アジサイなぼくら
花守志紀
問題編
午後になって雨が上がった。
雲間からのぞく青空に、ぼくは思い立って家を出る。
降り注ぐ陽射しに町はまぶしく煌めいて見える。下り坂になった石畳の歩道には大きな水たまりがちらほら張り、頭上の空を鮮明に映している。うっかり足を踏み外せば、向こう側の世界に落ち込んでしまいそうだ。
歩道の左手に、赤茶色のレンガ模様の壁が見えてくる。三階建ての雑居ビルで、二階より上は地味な白塗りだ。正面に木目調のドアがあり、その上の庇から吊り下げられた札には「cafe レプリカ」と記されている。
扉のそばの植え込みに向かって、しゃがみ込んでいる男の姿がある。
「おーい、レン」
ぼくが声をかけると、男は振り返って目を丸くした。
「あれぇ、タック。いつの間に帰ってたんだよ」
「昨日さ。ちょうど大学の創立記念日が金曜に重なってね。三連休を利用して、帰ってくることにしたわけ」
「タックおまえ、夏休みも年末もぜんぜん帰ってこねぇんだもんな。もしかして地元に愛想尽かしたんじゃないかって、心配しちまったよ」
軽くウェーブのかかった焦げ茶色の髪に、涼しげな目もと。黒いタートルネックのトレーナーが、痩身によく似合っている。
「ごめんごめん。大学で入ったサークルの活動が、思った以上に忙しくてさ」
「文芸サークルだよな。最初に聞いたときは、万年図書委員のタックらしいと思ったけど、意外とアクティブなサークルなのか」
「まあね。実は活動そのもの以外にも楽しみが……それはともかく、レンも相変わらず写真やってるのか」
ぼくは連也が首から提げている一眼レフカメラに目を留め、次いで彼がそれまでレンズを向けていた植え込みを見やった。こぼれんばかりに咲いたアジサイの花の群れが、雨のしずくを浴びてきらきらと笑っている。
「ああ。けど、これは店のインスタに上げる用だよ。広報の腕を親父に見込まれちまってな。せっかく来てくれて悪いが、いろいろやることが溜まっててすぐには相手してやれねぇ」
「いいよ。おじさんのコーヒー飲みながら、のんびりしてる。ところでこのアジサイ、もしかして植え替えた? 前とは花の色が違ってる気がするけど」
そう尋ねて、深い青をたたえた花たちを観察する。記憶の中で同じ場所に咲いていた花は確か、もう少し赤っぽかったはずだ。
「いや、そういうことはしてねぇと思うぞ。ただ、前に肥料を変えたから、そのせいかもな。アジサイは土壌のpHで色が変わるんだ。確かpHが低い、つまり酸性の土壌だと青くなるんじゃなかったか」
「へぇー、なるほどね」
いろいろと変なことを知っている男である。
連也を店頭に残し、ぼくは扉を開いて中に入った。
カフェ〈レプリカ〉は内装も木目調を活かした素朴な雰囲気。照明は絞られているが、窓が大きいので暗い印象はない。中央の太い柱にはイミテーションの暖炉が造りつけられており、マントルピースに可愛らしいボトルシップが飾られている。
客は窓際の四人がけテーブル席に、若い男女がひと組いるだけだ。男はきれいなマッシュルームカットで、スリムな身体を深緑のシャツに包んでいる。女のほうは明るい茶髪に、クリーム色のオフショルダーのニット。いかにも派手なカップルという感じで、この店の客としては珍しいタイプである。あるいは、しばらく来ない間に客層が広がったのだろうか。
「いらっしゃいませ――おや、
白いシャツの上に紺色のエプロンを着けたマスターが、嬉しそうにカウンターから出てきた。ハンサムな顔立ちは息子の連也に似ており、丸メガネのアクセントが絶妙だ。
「おじさん、こんにちは。オリジナルブレンドでお願いします」
マスターに笑い返しつつ、ぼくはお馴染みの注文を口にした。店の奥のテーブル席に腰を下ろすと、下宿から持ってきていたパトリシア・ハイスミス『11の物語』を読み始める。梅雨の時期に読めばなかなかにぞっとする一冊である。
やがてマスターがカップに注いだコーヒーを運んできたので、読書を中断する。ソーサーからカップを取り上げてひと口。ほっとする味である。この味だけは変わらない。
絶品コーヒーの風味をおともに、魅力的な物語に心の芯まで浸る。まさに至福のひとときだ。しばらくしてマスターが、今度はお冷やのおかわりを注ぎにやってきた。
「卓くん、前に帰ってきたのはいつだった?」
何気ない調子で、マスターが尋ねてくる。気づけば店内にはぼくたちふたりしかいない。
「実はぼく、帰省は初めてなんです。だからレンに会ったのも、去年の引越のとき以来で」
「おや、そうだったのか。連也なら相変わらずだよ。それに篤史くんと未玖ちゃんも、変わらず店に来てくれる」
ふたりとも、ぼくや連也の同級生だ。連也と同じ地元の大学に進学したと聞いている。
「そういえば、
ふと、その名前がぼくの口から転がり出てきた。これまたぼくたちの同級生で、〈レプリカ〉の常連客だった少女。そして、高校時代のぼくにとって少しだけ特別だった相手――
「
思いがけない答えだった。
「そうだったんですか。それは惜しいタイミングでした」
図書室のカウンターの中で読書に没頭していた少女の姿を、ぼくは思い起こす。シンプルに束ねた黒髪に、レンズの厚めなメガネ。校内では目立たない部類の女子だったが、彼女が本に注ぐ一途なそのまなざしに、同じ図書委員のぼくはひそかに淡い感情を抱いていた。
カウンター奥のドアが開き、連也が店内に入ってきた。
「おっ。よかったタック、まだいたか。こっちはようやくいろいろ片づいたぜ」
軽やかに伸びをしながら、連也はぼくとマスターのいるテーブルに歩み寄ってくる。もう首からカメラは提げていない。
「おつかれ。なあ、レン。ぼくが店に来る直前まで、紫野さんがいたんだって?」
ぼくが尋ねると、連也は「はあ?」と目を丸くして、
「響ちゃん、来てたのか? おれ、タックと会うまで十五分くらい外で写真撮ってたけど、誰も店から出てこなかったぞ。響ちゃんがいたのならそれより前か、親父」
「いや? 響ちゃんが帰ったのはそんな前じゃないよ。なんだ連也、写真に夢中になってて気づかなかったのか」
「あれぇ。確かに誰も出てこなかったと思うけどな……気づかなかったのかな」
首を傾げる連也を可笑しそうに見やり、マスターはカウンターの中に戻っていった。
「なあ、レン。紫野さんはいまどうしてるんだ?」
向かいの席に腰を下ろす連也に、ぼくはさらに尋ねる。
「響ちゃんね。おれもあまり会う機会ないけど、タック同様に忙しそうにしてるみたいだぞ。大学では〈オベロン〉に入ってる。ほら、テニサーの」
「へえ、そうなのか」
だいぶ予想外な答えに、ぼくは思わず高い声を上げた。
連也たちの通う大学にテニスサークルはふたつあるが、そのうちの片方である〈オベロン〉は、男女のレベルが高いサークルとして、高校でも有名だった。
「それは紫野さんも、ずいぶんと思い切ったデビューを果たしたね。入れ違いになったのがなおさら残念だよ」
「彼女、かなり雰囲気変わったぜ。なんならあとで会いにいってみたら? 案外、高校時代の想いが叶ったりしてな」
ぼくが彼女に抱いていた感情については打ち明けた憶えはないが、察しのいいこの男のことで、前々から背中を押すような言葉をもらっていた。
「いいよ、紫野さんにはいまのつきあいがあるだろうし、悪いって。ぼくのことなんかより、レン、おまえには誰かいい感じの女子とかいないのか?」
「うーん、ファインダー越しに見る女の子は、それはもう魅力的なんだがなァ……」
「相変わらず、何人も泣かせてるみたいだな」
ふたりテーブルを挟み、他愛のないおしゃべりに花を咲かせる。そのうち外では再び雨が降り出したが、一時間ほどで収まった。陽光がうっすらと辺りを照らし出したのに気づき、ぼくは席を立った。
「それじゃあ、ぼくはいったん行くよ。駅前のほうも少し見て回りたいし。またね。明日、帰る前にもう一度来ると思うから」
「おう、せっかくの里帰りなんだから、ゆっくり羽を伸ばせよ」
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