うわさの真実(中)

  5.「二つの視点」


「お待たせいたしました。お手持ちのVRゴーグルを頭にしっかりとセットし、

 新しい旅をお楽しみください」


「あ、皆さん、これからVR体験なので著作権の関係で配信は一旦終了ですね~

 また夜に配信でお目にかかりましょう♪ ありがとうございました」

ひかりは慣れた手つきで配信を終了した。


 そして、二人がVR機器を装着した瞬間、美しい星空が広がった。

「綺麗ですね……」

ひかりの声が響く。遥も息を呑んだ。自分が関わったシステムが――


「ジジッ」


突然の雑音が音楽に割り込んだ。星空の一角が歪み、デジタルノイズが走る。


「あら? 」


遥に不安がよぎる。これは彼女の設計にはない現象だった。さらに数秒後、

また「ジジジッ」という音と共に、今度は複数箇所で映像が乱れた。


(何かが違う……プログラムに異常が…… )


不安が胸の奥で渦を巻き始めた時、床から機械音と共に立て看板のようなもの

がせり上がった。


「え? こんなの組み込んでないけど? 」


遥の声が震えた。自分が心血を注いで設計したシステムに、知らない要素が紛

れ込んでいる。それは創作者にとって、自分の子供が見知らぬ人に連れ去られ

るような恐怖だった。一方、ひかりは楽しそうにスタスタと看板に近寄り、声

に出して読み始めた。


「『さあ! これから出るヒントを元に、図書館にある物語を奥の書見台に

 セットしてください』だって、皆さ~ん。あ、配信終えたんだった」


遥は言葉を失い、呆然とその場に立ち尽くした。手足が冷たくなり、額に嫌な

汗が滲む。


「誰よ? こんな謎解きみたいな物を差し込んだのは? 」


怒りが喉の奥からこみ上げてきた。声がかすれ、拳をぎゅっと握る。創作者と

してのプライドが、ズタズタに引き裂かれていく感覚だった。ひかりは遥の

様子が急変したことに気付き、そっと顔を寄せた。


「はるちゃん、とりあえず落ち着いて! 肩に力が入ってるよ」


温かな手が肩に触れた瞬間、遥は自分が呼吸を忘れていたことに気付いた。

「あ、ありがとう。そ、そうね、何が起こるかしっかり見届けないとね! 」


その時――

「ドォォォン」


天井から轟音と共に、巨大な影が落下してきた。地面に着地したと同時に、

ドーム全体が振動し、二人の足元が微かに揺れた。目の前に現れたのは、遥の

背丈の三倍はある巨大な木製の馬だった。


「トロイの木馬! 」

「トロイの木馬? 」

二人の声が重なった。


そのニュアンスは全く違っていた。ひかりの声には興奮と歓喜が、遥の声には

困惑と警戒が込められていた。


「さあ! このオブジェから連想できる物語は何でしょう? 」

システムの音声が響いた瞬間、


「イリアス! 」

「マルウェア! 」

二人の声は見事にすれ違った。


「遥ちゃん、なに? マルウェアって? イリアスでしょ! 」

「あ、ごめんなさい。ITエンジニアとして、トロイの木馬は……許すまじ! 」

遥の真剣な表情を見て、ひかりは思わず笑みを浮かべた。


「あはは、意外と遥ちゃんって面白いのね、でも、ここは古典文学の世界

 よ? ホメロスの『イリアス』でしょう? 」

ひかりの言葉に、


「もちろん、その通りね。でも、このシステム何かおかしいのよ…… 」

遥は周囲を見回した。時折走るノイズ、想定外の演出。

しかし、ひかりがじっと見つめる視線に、遥は一人思考の世界に入り込むのを

思いとどまった。


「とりあえず、今はこのまま進めるのが先決ね。ひかりん? 」

「はい、その意気ですよ。遥ちゃん」

「『イリアス』よね? ひかりんは日本の古典だけじゃなく、西洋の古典にも

 詳しいのね」

「いえいえ~、たまたまですよ。さぁ、本を探しに行きましょう」

ヘッドセットを外す瞬間、現実世界の空気がひんやりと頬を撫でた。先ほどま

での星空と音楽が嘘のように消え、図書館の静寂が戻ってくる。


二人は微笑み合い、急いで書架へ向かった。しかし遥の心に、嫌な予感が渦巻

き続けていた。


(このまま体験を続けて、大丈夫なのだろうか…… )


  6.「くすぶる不安」


 二人は急いで書架へ向かった。遥の胸では重いものを抱えながらも、ひかり

は明るい表情で検索パネルに「イリアス」と入力する。


「あった! 3階の西洋古典コーナーね」


 ブックリウムに戻ってきた二人は、『イリアス』を書見台にセットすると、

画面が赤く点滅し、


「ブーッ、ブーッ。ブーッ、ブーッ」

激しく鳴るビープ音に、遥の血の気がサッと引いた。木馬のホログラムには不

具合と思われる激しいノイズが、あちこちに走った。


「遥ちゃん、どうしよう? 何か間違ったのかな? 」

焦るひかりの声を聞いた瞬間、いつもなら真っ先にパニックになる遥が、なぜ

か冷静になった。

「大丈夫よ、ひかりん。ただのエラーよ……プログラムが物理的に危害を加え

 るなんて出来ないわ。たぶん…… 」

自分より慌てる人がいると冷静になれることを感じ、すぐさま対処法を思いつ

いた。


「ひかりん。とりあえずヘッドセットを外しましょう」

装置を剥ぎ取ったひかりは、

「あら、現実世界は何も起きてないわ」


遥はゴーグルのリセットスイッチを探し、システムを再起動させた。


「これで大丈夫なはずよ、ヘッドセットを着けてみて」


これを聞いたひかりが言われたとおりに装着すると、木馬の姿はなくなり、書

見台の奥の扉が開いていた。


「直ったわ! 遥ちゃん、やっぱりプロね」

ひかりの純粋な尊敬の眼差しに、遥の頬がほんのり赤くなり、キャスケットを

少し深くかぶり直した。


「再起動しただけだからこのくらいは……でも、ありがとう。ひかりん」

二人は微笑み合い、開かれた扉へと向かった。遥の胸では不安がくすぶり続け

ていたが、ひかりへの信頼も確かに芽生えていた。


  7.「触れてはいけない境界」


 奥の部屋へ行ってみると、なめらかな光沢を帯びた立体パズルが置いてあっ

た。面ごとに様々な言語の文字が刻まれ、無秩序に色が混ざっていた。


「ちょっと待って! この立体パズルを解かないといけないの? ムリーっ!

 遥ちゃんは得意? 」


遥は下を向いて小刻みに震えていた。ひかりは最初、笑っているのかと思い

「遥ちゃん? 簡単に……? 」

と言いかけたが――


「誰がこんな……私の作品を勝手に変えて……! 」


遥の声がかすれた。キャスケットの縁を握りしめる手に力が入る。まるで父が

突然帰らなくなったあの日のように、大切にしていたものが理不尽に奪われて

いく感覚だった。

「許せない……! また、また私の大切なものが…… 」

遥の顔は怒りと悔しさに染まり、うつむいたまま肩をわずかにふるわせていた。

「えっ……遥ちゃん? な、泣いてるの……? わ、私が解いてみるね。えー

 っと……」

パズルを手にして、クルクルと見回したひかりは、赤面にアルファベットが、

青面にギリシャ文字、白面にカタカナが書かれているのに気付いた。


「あら、パズル解かなくても分かるじゃない! えーっと……」

そこまで言いかけたとき、不意に遮るように、

『オデュッセイア』

遥がぶっきらぼうに言った。こらえた涙が目の縁で光っている。


「この謎解きは遥ちゃんが用意した物じゃなかったのね? 」

ひかりの声に、少しだけ困惑が混じった。さっきまで冷静にプログラムを直し

ていた遥が、なぜこんなに取り乱しているのか理解出来ない。


「でも、子供でも解けるようにした、図書館側の配慮なんじゃないの? 利用

 者の事を考えて……」

「配慮? 」

遥が顔を上げた。

「私の作品を勝手に改変することが配慮? 」


ひかりは息を呑んだ。遥の目に宿る痛みの深さに、言葉を失った。

「……私には、よく分からないけれど」

ひかりは慎重に言葉を選んだ。

「遥ちゃんの気持ちは伝わってくる。でも、最後まで見届けた方が良いんじゃ

 ない? 良かったら一緒に探そ? 」

「……少し一人にさせて」

静かな声だったが、どこか諦めたような響きがあった。ひかりはその言葉

に、胸の奥がチクリと痛んだ。


「そう……わかった。じゃあ、私、一人で探してくるね」


明るく振る舞おうとしたが、声は少しだけ震えていた。立ち上がりながら、

ひかりは振り返った。


「遥ちゃん、私……古典が好きなのは、千年前の人も今の私たちも、同じよう

 に傷ついて、同じように立ち上がってきたからなの。私もその一人よ」


遥は顔を伏せたまま答えなかった。


ひかりがドームから出て書庫の方へ足を運ぶ後ろ姿を、遥はチラリと見上げ

た。体の奥で何かがざわめくような音を立てていたが、それが何なのか分から

なかった。


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