちをくらったような気分だった。やってくる彼女はなぜか15年前の彼女のような気がしていた。しかし、現れた彼女は、暗い表情の17歳ではなかった。32歳の大人の女性だった。

 店内を見回し、すぐに彼を見つけると、その顔に笑みが浮かんだ。彼はまた小さなショックを受けた。別人を見たような気がした。15年前、彼女は笑顔を見せたことがなかった。彼女はやってきて彼の前に座った。そのときもまだ微笑みを浮かべていた。

「久しぶり」

 彼は無言で彼女を見つめていた。

「どうかした?」

「笑顔をはじめて見た」

「あのころとはちがうわよ。もう32歳よ」

 彼は自分の年齢を思った。知らぬ間に歳月は過ぎていくのだ。17歳と32歳の彼女が重なって見えた。変わらない部分と変わった部分、彼はそれを見つけようとした。が、できなかった。17歳の彼女と32歳の彼女は、微妙に入り混じっていて、似ているようで似ていなかった。あるいは似ていないようで似ていた。

 なぜかわからないが彼は少し不安な気持ちになった。彼女から視線を外し、店内を見た。この店を指定したのは彼女だった。はじめてくる店だった。彼女とはいつも彼の部屋であっていた。彼女はどうしてこの店を選んだのだろう。

「どうしてこの店なんだ?」

 彼は彼女に視線を戻した。

「はじめてだよね、外で会うのは」

 彼女はいった。質問の答えにはなっていなかったが、彼は妙に納得した。15年前の彼女の声が重なった。不思議なものだ。声は変わらない。いや、変わったのだろうか。

「驚いたでしょう」

「そうだな、驚いたよ」

「わたし、変わった?」

「変わった。あの頃の君は笑わなかった」

「あなたの知らないところで笑っていたのよ」

 彼は苦笑した。それはあったかもしれない。

「わたしはいまのわたしが嫌い」

 15年前、彼女はそういった。暗い眼差しと手首の傷が、その言葉にリアリティを与えていた。あの頃の彼女は、ほんとうに自分を愛せなかったのかもしれない。いまの彼女はどうだろう。静かに微笑む彼女を見る限り、自分のことが嫌いには見えなかった。

 彼女の好きだった歌が、頭の中で聴こえていた。彼女がその歌を好きだといったことは一度もなかった。ただいつも歌っていた。最初に彼女がうたうその歌をきいたとき、のたうちまわるような曲だと思った。

 彼女が彼のところにきていたのは高校2年生の夏から約半年間だった。来るたびに彼女は、その妙な重苦しい歌をうたった。呻くようなその歌は、少しハスキーな彼女の声によくあっていた。実際にそれを歌った歌手の声はハスキーどころではなかった。

「なんて歌なんだ?」

 三度目にその歌を聴かされたときそうきいたことを彼は覚えていた。

「わたしも知らないの」

 彼女はいった。彼は唖然とした。たぶんそうだったはずだ。いまは、苦笑が漏れる。

「どうしたの?」

「いや、ちょっとね」

「なによ、気持ち悪い。久しぶりに会ったのよ。いってよ」

「昔のことを思い出したのさ」

 いったとき、彼女の表情が一瞬だが曇ったように見えた。

「昔の、どんなこと」

「君が歌ってくれたうたのことだ」

「わたしが歌ったうた……」

「『傷心』というんだろう」

「そうよ」

「18年前に流行った曲だった」

「そうだったかしら」

「そうだよ。君が歌っていたのは1996年だ。歌が流行ったのは1978年だった。18年前だ。あのときぼくたちは17歳だった。ぼくたちが生まれる前に流行ったんだ」

「よく知っているわね」

「君が教えてくれないから自分で調べた」

「いつ?」

「君がいなくなった後だ」

 彼女の顔に苦笑が浮かんだ。

「知っていたのに、どうして教えてくれなかったんだ」

「わたし、美人じゃないでしょう」

 彼は応えられなかった。15年前にも彼女は同じことをいった。しかし、あのときはいまのように笑っていなかった。あのときも彼はすぐに答えることができなかった。

「なによ、どうして黙るの? (なによ、どうしてだまっているの?)」

 15年前の彼女の声と、いまの彼女の声が重なった。薄っすらと笑っている彼女と笑顔を忘れてしまったように暗い表情の彼女。変わらないものがあるのだろうか。探してみたが、見つけだすことはできなかった。

「正直に答えていいのよ」

 17歳の彼女は暗い表情のままいった。

「だからね、ちょっと演出したの」

 32歳の彼女は笑みを浮かべていった。

「演出?」

「美人じゃないからね、あんなふうに自分を演出しないと誰も相手にしてくれない」

 彼女は照れたように笑った。作り笑いには見えなかった。彼は彼女を見つめた。自分を演出したのだと彼女はいっているのだ。あのときの自分は本当の自分ではなかったといいたいのだろうか。

「すべてはあなたの気をひくための演出だったのよ。美しくない女はそれ以外のもので好きな相手の気をひくのよ。たぶんそれは許される嘘だと思うけど」

「君は十分魅力的だった」

 それは本当だった。わたし、美人じゃないでしょう。15年前、彼女はそういった。確かに彼女は美人ではなかった。客観的な自己評価だ。しかし、並みの美人よりもよほど魅力的だった。少なくとも彼にとっては。

 いまはどうだろう。懐かしさは感じても魅力は感じない。15年の歳月が彼を変えたのだ。変わったのは彼女だけではなかった。何もかも変わったのだ。あの時、彼は彼女について何も知らなかった。いまは立場が変わった。彼女は彼について何も知らなかった。

 15年後の彼女は彼のことを好きだといった。15年前、彼女は彼のことを一度も好きだとはいわなかった。なぜアパートに遊びにくるのか、理由について一度もたずねたことがなかった。そんなことを気にかけている余裕がなかったというのが真実だった。

「驚いたよ。君から連絡が来るなんて思ってもみなかった。まさかぼくの携帯電話の番号を調べるとは思わなかった。調べられるとも思わなかった」

「調べるのは簡単だったわ。妹さんに教えてもらったのよ。家に電話を掛けた。妹さんがでた。若い妹さんね」

「12歳ちがうからな」

 彼と妹は母親がちがった。それは彼女にも話さなかったことだった。彼の母親が死んだのは、8歳のときだった。自殺だった。母親は精神を病んでいた。父親が浮気をしているという妄想に憑りつかれていた。

 非常に聡明な女性だった。特に記憶力は驚異的だった。何年も前のことを詳細に覚えていて、たった今起きた出来事のように話すことができた。だが、その一方で人間関係に常に問題を抱え続けた。常に孤独で、記憶とともに呼び起される負の感情に苦しめられていた。

 頭の中なかにね、写真機があるのよ。それがわたしを苦しめるの。母親は人差し指でこめかみをとんとんとつつきながらいったことがある。あの時、母親は笑っていたような気がする。彼は母親の虚ろな笑顔が嫌いだった。

 いま考えてみると、母親が記憶だと信じていたもののなかには幻覚が混じっていたのかもしれない。母親が非凡な記憶力を持っていたことは間違いないが、それと同じように、恐ろしくリアリティのある想像力も持っていたのではないだろうか。

 父と母はよく言い争っていた。母親は自分の妄想を現実だと信じ込み、父が何をいっても聞き入れなかった。あの母親の血が自分のなかにも確かに流れている。彼は母親に似て、非常に聡明だった。しかし、自分もいつか発狂するのではないかという不安を抱えていた。いまも抱えている。

 母親が自殺をして2年後に新しい母親がやってきた。優しい女性だった。実子ではない彼を可愛がってくれた。だが、父親と新しい母親は、彼の母親が生きているときから実はつきあっていたという妄想が生まれた。密会する二人の姿が、彼の脳裏にありありと浮かんでくるようになった。

 2年後に妹が生まれたとき、彼のなかで父の裏切りの妄想は、制御できなくなりつつあった。それが妄想であると知りつつ、彼は妄想に引きずられる自分を感じた。そこに自分を生んだ女性の血を強く感じた。家族に対する憎悪が、いつか隠し切れなくなる不安を感じた。

「家を出たいんだ」

 彼はある日父にいった。父親は反対しなかった。息子の中に狂気が芽生えつつあることを、気づいていたからだろうか。高校一年生の夏休みから、彼は一人暮らしをはじめた。家族と距離をとると、少しずつだが、妄想が自分のなかから流れ出していくようだった。

「そんなにちがうの」

「ちがうんだ。おかしいだろう」

「別におかしくはないけど」

 妹は仕事について話さなかったのだ。だから、彼女は連絡してきた。

「久しぶり、誰だかわかる」

 声をきいたとき、すぐに彼女だとわかったのは、後になって考えてみると我ながら驚きだった。彼女の声を聴いたとき、あの歌が聞こえた。『傷心』だ。お互いを想いながらも、気持ちがすれちがい別れていく恋人同士をうたったその歌は、思えばありふれた内容だった。

 その歌はCD化されていた。彼女が最初にどこでその歌を聴いたのかわからなかった。聴く者に強烈な印象を残す曲だった。印象の多くはその女性歌手の声によるところが多いように思えた。凄まじい声が、ありふれた内容の歌謡曲を別次元に押し上げていた。

「暗い歌だよな」

 15年前、彼はいった。

「明るい人生なんてあるの」

「なんだよ、それ――」

「わたしには明るい人生なんてない」

 もしかすると、あのとき自分は彼女の暗い表情のなかに母親の面影を見ていたのかもしれない。彼女の手首に傷があることははじめて彼女がアパートに来たときに気づいていた。彼の母親も手首を切ったのだ。

 彼女がアパートにやってきたのは、転校してきて一か月後のことだった。その日は日曜日だった。本屋にでも行こうと思い、アパートをでたとき、そこに彼女が立っていた。突然、真夏の日差しの下に佇んでいた彼女を見たときは、驚きよりも思考が停止したような気持ちになった。

 彼女とは口をきいたこともなかった。学校でも彼女はひとりだった。一人でいることを少しも苦痛に感じていないように見えた。彼女はすぐにいなくなる。何の根拠もなかったが、そんなことを考えていた。彼女が自分に興味を持っているなどとは、ほんのわずかも考えたことがなかった。

 彼は何も言えず、彼女を見つめていた。いつから彼女がそこにいたのかわからなかった。あのとき、彼女は汗をかいていただろうか。思い出そうとしても思い出せなかった。だが、はっきりと覚えていることもある。彼女がいつまでたっても口をきこうとしなかったということだ。

「どうして……」

 彼の方から話しかけようとしたが、うまくいかなかった。何をいっていいのかわからなかったのだ。

「部屋にいれて」

「え?」

「行こう」

 彼女に突然手を取られた。呆気にとられている彼を引っ張るようにして部屋に向かった。

「中に入れて」

 彼女は何かに憑かれたような目で彼を見つめた。

「どうしてだ?」

 15年前にした質問と同じ質問を彼女にした。いまの彼女はあの時のような思いつめた表情はしていなかった。微笑んでいたが、それでも目の奥に、あの時と同じ闇があるように思えた。

「どうして?」

「どうしてぼくに連絡をしてきた」

「会いたかったのよ」

 彼は唖然とした。そして、思わず苦笑をもらした。

「あの時も同じことをいったよ」

「あのとき?」

「15年前さ。ぼくのアパートにはじめて来たときだ」

 彼女も苦笑して、

「そうね、そんなこともあったかもしれないわね」

 彼は彼女を見つめていた。部屋の前でいつまでいるわけにはいかないと思った。

「わかったよ」

 彼は彼女を部屋に入れた。一人暮らしの高校生にしては部屋は片付いていた。部屋に入って鍵をかけると同時に、彼女にキスをされた。不意打ちのキスに彼は目を丸くした。彼女はしばらく動かなかった。だから彼も動けなかった。

 十秒以上そのままの状態が続き、彼女は離れた。すべてのことに現実感が持てなかった。自分を見つめている彼女も、自分のなかにある狂気が生み出した幻覚ではないかと思えたほどだった。

「本当に、そこにいるのか」

 そうきいた。

「わたしはここにいるわ」

 彼女はこたえた。そういわれてもまだどこか現実のこととは思えなかった。

「怯えているわね」

 彼女にいわれた。たしかに彼は怯えていた。

「わたしも怯えているわ」

 彼女は腕を伸ばし、そっと頬を撫でてくれた。そのとき手首の傷が見えた。どうしてここがわかったんだ。彼はきいた。あなたを尾行したの。彼女は応えた。もう驚きはなかった。ただ、そういうことかと思っただけだった。

 どうして彼女が尾行をしたのかその点についてだけはわからなかった。考えもしなかった。たずねたところで、彼女からまともな返事がきけるとも思えなかった。その頃になると、彼女がどうしてここにきたのかなど、どうでもいいことになっていた。

 思えばあの頃は若かった。そして、彼女は自分よりもはるかに大人だった。あるいはどこかが狂っていた。いまの彼女はどうだろう。いまは狂気よりも疲れているような印象がある。15年という歳月の重みと長さを感じた。過ぎてしまえばあっという間のことだった。

「生い立ちを話してくれたな」

 彼はいった。

「そうだったかしら」

「話してくれたよ。アパートに来るようになって一月くらいたってからだった。父親が犯罪者だといった。ひどい父親で子どものころから家庭内暴力で苦しめられていた。挙句の果てに、強盗傷害で逮捕され刑務所にいるといった。君は何度か自殺未遂をした。父親のせいで地元でいられなくなって、転校してきたんだと話してくれた」

 彼は淡々と話した。父親のことを話したときの彼女を思い出すことができた。暗い眼差しで彼ではないどこかを見つめ、憑かれたように話していた。いまの彼女は薄い笑いを浮かべている。15年前の彼女と今の彼女は別人のようだった。だが、確かに彼女だった。何を考えているのかわからないという点は変わらなかった。

「嘘だったん」

「え?」

「すべて嘘だ――いや、自殺未遂は本当かもしれない」

「それも嘘かもしれないわよ。ちょっと手首を傷つけただけかも」

「かもしれない――君の父親は犯罪者なんかじゃなかった。父親は某保守系の大物国会議員だ。大臣経験者でもある。いまも生きている。君はその議員の愛人の娘だった。マスコミにそのことを嗅ぎつけられそうになって、君と母親はこの街にやってきた。わずか半年間程度で戻ったのは、君らのことを嗅ぎつけたライターが交通事故で亡くなったからだ。それが本当に事故だったのかどうか、それはわからない」

 彼は知っている事実を話した。確かにそういう事故があった。評判のよくないライターが交通事故で死んだ。交通事故として処理されたが、はたしてそれが本当に事故だったのかどうか。

 政界の大物の個人的な秘密を探りだした男が事故に見せかけられて殺される。話としては面白いが、隠し子を知られたからというのは動機として薄弱すぎる気がした。あるいは、ライターはもっと別のことを調べていたのかもしれない。もっと重要な秘密だ。その過程で隠し子の存在を知ったと考える方が納得できる気がした。

「わたしは何も知らない」

「ぼくには判断できない」

「いったでしょう。わたしは美人じゃない。だから、普通のことをしていたんじゃ、好きな人に振り向いてもらえない。ちょっとした演出が必要だったのよ」

「嘘だ」

「どうして?」

「君がアパートに来たのは転校してきて一月だ。好きもきらいもないだろう」

「一目ぼれってこともあるわ」

「信じない」

「どうして?」

「ほんとうにぼくのことが好きだったのなら、真実を話はずだ。最初のときはともかく君はこの街にいた約半年間、ぼくのところに来ていた。週末の土曜日と日曜日はほとんど一緒だった。真実を話すチャンスはあったはずだ」

「あなたはすべてを話してくれた?」

 彼は胸を押されたような気持ちになった。話さなかったことは確かにある。彼は最後まで母親のことは話さなかった。絶対に母親のことは話したくなかった。少なくとも母親への愛情からではなかった。それは恐怖だった。自分がいつか母親のように発狂するのではないかという不安と恐怖だ。

 仮に彼女がその後も彼のもとに遊びに来ていたとしてもおそらく母親のことは話さなかっただろう。絶対に話したくないことはある。彼女が生い立ちを話さなかったのは、自分と同じ理由だったかもしれない。彼女は自分の物語を作った。現実よりも物語の方が落ち着くことがあることを、彼は知っていた。

「どうして、いまさらぼくのところにやってきたんだ」

「さあ、どうしてかしら――自分でもよくわからないわ。あれからいろいろとあったからね、うまくいかないこともあった。だからかな、急にあなたの顔を見たくなったのよ。迷惑だったかしら」

「迷惑じゃないが――」

 彼は言葉を探した。迷惑ではなかった。だが、少しだけ気が重くなっていたかもしれない。彼はいった。

「君を逮捕する」

「え?」

 彼は彼女の名前を呼んだ。

「詐欺容疑で逮捕する」

 彼女の顔に驚きの表情が浮かんだ。

「警察官だったの」

「そうだよ、警察官だ」

「わたしとんでもない間抜けね」

「間抜けだよ。愚か者だ。複雑な生い立ちだったかもしれないが、不幸でななかったはずだ。どうして詐欺なんて馬鹿な真似をした。まさか父親に対する復讐だなんて子どもっぽいことをいうんじゃないだろうな」

「それもあったわ。子どもっぽいかもしれないけれど、あの父親に対する憎しみみたいなものはたしかにあったわ。経済的には十分なことをしてくれた。そういう意味じゃ、あの父親というよりも幸運な自分の人生に感謝するべきかもしれないことはわかっていた。でもさ、お金だけじゃないのよ。きれいごとだといわれるかもしれないけれど、たしかにお金だけじゃない。何よりも、嘘をつくって快感になるのよ。わたしは自分を主人公にした物語をあれこれ想像した。やがて現実よりも嘘の方が居心地がよくなった。だからずっと嘘をつき続けた」

 それも嘘かもしれない。彼にとってたしかなことは、彼女がいくつかの詐欺は働き、逮捕状が出ているということだった。父親は今も現役だったが、その父親の力を持ってもしても揉み消すことができないほどの犯罪を彼女は行っていた。

 指名手配を受けている彼女が刑事である彼のところに連絡をしてきたのは、全くの偶然だった。悪運が尽きた。そういう言い方もできたかもしれない。どうして彼女が連絡をしてきたのか。彼はその理由を知りたくなった。訊ねようかとも思ったが、やめた。真実を聴けるはずもないことはわかっていた。

「もう一回きくよ。どうしていまになってぼくに連絡をしてきた?」

「わからない――疲れていたのかもしれない。自分が追いつめられていることはわかっていた。だからあなたの顔を見たくなったのかもしれない。でも、まさか警察官になっているなんて思いもしなかったわ」

 彼女は本当のことをいっているのだろうか。それともこれも嘘なのだろうか。

「行こう」

 彼は彼女を促して立ち上がった。すでに警察官がこの喫茶店を取り囲んでいた。彼女は少し遅れて立ち上がった。抵抗することなく、彼と一緒に喫茶店を出た。遠く、あの歌が聞こえていた。

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